第6話:すれ違う怒りと、甘い罠の爪痕
翌朝、学園に足を踏み入れた瞬間から、私は強烈な違和感に包まれていた。
「シーリン様、おはようございます。……あの、デール様にまた何か酷いことを言われたりしていませんか?」
「困ったことがあれば、いつでも僕たちを頼ってくださいね」
歩くたびに、面識のないはずのご令嬢や子息たちから次々と声をかけられ、痛ましいものを見るような目を向けられる。
『デール様がシーリン様を嫉妬でいじめている』『シーリン嬢は可哀想な被害者』『グレイスタード殿下が彼女を守ろうと心を痛めている』――。
(……は? いじめ? 心配?)
噂の内容は、デール様が私に物を投げつけていじめたという最悪の悪評。
(確かにデール様は私に物を投げつけたわよ! だけど、あれはホワイト公爵家御用達の最高級の焼き菓子が入った小箱よ!? むしろご褒美じゃないの! それを『いじめ』だなんて、私の尊い思い出をドロドロの悪評に汚した犯人はどこのどいつよ、万死に値するわーーーっ!!)
ゲームのヒロインの身体を借りた私の茶色の瞳に、最推しの名誉を汚された限界オタクの激しい怒りの炎がメラメラと燃え上がる。
この不自然すぎる噂の裏に、デール様をバッドエンドへと引きずり落とそうとする邪悪な影が潜んでいることに、しおりは本能的に気づき始めていたのだった。
デール様の美しき名誉を汚す噂の元凶を、何が何でもこの手で引きずり出して社会的に抹殺してやる。
そう決意し、犯人探しのための情報収集を始めようと裏庭の回廊を早足で歩いていた、その時だった。
「――待ちたまえ、ブラウン伯爵令嬢」
冷徹で、ひどく怒りを含んだ声が私の足を止めた。
振り返ると、そこにいたのは風に揺れる新緑のような髪と、鋭い緑の瞳を持つ美青年――デールの幼馴染でありデールの味方、グリーンタール・コシェフード、公爵家の嫡男だった。
グリーンタールは私を完全に敵視する目で睨みつけ、大股で距離を詰めると、逃げ道を塞ぐように壁に手を突いた。
(え? 壁ドン……? いや、そんなこと考えてる場合じゃないわっ!)
至近距離。激しい怒りで今にも私を噛み殺しそうな彼の目を見つめ返した。グリーンタールは怒りに声を震わせながら、私を激しく責め立てる。
「学園中に流れているあの忌々しい噂……元凶は君だな? 君が悲劇のヒロインを気取って、デールをハメようと嘘を触れ回っているのだろう。お前が犯人だな! 彼女は何もしていない。デールが君を理不尽にいじめるはずがないだろう!」
(はあああ!? 私が嘘を言いふらした!? ふざけないでよ、私はこれからデール様をハメようとしてる奴を炙り出そうとしてるのにっ!何で私がデール様の悪評を自分で流さなきゃいけないのよ、デール様をいじめて傷つけたいのは私じゃないわよ!!)
「……っ、誤解です!」
私はグッと拳を握りしめ、グリーンタールの緑の瞳を見つめ返した。
「私はデール様をハメようなんて1ミリも思っていません! あの噂は完全なるデマです。私は被害者なんかじゃないし、デール様は何も悪くありません!」
「白々しい嘘を……! ならばなぜ、あのような具体的な噂が朝一番で広がっているんだ! 君が誰かに吹き込んだとしか――」
「――そこまでにしてもらおうか、グリーンタール」
緊迫した空気を破ったのは、グレーの髪を揺らして歩いてくる、第一王子グレイスタードだった。
「殿下……っ」
グリーンタールが苦渋の表情で一歩退く。王子は憐れむような目で私を見ると、グリーンタールに向かって冷酷な「事実」を告げた。
「彼女を責めるのは筋違いだ、グリーンタール。昨日、私はこの裏庭で、デールがシーリン嬢に激しく詰め寄っているところをこの目で見た。彼女は本当に、デールからの理不尽な悪意に耐えている被害者なのだよ」
「なっ……デールが、本当に……?」
グリーンタールは目を見開き、大きなショックを受けたように絶句した。自分の幼馴染が本当にそんな真似をしていたのかと、血の気が引くのを感じた。
(違う! クズ王子、お前は余計なことを言うなーーーっ!!)
私の脳内での叫びは届かない。それどころか、王子は一歩私に近づくと、信じられない行動に出た。
「大丈夫だよ、シーリン嬢。怯えることはない。君は私が……この手で必ず守るから」
王子は甘く微笑むと、あろうことか、彼の手で私の頬を優しく、愛おしげに撫でてきたのだ。
(……っっっ!!! 気持ち悪いッッッ!!!)
王子の冷たい指先が肌に触れた瞬間、私は全身に鳥肌が立ち、あまりの嫌悪感と激怒で血の気が引いて顔が青ざめた。触るなクズ! その汚い手で私に触れるな!
そして、グリーンタールの瞳にも、凄まじい怒りの炎が灯っていた。
(殿下……あなたにはデールという、幼い頃から想い合ってきた婚約者がいるというのに……何故、他の女の頬をそんな目で見つめながら撫でているんだ……!?)
グリーンタールは、デールを裏切り、目の前の哀れな令嬢を自分の所有物のように扱う王子の傲慢さに、内心で激しい怒りを燃やしていた。
後ろに控えるアズパープルも咄嗟に止めようとしたが…
「……っ、失礼いたします!」
私は王子の手を強引に振り払うようにして頭を下げ、その場から逃げ出した。
あまりの気持ち悪さに吐き気がした。一刻も早く誰もいない場所で、王子の感触を拭い去りたかった。
息を切らしながら、裏庭のさらに奥、人気のない大樹の陰へと駆け込み、私は自分の頬をハンカチで何度も何度も激しく擦った。
「最悪……! マジで最悪! なんであのクズ王子は、デール様がいるのに私にベタベタ触ってくるわけ!? 吐き気がする!」
一人で怒りに震えていた、その時。
ドォン!!!
凄まじい勢いで肩を突き飛ばされた。
木の幹に背中を打ち付け、痛みに顔を顰めながら見上げると――そこには、肩を激しく上下させ、白銀の瞳に涙を溜めて私を睨みつける、デールの姿があった。
「……デール、様……?」
デールは、自分の婚約者が私を庇い、私の頬を優しく愛おしげに撫でていたあの光景を、またしても目撃してしまっていたのだ。
「最低の泥棒猫……! グレイスタード様を私から奪って、裏で可哀想な被害者のフリをして私を陥れるなんて……! どこまで私を惨めにさせれば気が済むのよ、シーリン・ブラウン!!」
怒りと、絶望と、裏切りの悲しみに声を震わせながら、デール様は私の胸ぐらに掴みかかるようにして激しく詰め寄ってきたのだった。




