第2部:第8話:スペーシング王宮潜入
「――チッ。忌々しい……っ! 一体この国の警備体制はどうなっているんだい……!?」
スペーシング王国のきらびやかな王宮。その華やかな廊下の影で、黒魔女レッド・ビアンカは激しい苛立ちと共に、美しき顔を憎悪に歪めていた。
大国の最高峰の『影』の目を盗み、国境を越えてついに標的であるシーリンのいる王宮へと潜入することには成功したのだ。自らの容姿を自由に変えられる擬態の魔法。これがある限り、どれだけ屈強な近衛騎士が立っていようが、ビアンカにとっては赤子の手をひねるよりも簡単に城内へ滑り込めるはずだった。
だが――王宮の敷地に入ってからというもの、ビアンカの計画は不気味なほど何一つとして上手くいっていなかった。
最初に擬態したのは、王宮に何百人と仕えている、地味な下働きの侍女の姿だった。
どこにでもいる侍女の顔になりすまし、まずはターゲットであるシーリンの寝室や、彼女の動向を探ろうと城内を嗅ぎ回った。しかし、この王宮の防衛網は異常だった。
シーリンのいる正妃の区画は完全に隔離されており、ビアンカがなりすましていた侍女のような格下の使用人には、そこへ近づく権限すら一切与えられていなかったのだ。どれだけ廊下を磨こうが、ターゲットの影すら拝むことができず、ただの無駄骨に終わった。
(ならば、次はもっと『王』の近くにいる人間に……!)
ビアンカはすぐさま術式を唱え、王宮の執務室を頻繁に出入りする、年配の執事の姿へと擬態した。
これなら自然と、国王ブルーコーラルのすぐ近くに寄り、あの忌々しい『香炉の術式を解いた小娘』の情報をいくらでも盗み聞きできるはずだと確信していた。
しかし、それすらも徹底的に弾かれた。
執事の姿で書類をトレイに乗せ、平然とした顔で王の執務室へと足を踏み入れた、まさにその瞬間———。
デスクにいたブルーコーラルは、執事が部屋に入るなり、冷徹な青い瞳をチラリと動かし、一切の感情を排した声でこう告げたのだ。
「――人払いを。私が下げるまで、誰もこの部屋に近づけるな」
「……は、かしこまりました、陛下」
(な……なんなんだい、あの若造は……っ!!)
重要な公務や影からの報告を受けるたびに、王の周囲は恐ろしい速度で完璧な『人払い』が徹底される。あと一歩、あと数秒で決定的な情報が掴めるというところで、ビアンカは何度も何度も、不自然なほど綺麗に部屋の閉め出される羽目になった。まるで、こちらの動きを最初からすべて見透かして、意図的に情報を遮断しているかのように。
情報の得られないもどかしさと、ズタズタにされたプライドの焦りが、ビアンカの理性をじわじわと狂わせていく。
(クソっ!こうなったら……王の最も近くにいる、あの『側近』の姿に擬態して堂々と命令を書き換えてやる……!)
ビアンカは廊下の死角へと滑り込むと、一か八かの賭けに出た。魔力を練り上げ、王の最側近である男の姿へと、衣服ごと完璧に変身を遂げた、まさにその瞬間だった。
コツ、コツ、コツ……。
前方から、規則正しい静かな足音が響いてくる。
ビアンカがハッと顔を上げ、廊下の向こうの角から歩いてきた人物を見た瞬間――魔女の心臓は、恐怖で完全に停止した。
「――? 誰かそこにいるのか?」
変身を完了させたビアンカの目の前に現れたのは、なんと、今まさに自分が擬態したばかりの、本物の『王の最側近』その人だったのだ。
「っ……ひ、ぅ……!?」
本物が目の前から歩いてくるという、スパイとして最悪にして最大の恐怖。
ビアンカは叫び出しそうになる口を両手で必死に押さえつけ、近くのカーテンの陰、大理石の支柱の死角へと、文字通り這いつくばるようにして猛スピードでその身を隠した。
冷たい脂汗が全身から滝のように噴き出し、心臓が耳の奥でうるさいほどバクバクと鳴り響く。
「……気のせいか」
本物の側近が、怪訝そうにビアンカの隠れるカーテンのすぐ横を通り過ぎ、足音が遠ざかっていく。
「はあ……はあ……っ、な、なんなのよ、この王宮は……っ!!」
死角で元の女の姿へと戻ったビアンカは、怒りと、そして得体の知れない強大な『包囲網』の気配にガタガタと指先を震わせた。
偶然だ。すべてはただの偶然に違いない。
だが、どれだけ姿を変えても、するり、するりと情報の核心から遠ざけられ、まるで目に見えない巨大な蜘蛛の巣の上で、いいように踊らされているかのような凄まじいもどかしさとプレッシャー。
だが、プライドを汚したシーリン・ブラウンという小娘の、その首を跳ね落とすためだけに、ビアンカは狂気的な執念で再び姿を変える。
魔女が焦り狂ってじわじわとシーリンのいるプライベートテラスへと近づいているまさにその時。王宮の最深部では、そんな魔女の擬態能力を完全に逆手に取った、黒と金とブルーによる、この世で最も恐ろしい『罠』の作戦会議が、シーリンを囲んで静かに、冷酷に始まっていたのだった――。




