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第29話:『断ることは許さない』、漆黒のお忍びと小鳥の羽ばたき

デールとの至福のお茶会から、さらに一週間後。


今日の私は、これまでの2回のデート前のような絶望的な憂鬱には陥っていなかった。デールがくれた「あの完璧な男たちだって、あなたを前にして内心ドギマギしているのよ」という魔法の言葉が、私の胸に小さな勇気の盾を植え付けてくれていたからだ。


(そうよ! 今日のお相手はあの冷徹な第二王子、ブラックスタード殿下。だけど彼だって男。完璧に見えて、実は裏で余裕をなくしているに違いないわ。よし、今日こそはパニックにならず、毅然とした態度で乗り切って見せるわ!)


フンス、と鼻息を荒くして、私は3回目となる強制デートの待ち合わせ場所――いつもの寮の門の前へと向かった。


しかし、門の前に到着した瞬間、私は足を止めて驚きに目を丸くした。


いつもならそこにあるはずの、大貴族の紋章が入った豪奢な馬車がどこにも見当たらないのだ。代わりに停まっていたのは、市井で見かけるような、実用性重視の地味でシンプルな馬車がたった一台。


そして、その傍らにぽつんと佇んでいたのは――煌びやかな正装ではなく、仕立ての良い、けれど完全に『質の良い平民の服』に身を包んだ、ブラックスタードその人だった。


(えっ……お忍びの変装……!?)


黒髪を少しラフに崩し、いつもの冷酷な王族の威圧感を消した彼は、まるで城下町を歩く裕福な良家の子息のようだった。正装も凶悪なカッコ良さだったが、このギャップのある私服姿も心臓に悪いほど端正で、私の毅然とするはずの決意が早くもブレそうになる。


一方の私はというと、侍女たちが、今回も血眼になって選んでくれた衣装を身に纏っていた。それは、ブラックスタードのカラーである『黒』を基調とした、シックで可愛らしい街娘風のドレスだった。胸元には、彼の瞳と同じ、吸い込まれそうな漆黒のリボンが結ばれている。


「……お待たせいたしました、ブラックスタード殿下」


私がドレスの裾を軽く持ち上げてお辞儀をすると、こちらを振り返ったブラックスタードは、私の姿を見た瞬間、ピキッとその場に凍りついたように動きを止めた。


いつもなら全てを見通すような冷徹な黒一色の瞳が、一瞬だけ、信じられないほど大きく見開かれる。


ほんの数秒の、完全な沈黙。


(……あれ? 今、殿下、一瞬言葉を失わなかった……?)


私の脳裏に、デールのあのイタズラっぽい笑顔が過る。


――『あなたを振り向かせたくて、内心ドギマギしていると思ったら、ちょっとクスッとならないかしら?』


(まさか……本当にドギマギしてる!? あの冷酷無比な第二王子が、私のドレス姿に一瞬、見惚れたの……っ!?)


そう思った瞬間、私の胸の中にあった彼への恐怖心が、ふっと消えていくのが分かった。なんだ、この冷酷な王子だって、私と同じただの人間じゃない。


ブラックスタードはすぐにいつものポーカーフェイスを取り戻したが、わずかに視線を泳がせ、喉を小さく鳴らした。よく見ると、変装用の帽子の隙間から覗く彼の耳の淵が、ほんのりと赤く染まっている。


「……フン。ずいぶんと待たせるな、シーリン。だが……その格好は、悪くない」


彼はぶっきらぼうにそう言うと、私の手を取るためにスッと右手を差し出してきた。


その指先が、いつもの彼からは考えられないほど、微かに、本当に微かに震えているのを、私は見逃さなかった。


「今日は城下町でのデートだ。お忍びだからな、私のことは『ブラック』と呼べ。……さあ、行くぞ」


「はい、ブラック様」


私がクスッと笑ってその手を重ねると、ブラックスタードは、ハッとしたように私を見つめ、それからさらに耳を真っ赤にして私を馬車へとエスコートした。


デールの言葉を盾に、少しだけ余裕を手に入れた私と、完璧な仮面の裏で初めて「ドギマギ」を覗かせた第二王子。


お忍びの馬車は、賑やかな城下町へと向けて、静かに走り出すのだった。



ガタゴトと静かに走り出した地味な馬車の車内。


アズパープルと同じく、ブラックスタードも対面の席に座ってくれたのだが、私はすぐに別のピンチを迎えていた。ブラックスタードが、対面から私を、射抜くような強い視線でじーーーーっと見つめ続けているのだ。


耐えきれなくなった私は、恥ずかしさに負けて思わず顔を伏せてしまう。すると。


「――そう俯いたら、お前の顔が見られなくなるだろう」


低く心地よい声と共に、対面から長い腕がスッと伸びてきた。ブラックスタードの細い指先が私の顎に触れ、優しく上へと持ち上げられる。


強制的に向けられた視線の先、至近距離に、あの凶悪なほど整った彼の顔があった。


(な、なんという破壊力……っ!!)


デールの盾なんて一瞬で粉砕された。私は思わず顔をボッと真っ赤に染め上げ、心臓を激しく暴れさせた。


普段の学園生活では、皮肉や冷徹な言葉しか口にせず、決して愛の言葉など言わないブラックスタード。それなのに、次に出た彼の言葉に、私は戦慄した。


「……本当は、今すぐにお前を抱きしめたいほど……私の心には、お前がいるのだ」


(ちょっと何言ってるか分かりません。現実逃避させてください。今すぐ馬車から飛び降りたいです……!)


脳内パニックを起こしながらも、私は疑問に思ったことを恐る恐る口にしてみた。


「……っ、い、いつからですか? その……ブラック様は、今まで私と直接の面識は、ほぼありませんでしたよね……?」


「ブラック」と愛称で呼ばれた殿下は、白くて端正な頬を一気にボッと赤く染めた。


「私は、お前たちが裏庭の奥に集まっているのを、ずっと隠れて見ていた。君がデールのために、必死に、泥臭く動き回る姿もだ。……それを見ているうちに、私はどうしようもなく君と直接、話がしたくなった。だからあの時、一人になったタイミングを狙って話しかけに行ったんだ」


「でも……あの時のブラック様は、私に対してすごく冷たい態度でしたよね?」


私は小首を傾げて、初めて彼に「何を企んでいる」と冷たく質問された瞬間のことを思い出した。


すると、ブラックスタードはきゅっと唇を噛みしめ、切なげに黒い瞳を揺らした。


「……お前に、私のこの気持ちを気づかれるのが……怖かったのだ。……だが、あの社交会の後から、ブルーコーラルがお前を我が物のように扱う姿を見せつけられて……もう、どうしても、いても立ってもいられなくなった……」


冷徹な仮面を完全に脱ぎ捨て、一人の「恋に焦る男」として切ない表情を向けてくるブラックスタード。


デールのお茶会で清々しい気持ちを取り戻したはずの私は、城下町に着く前の馬車の中で、早くも彼の不器用で熱い告白を前に、今日何度目か分からない限界突破の大パニックを起こしていたのだった――。

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