第2話:運命の一目惚れ
「――おい、そこの君」
鼓膜を震わせたその声に、私の心臓は嫌な音を立てて跳ね上がった。
(嘘。嘘でしょ……!?)
恐る恐る振り返ると、そこにはグレーの髪を微風に揺らし、こちらをじっと見つめている第一王子、グレイスタード・ファンナステッドの姿があった。
ゲーム画面で何度も見た、あの端正な顔立ち。しかし、私としての脳内は「うわ、クズが来た」という嫌悪感で一色に染まる。
「入学式の最中、妙な動きをしていたね。前の生徒の影に隠れて、私から逃げようとしていただろう?」
王子のグレーの瞳が、面白そうに細められる。
その瞬間、私の頭の中はパニックを起こしていた。
(なんで!? なんで見つかってんのよ!!)
私は完璧に気配を消していたはずだ。前の生徒の身長だって計算して、完全に死角に入っていた確信がある。私のこの地味なブラウンの髪と瞳は、華やかな学園の中では背景の壁紙と同化していたはずなのに。
そこで、私の脳裏にゲームの『本来のシナリオ』がよみがえり、背筋にドッと冷たい汗が吹き出した。
(ま、まさか……あの一目惚れイベントの強制力なの!?)
そうだ。原作ゲームでの入学式イベント。
新入生総代として壇上に立つ王子グレイスタードは、退屈そうに新入生席を見渡したその瞬間、一人の可憐な少女と目が合う。
それがブラウンの髪と瞳を持つヒロイン、シーリン。
大勢の生徒の中で、なぜか彼女からだけ目が離せなくなり、王子が激しい衝動と共に『運命の一目惚れ』を果たすという、全ルートの起点となる超重要ロマンチックイベント――!
(私は絶対に目を合わせないように、必死でダチョウみたいに首をすくめて隠れてたのに! なんでピンポイントで視線が誘導されてるのよ! 呪いか!? 魅了の魔法の呪いなの!?)
ロマンチックでも何でもない。私にとっては、最推しのデール様を破滅へ導く恐怖のデスフラグが強制発動した瞬間だった。
(ふざけないで。そんなフラグ、絶対に成立させないわよ……!)
王子は今、ゲームの補正のせいで「自分から隠れようとする、はにかんだ可愛い令嬢」として私を見ているに違いない。
私はグッと拳を握りしめ、顔を引きつらせながらも、全力で「ただのモブ貴族」を装うための営業スマイルを貼り付けた。
「……っ、お初にお目にかかります、グレイスタード殿下。ブラウン伯爵家が娘、シーリンと申します。……あの、大変恐れながら、何か大きな誤解をされているおそれがございますわ」
「誤解?」
「はい。私はただ、殿下のあまりにも神々しい新入生総代としてのお姿に気圧され、己の身分の低さを恥じて、思わず後ずさりしてしまっただけにございます。決して、逃げようなどという不敬な意図はございません!」
一息に、完全に目が笑っていない鉄のビジネススマイルで言い切った。
私の脳内は今、「お願いだから私に一目惚れなんてしてないで、早く婚約者のデール様のところへ行って!!」という悲痛な叫びで満ち満ちていた。
しかし、私の必死の拒絶は、グレイスタード王子の耳には全く違う意味で届いたようだった。
「……なるほど、そういうことか」
王子はふっと表情を和らげ、グレーの瞳に甘やかな光を宿して私を見つめてきた。その顔は、完全に「健気で可憐な少女を見つけた」と言わんばかりの、誰もが惚れてしまうだろうの笑みを浮かべていた。
(は? なんでそんな優しい目をしてるわけ? 恐怖なんだけど!)
「そんなに卑下しなくて大丈夫だよ、シーリン嬢。君はとても美しい。自分を卑下せず、もっと堂々としていてほしいな」
「……はい?」
あまりのすれ違いっぷりに、私の鉄のビジネススマイルがピキリとひび割れた。シーリンなんて美しくない。
私はデール様の足元に転がる泥。それなのに、この男の目は一体どんな歪んだレンズをはめ込んでいるというのか。
一方その頃、王子の背後に一歩控えていた紫の髪の青年――アズパープル・トルネークは、主君のあまりに軽率な発言に、内心で深い驚愕を覚えていた。
(殿下、一体何を仰っているのですか……?)
アズパープルは冷徹な紫の瞳を僅かに細め、主君の横顔を観察する。
出会ったばかりの、しかも中級貴族である伯爵家の令嬢に対して、次期国王たる第一王子がここまで甘い言葉をかけるなど、通常では有り得ない失態だ。
何よりアズパープルが違和感を覚えたのは、その言葉を口にしたグレイスタード王子自身の様子だった。
王子の声音は確かに甘い。しかしその表情の奥に、ほんの一瞬、「なぜ自分は初対面の令嬢にこんな言葉をかけているのだろう」と自ら困惑しているような、奇妙な歪みが混ざるのをアズパープルは見逃さなかった。
(殿下ご自身も、ご自分の衝動を制御できていない……?)
アズパープルは心の内で深く眉をひそめた。
それと同時に、脳裏に一人の美しい少女の姿が浮かぶ。王子の幼馴染であり、由緒正しき公爵令嬢――白銀の髪を持つ、デール・ホワイト。
(殿下には、デール様という幼い頃から想い合ってきた婚約者がいらっしゃるというのに。どれほど魅力的な令嬢が相手とはいえ、これ以上の不敬な発言は立場上、見過ごせぬ……)
学園という公の場で、婚約者以外の女性をあからさまに口説くような真似は、ホワイト公爵家への侮辱になりかねない。
アズパープルは静かに一歩前へ出ると、低く、しかし有無を言わせぬ硬質な声で王子の言葉を遮った。
「――殿下。新入生たちがこちらを注目しております。これ以上のお引き止めは、シーリン嬢の困惑を招くだけかと」
「……あ、ああ。すまない、アズパープル。少し話し込んでしまったね。それではシーリン嬢、また」
アズパープルの冷ややかな指摘に、王子はハッと我に返ったように視線を泳がせ、ようやく私から一歩身を引いたのだった。
「は、はい。失礼いたします、殿下」
私はこれ以上ないほど素早く、かつ完璧な模範的カーテシーを披露すると、王子の気が変わらないうちに脱兎のごとくその場を後にした。
背中に向けられる王子の名残惜しそうな視線と、アズパープルの値踏みするような鋭い視線から、一刻も早く逃げ出したかった。
(あーーー怖かった!! 死ぬかと思った!! 頼むから二度と話しかけないでクズ王子!!)
心の中で激しい毒態を突きながら、私は安堵の息を漏らす。
なんとか最初の危機は脱した。これだけ素っ気なく接したのだ、いくらゲームの強制力があろうとも、王子もそのうち私への興味を失うに違いない。
――しかし、しおりはまだ知らなかった。
皆が注目するその場面を、やはり「彼女」も見逃すわけがなかったということを。
ざわざわと新入生たちが行き交う講堂の喧騒の中。
少し離れた柱の陰から、その様子をじっと見つめる、一際美しい令嬢がいた。
白銀の髪を美しく揺らし、冷徹なまでの白銀の瞳を限界まで細めている。
ホワイト公爵令嬢、デール・ホワイト。
デールの視線の先にいるのは、さった今、自分の婚約者であるグレイスタード王子から熱烈な視線を向けられ、特別に声をかけられていたブラウンの髪の令嬢――シーリン・ブラウン。
(……誰よ。あの女)
デールは、ドレスの裾を握りしめる自身の指先が、怒りで小さく震えていることに気づいていた。
幼い頃からずっと一緒にいて、お互いに不器用ながらも確かに想い合ってきたはずの婚約者。その彼が、あんな素性の知れない中級貴族の娘に、自分にすら見せたことのないような甘い顔を向けていたのだ。
(グレイスタード様に、あからさまに色目を使って……。許せないわ)
デールの白い肌が、嫉妬と屈辱で微かに強張る。
この瞬間、デール・ホワイトの中で、シーリンは明確に排除すべき「恋敵」として刻まれた。
最推しを救うために奮闘するしおりと、彼女を最大の敵として見定めたデール。
二人の運命の歯車が、しおりの意図とは全く違う方向へと、音を立てて回り始めたのだった。




