プロローグ
午後四時。西日の射しこむマンションの七階。
玄関の表札には三つの名前。だが、父の名前にだけ白いテープが張られていた。
飛鳥燐は扉の前で、ランドセルのベルトを握り直す。中には大判の封筒が一通。魔法少女協会の紋章が押された封筒だ。
「ただいま!」
扉を開けて、中に入るも返事はない。
タイルの上にはパンプスが一足、爪先が揃えられていた。撮影の付き添いで母が履いていた靴。もう半年は履かれていないのに、毎朝きちんと整えてある。
居間では、テレビが点けっぱなしだった。
『ルミナスタワーの事件以降、魔法少女への熱狂は日増しに大きくなり……』
画面の中で魔法少女が微笑んでいる。彼女に助けられた子供も笑顔だった。
母はソファでスマートフォンを見ていた。映っているのは知らない女の子――いや、知っている。以前、同じ雑誌に載っていた子だ。母はその子を怖い顔で見つめていた。
「マ、ママ。今日ね、審査の結果出たよ」
ようやく母の目線が上がる。
差し出した封筒が受け取られ、口が切られる。適性評価の欄は、すべてが最上位。審査員の驚いていた顔が、誇らしい瞬間として記憶に残っている。
けれども母の視線は、そこには向かなかった。
代わりに、別紙に記されたお金の数字を見て、
「燐。すごいじゃない!」
ぱっと顔を明るくすると、嬉しそうに燐を抱きしめた。
「やっぱり、あなたは天才だったのよ。今度こそ、ね。うまくいく!」
今度こそ。その響きに、燐の胸がきゅっと痛む。
――目が痛くなるほどのカメラの光。
――母と大人たちが言い争う声。
――もう帰らない父の背中。
「そうだ、記念に写真撮りましょう」
母がスマートフォンを構えた。燐は反射的に姿勢を正し、顎を少しだけ引く。右に十五度。目線はレンズのやや上。教わったことは、頭よりも身体が覚えている。
「そうよ。そのまま……うーん、もっと自然に」
四回目で、ようやくシャッターの音が止んだ。
母はそのまま画面に指を走らせる。きっとSNSに載せるのだろう。増えていく数字を追う横顔を見つめながら、燐は笑顔のまま、楽にしていいと言われるのを待った。
誰も、言ってはくれなくても。
「今日はお祝いしなきゃね。ママ、支度してくるわ」
弾む足取りで母が寝室へと行き、鼻歌交じりに化粧台の引き出しを開ける。しばらく聞いていなかったオシャレの音。それを燐は喜ばしく思った。
母と同じく鼻歌を共にし、ダイニングの椅子に座る。
椅子は三脚。そのうちの一脚は、もう誰も座らない、雑多な郵便物の置き場となっている。そこに、つるりとした光沢紙のチラシが一枚――
【本当のあなたを取り戻そう】。
燐はそれを見なかったことにして、もう一度テレビを見た。
画面の向こう側で、王子様と天使の魔法少女が笑っている。
すごいな、と思う。魔法少女が笑うと、周りのみんなも笑う。泣いていた人も、怯えていた人も、最後には必ず笑顔になる。魔法少女には、それが簡単にできるのだ。
全日本魔法少女ランキング。一位になれば、なんでも願いを叶えられる。
もしも自分が一位になれば、もう母を悲しませずに済む。毎日あんなふうに鼻歌を歌って、あの靴を履いて出かけられる。きっとパパだって帰ってくるはずだ。
燐は服のポケットから『聖櫃輝石』を取り出した。赤い輝きに頬が緩む。
「燐ー? どこのお店がいいー?」
「ママの好きなとこでいいよーっ!」
明るく返して、燐は『聖櫃輝石』を胸に抱いた。
大丈夫。今度こそ、うまくいく。
だって私は選ばれたんだから。
女の子の憧れ――魔法少女。
キラキラで、フワフワで、ツヨツヨで。
恐いもの知らずの彼女たちは、テレビで見た通りの優しさで。
敵も味方も知らない人も、最後には手を差し伸べて笑い合う。
そんな、ハッピーエンドな結末を、きっと迎えてみせるんだ。




