第1話 名前はまだない
ルミナスタワーの事件から一ヶ月が過ぎた。
タワーの頂上は工事用の青いシートに覆われている。完全な復旧には数ヶ月要するらしい。けれど街は、拍子抜けするほど日常を取り戻していた。駅は今朝も満員電車を吐き出し、往来には社会人や学生の群れ、誰もがあの日の事など忘れたような顔をしている。
ただし、知恵揺子の日常を除いて。
原因は言うまでもない。あの日の生中継だ。
ラポゾが髑髏の魔道具で放送した映像は、皮肉にも全国のお茶の間へ "ある瞬間" を届けてしまった。茶色の髪が桃色に染まり、純白のオペラグローブを嵌め、ティアラを戴いて巨大な光の拳をぶっ放す――二十三歳の魔法少女。
話題にならないはずがなかった。
翌朝のワイドショーは揃いも揃って同じ映像を流し、SNSでは切り抜き動画が三日で百万再生。コスモスフィア魔法堂の電話は朝から晩まで鳴りっぱなしで、届く依頼の大半は揺子を指名してくる。おかげで売り上げは過去最高。オリビアもご機嫌である。
もちろん、届くのは声援ばかりじゃない。
事務所のポストには今も、差出人不明の封筒が混ざっている。中身は開けなくてもわかる。六年経っても『人殺し』の三文字は色褪せない。
それでも、あの日――
自分に希望を見出し、祈ってくれた人たちがいた。
だから揺子は、今日も街へ出る。
逃げずに、まっすぐ顔を上げて。
それでも大抵、カメラと目が合うのだけれど。
◇ ◇ ◇
「すげぇ、成人魔法少女だ!」
「なんか、大人なのにフリフリな服って……」
「いいなぁ!」
「いいから逃げなさい、あなたたち! 死にたいの!?」
怒鳴った拍子に、頭上の "天井" がギシリと沈んだ。
魔物の足の裏だ。
分厚い角質に覆われた足は、乗用車を三台まとめて踏み潰せるほど広く、そして重い。それを揺子は両手で受け止め、駅前大通りの真ん中で仁王立ちしていた。
足元のアスファルトがひび割れていく。踏ん張った両脚が地面にめり込んだ。
上級魔獣ベヒモス。
異世界アースノールの荒野に棲むという伝説級の魔物だ。体高はおよそ二〇メートル。犀と河馬を掛け合わせたような巨体に、ねじれた二本角。岩盤じみた灰色の皮膚は、生半可な魔法など弾いてしまう。
そんなベヒモスの足の下に、なぜ自分がいるのか。理由は近くにいる大学生だ。あわや踏み潰されるところを助けたのはいいが、揃ってスマホで揺子を撮りまくる始末。
「顔、こっち向けてもらっていいですか!」
「そのドレスってどうなってるんですか?」
「わぁ、滑らか……」
「ちょ、いい加減にして!」
叫びながらも、揺子は頬を熱くした。言われなくてもわかっている。
フリルたっぷりの白いドレス。頭上のティアラ。おまけに髪は桃色ときた。初めて変身後の自分を鏡で見たとき、誰よりも先に揺子自身が思ったのだ。
――これ、二十三歳が着ていい服じゃない、と。
そもそも今日は、ただの見回り実習のはずだった。
事の発端は十分前。「魔物を見つけたら、まず周囲の人の安全」なんて、智代に講釈を垂れていた矢先。突然、交差点の向こうからベヒモスが現れたのだ。
気がつけば、すぐさま変身していた。
そして今に至る。
「うぉ、さっきの写真バズってる!?」
「命とバズのどっちが大事なのよ!?」
ギシッ、とまた足が沈み、揺子の膝が折れかける。
まずい。このままでは彼らごと潰される。
そのとき、背中で溜息混じりの声がした。
「愚民どもめ。見ておれぬ!」
揺子の肩から、ケープがするりと翻った。
夜空を裏地に散りばめた外套『暁星王妃』。長年連れ添った揺子の相棒だ。
『暁星王妃』は宙を舞い、その身を何倍にも広げた。問答無用で学生たちを包み込むと、そのまま地面を滑りながら足の影から引きずり出す。
「「「うわぁぁぁ――――ッ!?」」」
「ナイス、エレンミア!」
「先生ぇーっ!」
頭上から幼い声が降ってきた。
交差点の信号機の頂上。桃色のボブヘアに輝くティアラ、お姫さまのドレスを着た少女が、林檎の意匠をあしらった杖を構えている。
籠目智代。揺子の生徒にして、二代目クレイドルソフィア。その肩では白い兎のような妖精メムシュが、小さな手を振っていた。
「みんな避難したっシュ! これで安全っシュ!」
「それじゃあ、撃ちます!」
「え、ちょっと待っ――」
「光になれぇぇぇえええええええ!」
杖の先から迸った光が、ベヒモスの横っ面に直撃。巨体がぐらりと仰け反った。
揺子の頭上から足の裏が浮く。重圧から解き放たれた身体が軽くなると同時に、嫌な予感が背筋を駆け上がった。
仰け反ったベヒモスの身体が、後ろに傾いでいく。
その先にあるのは、全面ガラス張りのオフィスビル。窓という窓に、逃げ遅れた会社員たちが貼りついていた。
「エレンミア!」
「まったく、人使いの荒い!」
学生たちを歩道まで逃がした『暁星王妃』が、矢のような速さで戻ってくる。揺子の肩に羽織られた瞬間、身体がふわりと浮き上がった。
地を蹴り、風を裂いて、揺子はベヒモスの背後へと回り込む。
ガラスの壁面が目前に迫った。窓の向こうで、男性が驚愕する。
「――ふんぬううううぅぅぅっ!」
両の手の平をベヒモスの背中に叩きつけた。
ずしん、と骨まで響く衝撃。何十トンもの重みがのしかかり、腕の筋と骨が悲鳴を上げる。『暁星王妃』の裏地が星屑を撒き散らし、空中で踏ん張りを利かせた。
窓まで、あと一メートル。
五十センチ。三十センチ――止まった。
ガラス越しに男性と目が合う。揺子が微笑むと、男性も笑みで返した。
「せぇーのっ!」
そのまま巨体を押し戻し、大通りの中央へと突き返す。
ベヒモスが体勢を立て直した。ビルの中から、ドッと拍手が湧き起こる。
「ソフィア! 撃つ前に周りをよく見よう!」
「ご、ごめんなさいっ!」
「でも避難の確認はバッチリ! 次、いくわよ!」
「はいっ!」
しおれかけた顔が一瞬で咲く。この素直さに何度も救われてきた。
「ブモォォォォォォォォォォ――ッ!」
ベヒモスが咆哮する。地鳴りのような響きに、周囲のガラスが震えた。
「先生、あの子、すごく怖がってます。迷子みたいな色……」
智代の言葉に、揺子は巨獣をしかと見据える。
血走った眼。落ち着きなく地面を掻く前脚。言われてみれば、暴れているというより必死に逃げ道を探しているようだ。
こんな街中に上級の魔物が現れること自体、そもそもおかしいのだ。何か事情があるのかもしれない。ならば、やるべきことは決まっている。
「倒すんじゃなくて鎮めるわよ! ソフィアの "キラキラ" で!」
「はい、キラキラで!」
「けど、ここじゃ建物が近すぎる。駅前広場まで追い立てよう!」
〈智慧〉の祝福に意識を沈める。巨獣の重心。脚の運び。怯えて後ずさる癖。広場までの距離と邪魔な障害物。頭の中で、道筋が一本の線になる。
――いける。
「ソフィアは右から攻撃! 当てなくていい、地面を撃って!」
「わかりました!」
智代が信号機を蹴り、停まった車の屋根から屋根へと跳んでいく。その杖から光弾が連発、右脚付近に着弾した。驚いた巨獣が、たまらず左に身をよじる。
そこへ、揺子が飛び込んだ。
「こっちよ!」
鼻先を掠めて宙を翔ける。ベヒモスの首が揺子を追ってぐるりと回り、つられて巨体が広場の方角へと歩き出す。
右から光弾。左から揺子。
追い立てられた羊のように、ベヒモスは無人の駅前広場まで転がり出た。
「今よ、ソフィア!」
「はいっ!」
智代が杖を高く掲げた。林檎の意匠が、陽の光を受けて煌めく。
「怖くない。怖くないよ。―― "永遠に瞬く救いの光" !」
降り注いだのは、破壊の光ではない。
柔らかな金色の粒子が、雪のように舞い落ちる。それはベヒモスの灰色の巨体を包みこみ、皮膚の上でキラキラと弾けた。
血走っていた眼から、ふっと険が抜けていく。
荒い鼻息が、ゆっくりと静まっていき――
「……ブモォ……」
ずぅぅぅん。
ベヒモスはその場に腰を下ろすと、ごろりと仰向けに寝転がった。四本脚を天に向け、だらしなく舌を出して惚ける。
これでもう、暴れる心配はない。
「やりました、先生!」
「うん。お疲れ様、ソフィア」
揺子は広場に降り立ち、胸元の『聖櫃輝石』に触れた。
途端にドレスが光に解け、桃色の髪が茶色に戻る。服もワイシャツとジーンズ。『暁星王妃』だけは外套のまま、揺子の肩に収まっていた。
右手を開くと、鳥の頭を彫りこんだ銀柄の杖が現れる。
魔法少女の力は腕っぷしが強い。けれど、こういう細かい仕事は魔法使いの領分だ。
「〈ナティア・シア・ソーティア〉―― "縮め" 」
支柱の宝石が白く輝き、光の輪がベヒモスを取り巻いた。二〇メートルの巨体が、見る見るうちに小さくなっていき――
ぽてん、と。足元に転がったのは、ネズミほどの大きさになったベヒモスだ。
「わあ、可愛い!」
「こうして見ると、ね」
揺子は苦笑して、肩の『暁星王妃』の裏地に手を伸ばす。
「それじゃあ、この魔法のケースに入れましょうか」
外套から取り出したのは、魔法生物を入れる特別な飼育ケースだ。中に入れておけば、魔法が大きさを維持してくれる仕様である。
ネズミサイズのベヒモスをケースに収める。蓋を閉じ、留め金もしっかりと。
一拍の間。それから、広場の周囲で割れんばかりの歓声が沸いた。
わああああっ!
我先にと駆け寄ってくる人たち。そして当然のように掲げられるスマホ。
智代が嬉しそうに手を振り返す横で、揺子は控えめに会釈した。
「――あのっ、すみません! すみませぇん!」
人垣をかき分けて、ひとりの女性が現れる。
紺色の制服に魔法少女協会の紋章が入った腕章。三十歳前後だろうか。髪は乱れ、額には汗が光り、タブレットを胸に抱えたまま息をしている。
「魔法少女協会の者です。ご、ご協力、本当にありがとうございましたぁ!」
深々と頭を下げる職員の背後、交差点の角で横転したトラックが見えた。白い車体には協会の紋章。荷台は内側から吹き飛ばされたようにひしゃげている。
揺子はケースとトラックと、職員の顔を順番に見比べた。
「……もしかして、この子?」
「はい。うちの移送対象です」
職員が肩を落とした。
「地球で発生した希少な魔物は、アースノールに送り届ける決まりなんです。この子も今朝、郊外で保護されまして。いつもどおり縮小魔法をかけて運んでいたんですが……」
「そこの交差点で?」
「信号無視の車とブツかりましてぇ……」
その衝撃で、ケースの維持装置が壊れたらしい。縮小魔法が切れたベヒモスは元の大きさに戻って荷台を突き破り――あとは見ての通り、というわけか。
「すぐに魔法で縮めようとしたんです。でも、鎮静剤がないと……」
「レジストされる、と」
なるほど、と揺子は合点がいった。先ほど縮小魔法が通ったのは、智代の魔法でベヒモスが大人しくなっていたからだ。鎮静剤の代わりを、図らずも智代が果たしたらしい。
「途方に暮れていたところに、お二人が来てくださって本当に感謝してます!」
職員がケースを覗きこむ。中では小さなベヒモスが寝息を立てていた。
「何かの魔法ですか? 鎮静剤より効いてますね」
「えっへん、です」
智代が誇らしげに胸を張る。
揺子がケースを差し出すと、職員は慎重に両手で受け取った。
「このケースは後日、協会からお返しします。それと、正式なお礼も改めて」
「お礼なんていいですよ。それより、早くこの子を帰してあげてください」
「はい。必ず。ほんと何から何まで、ありがとうございました!」
もう一度深く頭を下げて、職員は迎えの車へと駆けていく。ケースの中で、ベヒモスが短い尻尾を寝ぼけたように振った。
「バイバイです!」「元気でっシュ~!」
智代とメムシュが手を振る。揺子も小さく手を挙げた。
さて、と揺子が振り返った瞬間、表情が固まった。
いつの間にか、広場の人だかりが増えている。
「あのっ、写真いいですか!」
「サインください! この服に!」
四方八方から押し寄せる声。差し出される色紙にペン、Tシャツまで。
智代は慣れたもので「はーい、並んでくださーい」とにこやかに応じている。色紙に書いた "クレイドルソフィア" の文字は丸くて大きくて、ちょっとだけ右肩上がりだった。
だが、問題は揺子の方だ。
「知恵さんもサインお願いします!」
「あ、はい。ええと……」
ペンを受け取ったまま手が止まる。
何と書けばいいのか。本名は違う気がする。
「ちょっと失礼しまーす! ルミナテレビでーす!」
人垣からリポーターとカメラマンが割りこんできた。マイクが揺子の眼前に突き出される。カメラの赤いランプが、ちかちかと点滅していた。
「ただいま駅前で魔物を鎮圧した、話題の成人魔法少女さんにお話を伺っています! お見事でした! 今のお気持ちは?」
「え、その……怪我人が出なくて、よかったです」
「謙虚! 素敵ですね!」
リポーターは満面の笑みで頷き、それからずいと身を乗り出す。
「ところで、視聴者の皆さんがいちばん知りたがっていることなんですが――」
嫌な予感。
「魔法少女の名前を、教えていただけますか?」
ほら来た。揺子の喉が、ひゅっと詰まる。
「それは……」
クレイドルソフィア。喉元まで出かかって、揺子はぐっと飲みこんだ。
この名前は、もう智代のものだ。揺子が譲った。智代はそれを大事に抱えて、今もあんなに嬉しそうにサインを書いている。今さら自分が名乗るのは違う。
さりとて、他の名前なんて考えたこともなかった。
「……ま、まだ、決まってなくて」
「まだ決まってない! ではこの場で、ぜひ!」
「そんな気軽に名乗れますか!」
思わず叫ぶと、周囲から笑いが起きた。笑いごとじゃないのに。
サインの手を止めた智代が、心配そうにこちらを見上げてくる。
そんな目で見ないで。余計いたたまれなくなるから……。
「カァッ!」
救いは、空から降ってきた。
一羽のカラスが頭上を旋回している。使い魔のフギンだ。
「揺子ォ! 社長ヨリ伝令ィ!」
「フギン!」
「至急、帰社セヨォ! 至急ゥ!」
これ以上ない助け舟。揺子はペンと色紙を住民に押し返す。
「すみません! 急な呼び出しなので、取材は事務所を通してください!」
「あっ、待ってください、せめて候補だけでも――」
「ソフィア、行くわよ!」
「はいっ! みなさん、また明日!」
揺子は智代とメムシュを小脇に抱え、その場から舞い上がった。
人々の頭上を越え、ビルの屋上をかすめ、逃げるように空を飛び荒ぶ。眼下では、カメラのフラッシュが未練がましく瞬いていた。
「先生、凄かったです! みんな先生のこと見てました!」
腕の中で、智代が目を輝かせている。
「サインもいっぱい書いちゃいました。先生も書けばよかったのに」
「書けたら苦労しないわよ……」
揺子はがっくりと肩を落とした。
今日の実習は魔物とインタビューに化けた。昨日の座学は野次馬のおかげで進まなかった。一昨日は近所のお店でサインを求められ、結局食材を買い忘れた。家の前では毎朝、知らない誰かが張り込んでいる。
授業も満足にできない。私生活もままならない。
いつになったら、日常が戻ってくるのだろう。
「汝が選んだ道であろう」
『暁星王妃』がつぶやいた。
「魔法少女として生きる道。これはその付録にすぎぬ」
「付録のほうが分厚いって」
情けない声を上げる揺子の顔を、智代が不思議そうに覗きこむ。
「先生、灰色じゃないですけど、なんだかモヤモヤしてます」
「でしょうね……」
空は憎たらしいほどに青く澄んでいる。
揺子は溜息を吐いて、それからカラスに尋ねた。
「ねぇフギン。社長、どういう要件?」
「カァ! 客ダァ!」
「客?」
「偉イ人ォ! トーッテモ偉イ人ォ!」
嫌な予感しかしなかった。




