第29話 奇跡の証
作業着の袖を肘までまくった、小柄でずんぐりとした三十代の男性。丸い目に低い鼻。つい先日、智代の魔法で人間に戻ったときに見た姿と同じだった。
痛みとは違う熱がこみ上げ、視界に涙が滲みだす。
「ピカロ……ッ!」
「ピカロさん!」
揺子と智代に呼ばれて男は、鞍に跨ったまま歯を見せて笑った。
「おうよ。届け先はこのヘリポートで間違いねぇな!」
「ピカロ・ムエルテ」
ラポゾは仮面に手を這わせ、侮蔑も露に睨み据えた。
「人に成り下がったあげく、今度は魔物の御者ですか。なんと嘆かわしい」
「へっ、どうとでも言え。テメェの下で怯えてた頃より、ずっとまともな稼業だ!」
「そうっスね、親分!」
「オレたち社員!」
「んだんだ!」
鞍の後ろに固定された荷籠から、三匹のゴブリンが飛び降りる。
「下等生物どもが、徒党を組んだところで敵うとでも?」
ラポゾが指を鳴らす。身体が揺らぎ、いくつもの分身が現れた。
「うげっ、増えやがった!」
ピカロの驚愕を余所に、飛翼蜥蜴が巨翼を振り抜く。
「グルァッ!」
叩きつけられた風が水面を抉り、白い飛沫を壁のように巻き上げた。分身たちは端から輪郭を乱し、引き裂かれた霧のように消し飛ぶ。
「うおっ、消えやがった!?」
「な、なんだと……ッ!?」
本物のラポゾだけが風圧に抗っている。
揺子は目を見張り、起きた現象を理解した。
魔物は肉体そのものに魔力を宿す。走れば足跡に、吼えれば声に、翼を振るえば風にまで、その力は漏れ出す。飛翼蜥蜴が起こしたのは単なる突風ではない。巨翼から放出された魔力が風に攻撃性を与え、魔力で編まれた分身を打ち消したのだ。
幻覚を封じられるなら勝ち目はある。揺子は杖を拾い上げた。
「ピカロ。先に智代ちゃんを助ける」
「おう。最初からそのつもりだ」
「エレンミア。完全顕現はどのくらい保つ?」
「怠けた汝の魔力では、三分が限界だ」
「三分ね。上等!」
揺子が杖を構える。飛翼蜥蜴は翼を広げ、ゴブリンたちは身を低くした。
「行くわよ!」
ラポゾを中心に、一行が四方に散開。
智代を捕らえた尾を除き、三本の尾が放射状に奔る。
上空を狙った一本に飛翼蜥蜴が嚙みついた。牙が表面に食い込み、振り回される勢いを太い首で受け止める。
「そのまま押さえてろ!」
「〈キュロス・ヘイストス・パリウス〉―― "強化せよ" ッ!」
杖の宝石が輝き、魔力の熱が再び全身を駆け巡った。揺子は突き出された二本目を紙一重でかわし脇に抱え込むと、腰を落としてその場に踏みとどまる。
「今よ!」
「合点!」
三本目の尾をゴブリンたちは散り散りに避ける。間隙に滑り込み、互いの肩を踏み台にして跳び上がると、智代を吊るした尾に掴みかかった。
「お嬢、助ける!」
「縄、切る!」
ナイフを使い、智代の手足を縛る縄に刺し込む。そこへ、三本目の尾が。
「エレンミアッ!」
純白のケープが肩から離れ、裏地に女性の身体が現れた。真珠の光沢を帯びた白絹の長衣。完全顕現を果たした『暁星王妃』が、尾を両腕で受け止めゴブリンたちを守る。
「よし、切れたぁ!」
ナイフが最後の縄を断った。だが智代の腰には、まだ尾が巻きついている。
「フン、これで捕らえたつもりですか?」
四本すべてが封じられた絶好の機会。しかしそれを、ラポゾは鼻で笑い飛ばす。
「尾を押さえるだけで精一杯。何も変わりはしない、茶番です!」
「まだよ――」
揺子は尾を抱えたまま、『暁星王妃』を見た。
魔道具『暁星王妃』には空間拡張魔法も施されている。それはケープの裏地。銀河が煌めくそこであった。あらゆる物体を収納し、取り出せる四次元空間。その特性を活かして、揺子は事前に〝ある存在〟を忍ばせていた。
「メムシュッ!」
開戦前から銀河に隠れていたメムシュが、星々を突き破って飛び出した。
「シュウウゥゥゥ――ッ!」
小さな身体を、球状の防御壁が包んでいる。
「なァ――ッ!?」
揺子が仮面を破壊しきれなかった場合の奇襲。事前に打ち合わせていた二段構えの必殺が、いまラポゾの顔を正面から打ち抜いた。
だが結果は、完全破壊には至らない。
「――ギィャァアアアアアッ!?」
苦痛に身を捩り、ラポゾは砕けた右半分を押さえて叫ぶ。
右半分。その事実が、揺子を愕然とさせた。
「そんな……ッ!?」
メムシュの突撃は完璧だった。仮面を残したのは、自分の打撃が足りなかったせいだ。
もっと深く亀裂を与えていれば――抱いた後悔が、判断を遅らせた。
「きゃぁッ!?」
「智代ちゃん!?」
仮面を砕かれた苦痛からか、ラポゾが智代を捕らえていた尾を放した。投げ出された智代は水を跳ねあげながら転がっていく。
その直後、ラポゾの全身から黒い魔力が噴き出す。
「殺す……貴様ら、全員殺してやるァァァッ!!」
三本の尾が拘束を強引に振りほどく。噛みついていた飛翼蜥蜴の顎が弾かれ、揺子は抱えた尾ごと投げ飛ばされ、『暁星王妃』は足を滑らせて尾を逃がす。
自由になった四本の尾は、ラポゾの怒りに任せて無差別に攻撃を始めた。水面を叩き割り、塔屋と給水設備の壁面を抉る。巻き上がった水とコンクリート片が入り乱れる中、鋭く尖った一本が飛翼蜥蜴の左翼を斬り落とした。
「グルァッ!」
血飛沫を散らして巨体が傾く。ピカロが手綱を引き絞るが、片翼では姿勢を支えられない。そこに別の尾が叩き込まれ、飛翼蜥蜴はピカロごと塔の外縁を越えた。
「うおっ!?」
「「「親分ッ!!」」」
ゴブリンたちが外縁に殺到する。瞬間、背後から尾に薙がれ、三つの身体が虚空を舞った。ピカロの後を追うように落下していく。
「みんな……っ!?」
揺子は外縁に向かって走り出した。同時に『暁星王妃』も飛び荒ぶ。
届く。『暁星王妃』の機動性なら、揺子が魔法を使うよりも間に合う。
だがその希望は、付近で爆ぜた轟音に断ち切られた。
破壊された塔屋から鉄骨が飛び出し、切っ先を揺子に向け降ってくる。
「戯けッ!」
空中で反転し、揺子に迫るや身体を押し退け鉄骨から庇う『暁星王妃』。降り注ぐ瓦礫が華奢な身体を押し潰し、彼女を瞬く間に下敷きにする。
「エレンミア!?」
手を伸ばした揺子の前で、『暁星王妃』の輪郭が薄まる。完全顕現の限界を迎え、人の姿が消失した。後に残った純白のケープは鉄骨の下で激しく暴れるが、布地だけの力では鋼材を押し退けられない。
助け起こす猶予さえ、ラポゾは与えなかった。
「シュゥッ!?」
横殴りの尾がメムシュの防御壁を破壊。小さな身体が水面に叩きつけられる。
「メムシュ!」
智代が駆け寄り、動かないメムシュを抱き上げた。
マズい。非常にマズい。ピカロたちは塔から落とされ、『暁星王妃』は瓦礫の下、メムシュも戦える状態ではない。ラポゾを阻む者は、もう揺子しか残っていなかった。
四本の尾は半狂乱のまま周囲を荒らしている。だがその攻撃には、規則性がない。
――今なら抜けられる。
この際、ラポゾを倒すのはどうでもいい。智代を逃がすのが先決だ。
揺子は水を蹴って駆け出した。右から来た尾を避け、飛び散った破片を払い、その脇を抜け一目散に智代の下へと突き進む。
あと数歩。それで彼女に届く。
「ダメェ!?」
智代の顔が恐怖で引き攣っている。何が、と揺子は目で訝った。
瞬間、背中から凄まじい衝撃。走っていた足が着陸面を離れる。
「――――」
息が詰まった。身体が前に折れかけたまま、何かに支えられて留まる。
揺子は視線を落とした。腹部から生えたように突き出す黒い尾。その先端が、鮮やかな血を滴らせて――
「か、は……ッ!?」
喉の奥からせり上がった血が、咳とともに吐き出された。
「先生ぇぇぇぇぇッ!!」
◇ ◇ ◇
力の抜けた指から杖が滑り落ちた。音を立て、眼下の水を跳ね上げる。
「ぐ……っ!」
揺子は激しく悔いた。半狂乱の攻撃を好機だと誤認した。智代に意識を奪われ、死角を回り込んだ尾に背中を晒してしまったのだ。
呼吸のたびに尾が体内で動く。激痛が腹から背中まで広がっていく。
それでも不幸中の幸いか、尾の軌道は脊柱を外れており、手足は動かせる。
しかし、問題は出血だった。
傷口から溢れる血が勢いを増している。尾が栓の役割をしているとはいえ、腹部大動脈まで損傷しているのなら、抜かれた瞬間に失血死しかねない。治癒魔法は無意味だろう。昨日から傷を抱えている揺子には、傷を塞ぎきるだけの余力がない。
まして杖は落ち、詠唱を紡げる隙もない。
こんなところで。絶望で目に涙が滲んだ。
「ク、フフフ……」
尾が持ち上がり、揺子の爪先が水面から浮く。胴を貫かれたまま宙に吊られ、ラポゾの眼前まで引き寄せられた。
旋回する髑髏の魔道具が、苦しみ呻く揺子を映す。
『ご覧ください、皆様。これが、魔法少女の末路です!』
中継を介した声が、再びルミナ市に響き渡った。
『六年前と同じ! 誰かを守ると口にしながら周囲に犠牲を積み上げる。助けに来た者たちは塔から落ち、守るべき教え子まで傷つけた!』
尾が揺子の身体を揺らす。傷口を抉る痛みに、掠れた声が漏れた。
『彼女の善意は誰も救わない。善行を重ねるたびに犠牲者を増やし、その犠牲さえ新たな贖罪にする。なんとも度し難い!』
「違……う……っ!」
『では、教えていただきましょうか』
砕け残った狐面の奥で、銀の瞳が嘲笑に歪む。
『貴女は、なぜ魔法少女になったのです? 誰かのため? 正義のため? それとも、喝采を浴びる自分が好きだったから!?』
「――――」
答えようとしても、呼吸が続かない。
夕焼けに染まった教室が、霞む意識に浮かびあがった。並べた机。触れ合う額。泣きそうな瞳で揺子を見つめていたエマ。
『揺子は、どうして魔法少女になろうと思ったの?』
あの日、自分は答えたはずだった。
けど、その言葉だけが思い出せない。
「――違います!」
幼い声が、揺子とラポゾの注意を引いた。
智代だった。傷ついたメムシュを腕に抱えている。頬は涙に濡れていたが、その目はラポゾではなく、虚空に浮かぶ髑髏のレンズに向けられていた。
「先生が間違えたことは消えません! けど、先生に救われた人がいることも消えない! 私がここにいることが、その証だから!」
「子供の感傷で、何が覆るというのです」
「みなさん、どうかお願いです!」
一歩、前へ。智代は全国に繋がるレンズを見た。
「揺子先生を応援してください! 私を救えるのは、先生だけなんです!」
「無意味な事を。そんな女に、いまさら誰が――」
「私たちは、【魔骸】に大切なものを奪われました! 友達を失い、家族を失い、毎日の暮らしまで! けど、もう奪われない。みなさんの想いが、先生を強くするから!」
「くだらない」
ラポゾが一笑に付す。子供の児戯でも否定するように。
だが、揺子を貫く尾に微かな――ほんの微かな震えが走った。
「……?」
漆黒の艶が薄れ、噴き出していた魔力も目に見えて細くなっていく。
「なん、だ……?」
ラポゾが疑問を口にした。尻尾だけでなく、みずからの身体も検める。
揺子も変化を認めていた。心なしか、膨れ上がった体躯が縮んでいるようだ。
いったい何が。その疑問に揺子が気づいた瞬間、ラポゾも答えに行きつく。
「恐怖と祈りは表裏一体。人の想いが向きを変え、相を変えたもの……」
震える声。どうやら思い出したらしい。絶対不変の法則を。
「まさか、私に注がれていた恐怖が、祈りに変わって――!?」
ラポゾの驚愕から、揺子はすべてを理解する。
人の想いは常に移ろう。時間が経てば熱を失い、記憶の底に沈んでいく。ただし、心を揺さぶる出来事に直面すれば、その変化は一瞬で起こり得る。傷ついた子供が、命を懸けて誰かを信じてほしいと訴えるなら尚更だ。
その仕組みを智代は学園で教わったのだろう。それゆえの言動だった。
しかし、ラポゾを弱体化させたところで状況は打開できない。智代の勝機を活かそうにも、いまの揺子は満身創痍。何も変えらない。
「みなさん、私たちは――」
「やめろ……」
だが、ラポゾにとっては許しがたい展開らしい。
「それ以上喋るなァ!」
尾の一本を振るい、智代の背中を殴り飛ばした。
「うあッ⁉」
小さな身体が瓦礫にぶつかる。その姿に、髑髏が高度を下げて近づいた。
「せっかく集めた恐怖を、私の進化を、台無しにするつもりかこのクソガキがッ!」
うずくまる智代に歩み寄り、ラポゾが足で踏みつける。
「私の恐怖を祈りに変えやがって! 子供ごときが――」
何度も、何度も、怒りをぶつけるように。
「私の筋書きを変えるなァァァッ!!」
智代の身体を踏みつけた、瞬間。
「シュァァァ!」
突き出された漆黒の足が、光の壁に阻まれる。
「この――畜生めがァ!?」
メムシュが智代の腕から脱し、ドーム状の防御壁を展開していた。自身と智代、そして接近していた髑髏の魔道具まで内に取り込んで。
「みなさん!」
智代が立ち上がり、髑髏の下顎に掴みかかった。
「私たちは、正義の味方である魔法少女に憧れ、自分もいつか彼女たちのようになりたいと、想いを胸に生きています!」
「なにをしている! やめろォ!」
焦燥に駆られたラポゾが尾を振るう。だが、防御壁は頑として破れない。
「失敗して、挫けそうになっても、いつかきっと同じように強くなれる日を夢見て――」
「やめろと言っているッ!」
「ともに光に包まれ、奇跡を起こせるように!」
「黙れええぇぇぇッ!!」
智代の口を噤ませようと、ラポゾが力任せに尾を叩きつける。亀裂が入る防御壁。メムシュにも限界がきている。苦しそうに息を乱していた。
その様を見つめる揺子の耳に、エマの声が再び重なる。
『揺子は、どうして魔法少女になろうと思ったの?』
誰かを助けたかった。誰かに認められたかった。
どちらも嘘ではない。けど、その先に答えがあった。
救った人が笑ってくれる。自分を見て、明日を信じてくれる。誰かの瞳に希望として映っているあの瞬間だけは、自分も生きているのだと実感できた。
「――そうだ……」
あの日、エマに告げた言葉を、揺子はようやく思い出す。
「ラポゾ・ムエルテェッ!!」
腹を貫く尾に身を預け、残った力で拳を振りかぶると、
「私が、魔法少女になりたいと思ったのは……」
剝き出しになった右半面。そこへ。
「助けた人の笑顔が――嬉しかったからよッ‼」
勢いよく打ちつけた。
「ガ――ッ!?」
人の腕から放たれたとは思えない衝撃が、ラポゾの巨体を吹き飛ばす。揺子を貫いていた尾が抜かれ、塔屋の残骸に背中から叩きつけられた。
「な……なに、が……」
狼狽える仮面の下で、銀眼が揺子を凝視する。
揺子自身にも、何が起きたのか分からない。
突き出された虚空にあったのは、人間の腕ではなかった。
指先から肘までを覆う純白のオペラグローブ。
それは紛れもなく――
「魔法、少女……!?」
奇跡の証だった。




