第25話 赦し
「智代、ちゃん……?」
教え子の姿を認めて、揺子は狼狽えた。
「どうして、ここに……」
「先生を助けに来ました」
智代が駆け寄ってきた。患者衣のまま、裸足で。
「私の魔法で先生の心に入りました。先生は今、悪い魔法で苦しんでる」
言われて、揺子は思い出す。病室で目覚め、智代の危篤を知らされ、ICUにまで赴いた。そこで星見ノヴァに真実を聞かされ、自分は意識を――
「でも、もう大丈夫です。私の魔法なら、先生を浄化できます」
智代が手を差しだしてくる。今すぐ悪夢から脱しようと。
なんて優しさだろう。目覚めてすぐ助けに来るなんて。
だが揺子の心は、仄暗い怒りに染まりつつあった。
「先生……?」
戸惑う智代の視線と、暗く濁った揺子の視線が正面から交わる。
「ふ……っ!」
乾いた笑いが抑えられない。
見られた。
あの夜の交差点も。手の中で崩れていったものも。記者会見の涙も。そして今しがたまで、この部屋で泣き崩れていた自分も。
全部、見られてしまった。
心が際限なく凍っていく。恥ではない。恐怖だった。慕ってくれる子に、本当の自分を知られる恐怖。この瞬間が来ることを、揺子はずっと恐れていた。
「失望したでしょ。最低な教師だって」
「そんな――」
「見たでしょ。私がどれだけ酷いことしたか」
言葉が止まらなくなった。
「怒りで我を忘れて、敵を殴り続けて。それだけじゃない。私のせいであの爆発が起きた。私が追い詰めなければ。私が冷静でいれば。私が――っ!」
「そんなこと!」
「あなたの両親も死なずに済んだ!!」
智代が息を呑む。
「そう思ってた! ずっと! だから教師なんてなりたくなかった! そんな資格ないのに! なのに、どうして私を慕うの!? あなたの両親を死なせたのに、なんで!?」
「先生が助けてくれたから!」
智代も叫ぶ。
「あの日、瓦礫の中で私を見つけてくれた! 泣いて喜んでくれた!」
「――ッ!?」
瓦礫の中の、小さな女の子。
絶望の底で救えた、唯一の命。
「あなた、だったの……」
「私、先生のおかげで生きようって思えたんです。パパもママもいなくなって、死にたいって思ってた私に、先生の笑顔が、生きていいんだよって……」
「やめてよ! そんなの、綺麗事じゃない!」
「違います!」
「違わない! どれだけ言っても事実は変わらない! クレイドルソフィアは人殺し! 魔法少女失格なの! 色が見えるからって、知ったふうな口利かないでよ!!」
言った瞬間、後悔した。
大きく目を開いて、固まる智代に。
……ずっと恐れていた通りになった。
心に踏み込んできた智代を拒んだ。一番鋭い言葉を選び、一番深いところを狙って。見たくなかったはずの傷つく顔を自分で作ってしまった。
「わかり、ます」
なのに、智代は退かなかった。
「先生の気持ちは、痛いほど、わかります」
「色が? そんなの――」
「色だけじゃない!」
「……え?」
「私には―——他人の気持ちが流れてくる! 嬉しいも、悲しいも、勝手に! 先生がどれだけ自分を責めてるのかも、後悔してるのかも、今この瞬間、ぜんぶ!!」
「――――」
智代の告白に唖然とする。
色だけじゃなく、感情が読める?
それは最早、色どころの話ではない。
自分の意思とは無関係に、誰かの怒りも悲しみも、背負い続けるということだ。
しかも四六時中。そんなものを、この幼い少女はずっと抱えてきたというのか。
心の檻が軋んだ。六年間、閉じ籠ってきた檻が。智代には、すべて見透かされていた。教師としての振る舞いも、ごまかしも意味がなかった。
揺子の心を、自分の事のように感じていたのだから。
「最初はつらかった。教室にいるだけで、みんなの気持ちが押し寄せてきて。私が私じゃないみたいで、怖かった」
智代は続けた。涙を拭いもせず。
「そんなとき、星見会長に連れられて、クレイドルソフィアの記者会見に行ったんです。先生がパパとママの仇だって」
「…………」
「でも、会場で先生を見た瞬間、すぐにわかりました。この人は仇なんかじゃない、優しい心を持つ人だって。だって先生の後悔と悲しみは、嘘じゃなかったもん!」
「やめて……」
「だから私、会いに行きました。クレイドルソフィアのファンだった人たちに。たくさんお話を聞きました。みんな、先生に感謝してた。でも引退したとき、悲しかったって。あの爆発はソフィアのせいじゃない、今でも信じてるって!」
「やめてよ……」
やめて。聞きたくない。
だってそれを信じてしまったら、許されていいと思ってしまったら、あの日から積み上げてきた罰が崩れてしまう。罰だけが、償いの証だったのに。
「先生に憧れて、先生みたいになりたくて頑張ってきました。今でも、私みたいにソフィアが好きな人がいます。だから――」
智代は、まっすぐ揺子を見た。
その瞳に、大粒の涙を湛えて。
「私が憧れた、みんなが憧れたクレイドルソフィアを、悪く言わないで!!」
世界が光に包まれた。
◇ ◇ ◇
目が覚めると、白い天井が見えた。
次いで消毒液の匂い。病室だ。実家の部屋ではない、現実の世界。
あれは悪夢だった。ラポゾの魔法が見せ続けた、終わらない悪夢。
身を起こすと、覆いかぶさるようにしていた智代と目が合った。頬に泣き腫らした跡。息を切らしながら揺子を見つめている。
「揺子先生」
「智代ちゃん」
言葉は返せた。でも、それだけだった。
あれだけ叫んで、醜いところを見せて、それでもまだ、心は固く閉じたままだった。智代の想いは届いた。届いたのに、受け取る心が開かない。
三年も抱えてきたものは、一晩の夢では手放せなかった。
「ご、ごめんね」
揺子は笑顔で取り繕った。
「みっともないところ、見せちゃった」
「ううん。みっともなくなんかない」
「心配かけた分は、ちゃんと――」
「だって先生は、悪くないから」
「聞いてる? 私は謝って――」
「先生は、悪くない」
「……ねぇ」
「先生は、悪くない」
「やめてってば」
智代の視線が煩わしい。
「わかってる。あなたが優しいのは、わかってるから。もういいの。私は平気。ちゃんと前に進める。だから――」
「先生は悪くない」
「だから、そういうのはいい。慰めなんか――」
「先生は悪くない」
「……っ」
声が出なくなった。
なんで。なんで、この子は。
「いい加減に、してよ。私が悪くないなら、誰が悪いのよ。誰かが背負わなきゃいけないの。じゃなきゃあの人たちは、なんのために……っ!?」
「先生は悪くない」
「私のせいよッ!!」
自制が利かない。
「私のせいじゃなきゃ駄目なの! 私を責めないと、私は……ッ!」
それ以上は言葉にならなかった。今さら口にできるはずもないから。
罰することでしか生きられなかった。自分を許さないことだけが贖いだった。それが生きる支えだったのに。もし手放したら――
「先生は、悪くない」
智代が揺子を抱きしめた。
「悪くない……悪くないんだよ……っ!」
「————ぁ」
智代の泣き声を聞くたびに、心の檻が崩れていく。
三年間積み上げてきた、罰という名の檻が。
「……う……ぁ……」
揺子は、智代にしがみついた。
「あ、あああぁぁ……っ!」
泣いた。声を上げて。
「エマ……みんな……ごめんなさい……ごめんなさいぃぃ……っ!」
子供のように。あの日泣けなかった、エマのために泣けなかった分まで。自分のために泣くことを、許せなかった分まで。
智代は何も言わなかった。
ただ小さな手で、背中を撫で続けた。
何度も。何度も。子をあやす母のように。
それから、どれくらい泣いただろう。
いつの間にか涙は引き、二人の呼吸だけが残った。
「……ひどい顔してるでしょ、私」
「はい。ぐしゃぐしゃです」
「そっちこそ」
小さく笑い合った。
笑えたことに、揺子自身が一番驚いていた。
胸の底に澱んでいたものが薄れている。もう心は濁っていなかった。
「また、前に進んでいいのかな。私なんかが、誰かを助けても」
「はい」
智代が優しく微笑む。
「だけど、それでも罪の意識が消えないなら私も背負います。たとえみんなが許さなくても、私が赦します。だから……」
「……なに?」
「ツラいことや悲しいことがあっても、魔法少女失格なんて言っちゃダメです。どんな過去があっても、私がいる限り、クレイドルソフィアは失格なんかじゃない」
いつしか智代の目には決意が宿っていた。どんな事があっても揺子を支えるという意志が。その理解に、胸の内が澄み渡っていくのを感じながら揺子は頷いた。
「ありがとう、智代ちゃん」
そのとき、湿った音が足元から。
「ズッ……ズビッ……」
見下ろすと、ベッドの脇でメムシュが泣いていた。それはもう盛大に。小さな顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにして、シーツの端を両手で握りしめている。
「よがっだ……ほんど、よがっだっシュぅ……」
「メムシュ。いたの」
「いたっシュ! 胃に穴が空くかと思ったっシュ!」
「大丈夫?」
「すごくキリキリしてるっシュ~!」
智代と顔を見合わせて、揺子は吹き出した。
「ほら、おいで」
智代が抱き上げると、メムシュはシーツで鼻をかんだ。
「あっ、コラ! 病院のシーツ!」
「ズビーッ!」
「もう……」
呆れながらも、揺子の頬は緩んでいた。
泣いて、笑って。長い雨が上がったみたいに、病室の空気が清々しい。
だから――誰も気づけなかった。
窓の外を、闇が覆っていたことに。
轟音は、何の前触れもなく世界を割った。
砕け散る外壁。吹き込む夜風。渦巻く白い粉塵から、黒い影が翻る。
「これはこれは」
粉塵を裂いて、破壊された壁から、それは入ってきた。
「まさか目覚めてしまうとは」
漆黒の毛並み。狐の頭骨を模した仮面。ゆらめく四尾。
「ラポゾ・ムエルテ……ッ!?」
「せっかく極上の悪夢を差し上げたのに。本当に――忌々しい光」
言って尾の一本を奔らせ、智代の身体に巻きつけていく。
「きゃ――ッ!?」
「智代ちゃん!?」
変身アイテムも持たない小さな身体が、為す術もなく宙へ吊り上げられた。
「〈キュロス・ヘイストス・パリウス〉――」
揺子は杖を召喚した。考えるより先に詠唱を紡ぐ。
「 "強化せよ" ッ!!」
全身の筋繊維が膨れ上がる。骨が軋み、神経が研ぎ澄まされ――
「が――ッ!?」
激痛が全身を苛んだ。強化された筋力に、癒えかけの身体が絶えられなかった。床に屈した膝を辛うじて杖で支える。
「おやおや」
ラポゾが心底愉しそうに目を細めた。
「ご自愛なさい。お体に障りますよ」
「余計なお世話……ッ!」
「クフフ、手厳しい。私はただ、お誘いに伺っただけなのに」
「何を言って――」
「明日の正午。ルミナスタワーでお待ちしております」
「――ッ!?」
「正式なご招待は、また後ほど。では――」
言い残し、ラポゾは床を蹴った。
智代を尾で巻いたまま、外壁の穴から夜空へと跳び上がる。
「待てッ!!」
揺子も跳んだ。砕けた壁の縁を蹴って、遠ざかる智代へと手を伸ばす。
「シュ――ッ!」
メムシュも耳を翼のように広げて追従した。
届く。あと少し。あと少しで――
だが揺子の手は、智代に触れる前に阻まれた。
振り抜かれた黒い尾が、眼前まで差し迫る。
「メムシュ、先生を守って!!」
「――ッシュゥ!」
智代に指示され、メムシュが額の宝石を輝かせた。直後、自身と揺子を包み込むように光の球体を展開。直撃した尾の一本が、球体ごと揺子たちを叩き落とす。
夜空が回る。夜景が流れる。四階分の高さから、揺子とメムシュは落下した。
だが、球体のおかげで怪我は免れた。落下の衝撃で砕けた殻は光の粒子となって散り、揺子たちを柔らかな地面へと投げ出したのだ。
「は、ぐ……ッ!」
息を詰まらせながらも、揺子は顔を上げた。
夜空の彼方。豆粒ほどになった影が、月を横切り消えていく。
尾の先で揺れる、小さなシルエットと共に。
「う、あぁ……守れなかった……智代……智代ぉ……っ!」
メムシュの無念はわかる。けど、守られたのは私の方だ。
智代は攫われるその瞬間ですら、自分ではなく私を守った。
揺子はメムシュを抱き寄せた。震える背中を優しく包む。
見上げた夜空に、もう影はない。
それでも――
「……絶対に助ける」
もう二度と、誰も失わないために。
「待ってて――智代ちゃん!」




