第九章 第六節
遠方に侯都シュラインシュタット、そして眼下には森の外れ、草原の端に位置するひとつの天幕が見える。周囲には、人間の気配も翼人の姿もない。
マリーアと再会したヴァイクは、新部族の拠点に戻ることはせず、ある人々を捜し出すためにあれ以来ずっと動き回っていた。
――ジャンとベアトリーチェは無事らしい。時間を置かず、そのうち会えるだろう。
喫緊の課題は、〝極光〟のほうだった。リファーフの村の一件以来、その影すら確認できない。
あのときのような誤解と混乱は二度とごめんだ。今のうちに、できれば話し合っておきたかった。
しかし、手がかりはまるでない。途方に暮れたヴァイクは助力を乞うべく、アオクの元へ来たのだった。
下方に見えるテントの脇へ急降下し、音もなく着地する。
――誰か、来ている?
内側からの声がわずかに耳に届いた。はっきりとは聞き取れないが、アオクとは別の男の声だった。
また新部族のナータンが来ているのだろうか。いぶかしみながらも、ヴァイクはゆっくりと天幕の扉をくぐった。
「よく来た、天空の大鷹」
「だから、それはやめてくれ」
いつものように、アオク自身は中央の炉の脇にしつらえた丸太の上に座っていた。
問題は、その斜め前にいる人物だった。
「ナーゲル!?」
目の前にいるのは、見知った顔、白翼の男ナーゲルだった。
〝極光〟のひとり。
その彼は驚くこともなく、ヴァイクのほうへ向き直った。
「ヴァイクも、ここに来てたのか」
「でも、なんでここに?」
「なんでって、お前こそ」
「俺は……アオクに〝極光〟のことを聞こうと思ったんだ」
「俺たちのことを?」
「ああ、リファーフの村のことは全部誤解だったんだ」
ナーゲルの表情が変わることはなかった。ただ軽く肩をすくめただけだ。
「――わかってる、そのことは。新部族を名乗る奴らにもう会ったよ」
「そうだったのか」
「もっとも、全部を信じたわけではないが」
「だが、あれは――」
「確かに新部族はかかわってなかったんだろうな。だが、人間がやったという点に関しては何も変わらない」
「だったら、お前たちが人間を襲うことも同じだ」
「それは……」
言葉に詰まったナーゲルが目を背け、場に気まずい空気が流れる。
それを打ち破ったのは、色あせた翼だった。
「そう急くな、若き翼たちよ。問いへの答えを急げば、道を誤る。他者の落ち度をあげつらえば、みずからの足元をすくわれる。当然の理だ」
『…………』
「内なる水面を平らかにするのだ。さすれば、おのずと真の姿が見えてくる」
熱くなりはじめた場が、すっと静かになった。
焚き火の音が静かに響き、炎の揺らめきが三人の影をわずかに明滅させる。
「やはり、クウィン族は智者が多いようだ。言葉の意味を知ることと、それを己の身に溶かし込むことはまるで異なる。よくぞ、それだけの心性を得た」
『よしてくれ』
若い二人の声が重なり合い、ばつが悪そうに顔を背けた。
アオクは、珍しく笑った。
「よい、それでこそ〝双翼の後継者〟だ」
「そんなことはどうでもいい。それよりナーゲル、〝虹〟について何か知らないか」
「新部族の連中からも同じことを聞かれた。でも、知らん。そもそも、俺たちは会ったこともないし、噂を耳にしたこともない」
「そうか……。アオクは?」
「前と同じだ。だが聞けば、南方のそれなりに大きな存在らしい」
「大きい?」
アオクは炎を見つめたまま、小さく頷いた。
「方々からその噂を聞く。多くの隊をあちらこちらに展開しておるようだ」
「あちらこちらって……」
「俺たちより規模が上だっていうのか?」
納得しかねるとばかりに、ナーゲルが割って入った。
〝極光〟は確かにマクシムがいた頃に比べれば人数は激減したが、それでも複数の部族が束になってもかなわないほどの力は維持している。
自分たちを超える組織が実在するとは、容易には想像できなかった。
だが、アオクの言葉は明瞭だった。
「規模だけではない。範囲もだ」
「…………」
「だが、目的は見えぬ」
「ナーゲル、お前たちは?」
「こっちも同じだ。そもそも、つい最近まで他のはぐれ翼人の集団がいるなんて思ってなかった」
「だろうな」
自分たちだって変わらない。だからこそ、ここへ来た。
――アーベル。
唯一の手がかり。あの者たちの背後さえわかれば、それでいいのだが。
「急いだほうがいいかもしれぬ、白き翼よ」
不意にアオクが、目を閉じたまま顔を上げた。
「風に熱い波動を感じる。前のときもそうだった」
「前って、帝都騒乱か」
老師が答えるより早く、天幕の外からけたたましい羽ばたきの音が響いた。
『!?』
警戒する二人が剣の柄に手をかけた直後、扉を開けて中に駆け込んできたのは、灰色の翼をした見知った顔の男だった。
「な、ナーゲル!」
「なんだ、ユルクか。老師の前だぞ、みっともない真似をするな」
「そんなことより、南のほうで翼人の大集団が動いてる! どうなってるんだ!?」
ヴァイクがその細い眉を細め、ナーゲルを見た。
「どういうことだ」
「聞きたいのは俺のほうだ。確かな情報なのか」
「あ、ああ、南に派遣していたうちの連中が直に確認した」
「なんだと!? じゃあ、本当に得体の知れない奴らが近づいてるのか」
「だからそう言ってるじゃないか!」
いつもせっかちなユルクは、苛立たしげに拳を振った。
「どこまで来ているんだ」
と、ヴァイク。
「お前は――」
「気にしてる場合か。どうなんだ、ユルク」
「まだ少し距離はあるが、南へ半日といったところだ」
「半日? そんなに近づいてるのか」
半日といっても、それはゆっくりと飛んだ場合の話。急ぐなら、すぐにでも行ける範囲だ。
「どうも連中が動きだしたのは本当らしい」
「俺は、新部族に伝えてこよう」
背を向けようとしたヴァイクの肩を、ナーゲルが摑んだ。
「――ヴァイク。お前、奴らの仲間になったのか?」
「いや、そういうわけじゃない。今は、少し協力しているだけだ」
「どうだか」
「ユルク、うるさい。あくまで直接の関係はないんだな?」
「ああ」
「そうか」
それが確認できれば十分とばかりに、ナーゲルは頷いた。
「ああ、そうだ。ヴァイク、刃が分かれる得物を持った男に気をつけろ」
「刃が分かれる?」
「そいつ、この前見た気がするんだが、俺の見まちがいでなければ――俺たちの集落が襲われたときにも同じものを見かけた気がするんだ」
「…………」
「どういう関係なのか、持ってた奴が同じ人物なのかはわからない。だが、どっちにしろ厄介な武器だ。十分気をつけてくれ。俺は、なんだか嫌な予感がする」
「――ああ」
「そんな奴のことより、ナーゲル! 急がないと! みんなも指示を待ってる」
「わかってる。では、老師。俺はこれで」
あいさつもそこそこに天幕を出ようとしたナーゲルらであったが、思わぬ言葉が返ってきた。
「お主たちはこの件にかかわらぬほうがよい」
「え?」
「未だイーリスの実態が摑めぬまま無闇に関与すれば、互いの混乱を招くだろう。あの哀れな村のときのように」
「…………」
「そうだ、ナーゲル」
同意したヴァイクだった。
「俺たちから伝令が行くまでは、なんとか控えてくれないか。何かあれば、かならず俺が責任をもって伝える。もしものときは、一緒に動こう」
「――俺の一存で決めるわけにはいかないが、そういう方向で考えよう」
「ナーゲル!」
「わかったって」
灰色と白の翼は忙しなくテントを出ていき、すぐさま飛び立った。
「アオク、俺ももう行く」
「こころしてゆけ、大鷹よ。風が乱れておる。おそらくは多くの者――翼も、大地の者も、翻弄されてゆくだろう。大局の流れは人を狂わせる。お主のいるべき場所を見失わないことだ」
「わかってる。十分に注意するつもりだ。俺には、まだやらなきゃいけないことがあるから」
「ならばいい」
ヴァイクも天幕の扉をくぐった。
外は、まさに強い風が吹きはじめていた。




