第九章 第五節
静寂の森を包む暗闇の中、小太りの男は頭を抱えていた。
――あのときの雰囲気と似ている。
そう、帝都騒乱の直前と。
穏やかで静かでありながら、そのどこかにぴりぴりとした張りつめた空気を感じる。それがわかっていても対応することができず、時間ばかりが過ぎていく。
「ああ、俺はどうしたら……」
「ジャン?」
横合いから、かわいらしい少女の声が聞こえてきた。呼ばれた男がはっとして立ち上がると、すぐ近くに白翼のマリーアが立っていた。
「どうしたの? 茂みの中になんか隠れて」
「あ、ああ。よく考えごとをするときこうするんだ」
それは嘘だった。怖くて自分ではどうしようもないときに、故郷でも同じようにしていたのだった。
こちらをじっと見つめるマリーアに、重ねてどんな言い訳をしたものか悩んでいると、彼女のほうが先に口を開いた。
「ジャン」
「は、はい」
少女には不似合いなほどの妙な迫力に圧倒され、声がうわずってしまう。
「どうも大きな戦いが起こるみたいなの」
「え? それって――」
「ヌアドたちがいろんな準備をしてる。でも、今までとは様子が違うの」
「どういうこと?」
「みんなの表情が変わった。なんか……よくない覚悟を決めてる気がする」
少女の白い繊手が、ジャンの腕をきゅっと摑んだ。
「ねえ、ジャン」
「うん」
「今から言うことをよく聞いて」
「どうしたの、改まって」
「あえて黙ってたんだけど、ヌアドはアーベルたちを道具として利用しようとしてる」
「…………」
「あれ? 驚かないの?」
「薄々気づいてたよ。なんか、あの人だけアーベルたちとは目的が違う気がするんだ。それもあって、俺はここに残ることにしたんだけど」
「この前、見たこともない翼人の人と話してた、『アーベルたちを捨て駒にして相手にぶつける』って」
「やっぱり……。で、その内容は?」
マリーアは、首を横に振った。
「困ったなぁ。アーベルにそのことを話しても信じないだろうし」
「私も、それでジャンに相談しようと思って。ヴァイクにはもう話したんだけど」
「へえ――って、ええ!? もう会ったの!?」
こくりと頷き、頬をほんのりと赤く染めて、少女らしい仕草でもじもじとしている。
――アーベル、やっぱり浮かばれない奴……
「そ、それで、ヴァイクはなんて?」
「なんとかしてみるって言ってくれたけど、たぶん今のアーベルにはヴァイクの言葉は届かないと思うの」
「だろうね」
あのきかん坊の顔を思い出し、われ知らず苦笑してしまう。
――相手がヴァイクだからこそ、聞かないだろう。
「けどね、ジャン」
深刻の度合いを深めて、マリーアが告げた。
「私、もっと気になってることがあるんだけど、それが何を意味するのか考えられないの。頭のいいジャンならわかるかと思って」
「俺は頭がいいってわけじゃないけど、どうしたの?」
「あのね……」
少し間を置いてから、マリーアはそれでもはっきりと言った。
「実は私、故郷の部族が襲われたとき、ヌアドを見た気がするの」
「…………はい?」
「ヴォルグ族の襲撃があったあの日、ヌアドは確かにそこにいたの。私、目には自信があるから、見まちがいじゃ全然ないと思う。剣も今使っているのと同じだったし」
うつむいた少女に、ジャンが怪訝な表情で問うた。
「どういうこと? 傍観していたのか、それともクウィン族を助けようとしたのか」
「ううん、そういうことじゃないの」
「え?」
「だって、あのとき――」
マリーアは、その細い眉をひそめた。
「ヌアドは紅色の翼だったから」
「紅色って……ヌアドがヴォルグ族だったってこと?」
「うん。だから、私も記憶が戻ったときに驚いた。でも、それより不可解で。それもあって、ずっと言葉を話せない振りをしてたんだ、アーベルたちの前でも」
――どういうことだ。
今のヌアドは、明らかに灰色の翼。しかし、マリーアは確実に見たという。
「翼人の世界では、双子の翼の色が違うことってあるの?」
「あるよ、両親がそれぞれ別の部族だったときに。でも、それだと顔とか見た目も似てないの」
「ああ、それは人間の場合も、髪の色とかで一緒だね」
しかし、それでは余計に意味がわからない。
「で、そのときヌアドは何をしてたの?」
「戦ってたよ、他のヴォルグ族の人たちと一緒に」
「じゃあ、たまたまそこに居合わせたわけじゃないんだ」
「ジャン、どういうことかわかる?」
「うーん、ただの憶測だけど、その答えはいくつかに絞られると思うよ」
「えっ、何!?」
「それより、このことをヴァイクには?」
「伝えてない。彼には、過去にとらわれてほしくないから……」
――確かに。
ヴァイクのことだ。それを知ったら、今度はことの真相を突き止めるために必死になって行動するだろう。
そして、復讐の標的をヌアドやイーリスに変えて、それでもその憎しみに彼は葛藤することになる。
マリーアは、彼の内面をよくわかっていた。
だが、そのことよりも、ジャンは恐るべき真実を摑みかけた予感に、内心冷や汗をかいていた。
――これはひょっとしたら、翼人の世界を揺るがすとんでもない事実かもしれない。
あとでアセルスタンに確認してみよう。もし、自分の推測が正しいとしたら――
「ジャン」
「…………」
「ジャンったら」
「あ、うん、なんだい?」
「私、今からアーベルたちに話してみる」
「――――」
「もう、時間がないと思うの。早くしないと、本当のことを知らないままアーベルたちが戦いに行っちゃう」
「そうだね。だけど、ヌアドには絶対気づかれないほうがいい。たぶん、君はとんでもない事実の証人だから」
「さっきのこと?」
「ああ。とにかく急ごう。確かに出発しちゃってからじゃ、僕たちには何もできない。それに俺もずっと嫌な感じがするんだ」
二人は頷き合うと、すぐに駆け出した。アーベルらがいるはずの場所へ、一目散に走っていく。
マリーアは悪路をものともせず、それこそ飛ぶように疾走する。そんな翼人特有の身体能力に、人間の中でも劣っているほうのジャンがかなうはずもなく、簡単に引き離されてしまった。
必死になっているマリーアは、背後の気配が遠ざかったことにまるで気がつかない。
獣道を駆け抜け、下草を弾き飛ばし、岩を踏みしめて、それでも速度を増してマリーアは進む。アーベルの姿が見えはじめたのは、程なくしてのことであった。
深い森の一角、天蓋の窓が開けたわずかな空間に、黒翼の少年はいた。
見慣れない剣を一心不乱に振るいつづけ、この季節には不似合いな感のある清涼な風が吹いているというのに、全身にたっぷりと汗をかいていた。
近づくマリーアに気づいた様子はない。いや、気づいてはいるのだろうが、己のことに集中している様子だった。
すぐそばまで来たというのに、鋭い音を立てて素振りをくり返し行っている。
「アーベル」
「なんだ? 今、忙しい。アセルスタンの剣に慣れるのに精いっぱいで」
「アーベル」
「あとにしてくれって! しばらくこれで戦わないといけないんだ」
「アーベル!」
鋭いが、やわらかい少女の声にはっとして、アーベルは急ぎ振り返った。
聞き慣れない声。しかし、こころのどこかでずっと待ち望んでいた声。
「ま、マリーア……」
そこにいたのはまぎれもなく、あの白翼の少女だった。
「アーベル、これでやっと話せる」
「正気に返ったのか!?」
「うん、ジャンとベアトリーチェのおかげで」
ずっと話をしてみたかった相手が今、目の前にいるという現実に、アーベルは驚愕と戸惑いで動けなくなった。
しばらく口を開けたまま、マリーアをまじまじと見つめた。
「うん? なぁに、アーベル」
「い、いや、本当に元気そうだなって……」
照れてしまい、相手の目を見ることもできない。気配でマリーアがくすりと笑ったのがわかった。
――本当のマリーアって、こんな感じだったのか。
もっとおとなしい子かと思っていた。
「あ、今失礼なこと考えたでしょ」
「……そ、そんなことないよ」
しどろもどろになって取りつくろうアーベルだが、早くもマリーアに振り回されている。この光景をヴァイクが見たら、昔とおんなじだとつぶやいたことだろう。
居住まいを正し、マリーアは黒翼の少年に向き直った。
「あのね、アーベル。あなたに話したいことがあるの」
「僕もだ、マリーア。ずっと……伝えたいことがあった」
「私の話を先に聞いて。とっても重要なことなの」
「マリーア?」
ただならぬ気配に、アーベルは握ったままだった剣を音もなく鞘に収めた。
「あのね、これからのことなんだけど――」
マリーアが勢い込んで話そうとしたそのとき、遠方から羽ばたきの音が響いてきた。
「あ――」
アーベルの視線の先に、灰色の翼が見える。それは、確実にこちらへ近づいてきた。
大切な時間を汚されたようで、彼は憎しみさえこもった目で相手を睨みやった。
やがて、それは二人の眼前に降り立った。
「何をしている」
「何をしていようが僕の勝手だ」
苛立ちを隠そうともせず、アーベルは言い返した。ヌアドは怪訝な色をその表情に浮かべたものの、それ以上追求することはなかった。
「他の奴らも集まってきたようだな」
ヌアドの視線の先を追うと、複数の翼が見えた。皆、こちらへ向かい、その中の檸檬色の翼は最後尾にいた。
なぜかアーベルには、そのカルの表情だけがやけに硬いように思えたが。
全員が近くにやってきてから、ヌアドがおもむろに口を開いた。
「これから戦いに向かう」
場の空気ががらりと変わる。しかしその一部には、どこか沈鬱なものが漂っていた。
それに気づかない振りをして、ヌアドは言った。
「この世界を変えるための真の戦いだ」
「真の戦い?」
「ああ、前から言ってあっただろう。これまでのことは準備段階にすぎない。いよいよ、本格的に動くんだ」
「動くって何を?」
「ちょっと黙っていろ、アーベル。いいか、落ち着いて聞け。我々はこれから、人間の都市を襲撃する。人間側と全面対決するぞ」
「!」
驚愕したのは、アーベルよりもむしろ、マリーアであった。
――本当にそんなことになったら、大変な被害が出る。
〝虹〟の面々とは異なり、人間を襲うことに慣れていないマリーアは、ひとり震えた。
「くわしいことは、標的の近くで話す。行くぞ」
誰からも反論の声が上がることなく、それぞれ羽ばたいて上空に舞い上がった。
「あ……!」
思わず一歩踏み出し、彼らを引き止めようとしたマリーアを、ようやく追いついたジャンがさりげなく遮った。
「アーベル! みんなも、待って!」
「ジャンか……。マリーアを頼む」
「あっ、ちょっと!」
大声を張り上げて引き止めようとしたというのに、アーベルらはそのまま飛んでいった。
「しまった、間に合わなかったか……!」
自分なりに最大限急いできたつもりだったのだが、紙一重だった。
「こんなにすぐ動くとは思わなかったよ」
「ジャン、どうしよう!?」
「どうって、もうこうなったからには、ヴァイクたちに期待するしかないよ」
「でも、それだったらヴァイクにこのことを伝えないと」
「そ、そうだ、こんなところで突っ立ってる場合じゃない。急ごう」
頷き合うと、再び駆け出した。ジャンはあっという間に置いていかれるが、森の出口がどちらかはわからない以上、なんとかしてマリーアについていくしかなかった。
二人がけたたましく駆けていっても、森の静寂は相変わらず不自然なままだった。
その上方で、若い白翼の戦士が薄く目を開け、周囲を睥睨していた。




