第八章 第五節
侯都の空は、抜けるように青く澄み渡っている。昔見た海のようにそれは深く、果てしなく広がり、空を舞うものは海鳥のごとくであった。
人間の世界でいう休日の午後は呆れるほど穏やかで、天も地も人の通りはまばらで朝からずっと静かなものだった。
――のんきなものだ、危機が迫っているかもしれないというのに。
平和を体現するこの町は、なぜかあまり好きになれない。
シュラインシュタットにやってきたアイラことアーシェラは静かに嘆息しながら、西へ向かって飛んでいた。
新部族とやらにうまく潜り込んだものの、今のところやることがない。情報収集しようにも、意外と伝達経路は限られているようで、未だこの集団の実態は摑めないままだった。
自分でも無茶なことしているという自覚はある。だが、新部族と〝極光〟の急接近は予想を遥かに超えていた。
――このまま放置していたら――
いろいろな思いが渾然一体となってこころをよぎる。
不安、孤独、苦悩、葛藤――だが最後には、いつもこう自分に言い聞かせてきた。
|何が正しいか考えるのは《、、、、、、、、、、、》自分の役割ではない。
それがくだらない逃避と自己弁護であることをこころの奥底で自覚しつつ、それでも目を背けつづけてきた。
――だが、ネリーは。
彼女は、目の前の現実、自分自身の今から逃げていない。確かに力は弱いのかもしれないが、その意志の強さ、芯の太さは、〝極光〟の中でも他を圧倒するものがある。
――そこが、彼女の慕われる理由なんだ。
やさしさだけではない、そんな包容力とも呼ぶべき懐の大きさがあるからこそ、周りが自然と集まってくる。
――翻って自分は……
軽く首を振って考えるのをやめた。
詮ないことだ。近くにいる存在とみずからを比較したところで、くだらない劣等感に苛まれるだけ。
自分は自分の役割を果たすしかなかった。
――自分の役割、か。
それさえも己を卑下するには十分な理由なのだが、もはや何も考えないようにした。
自分は駒でいい。そのほうが――楽に生きられる。
「!?」
無骨な城の東側を行き過ぎたとき、眼下の山に人影があった。
それが問題なのではない。今は昼間だ、どこにだって人はいるだろう。しかし、その姿があまりにも見慣れた存在にひどく似ていた気がする。
どうせ見まちがいだと自身に言い聞かせるものの、どうにも気になって確認するべく、翼人の目で視認できるところまで高度を下げた。
そして、唖然とした。
ここにいてはいけない存在、いるはずがない人。だが、自分だからこそ見まちがえるはずがなかった。
周囲に他の人間、特に翼人がいないことを確認してから、一気に急降下してその人物の眼前に降り立った。
「ネリー」
「えっ!? あ、アーシェラ……」
さすがに相手も驚いている。だが、その度合いがより大きいのは、やはりアーシェラのほうであった。
「どうしてこんなところに」
「聞きたいのは私のほうよ。アーシェラ、今までどこに行ってたの? みんなは放っておいても大丈夫って言うけど、私は心配で……」
「実際、問題ない。私は、そこら辺の奴に負けるほど弱くはないぞ」
「そういうことじゃないよ。相談したいことがあったのに、ずっと戻ってこないんだから」
「悪かった」
素直に謝っておくことにした。ネリーの愚痴は、意外に長い。
「それで、相談事って?」
「――もう遅い。私がここに来てるし」
「どういうことだ? そこがわからない」
ネリーは、ここに至るまでの経緯をざっくりと説明した。
アーシェラは〝極光〟が新部族と接触することになったのはすでに知っているだろうが、まさか互いに要員を交換するとは思っていなかったはずだ。
案の定、アーシェラの細い眉がひそめられた。ネリーはそこに、わずかな違和感を覚えたがそれはすぐに消えてなくなった。
「そうか、そういうことだったのか」
「もしアーシェラがいたら反対してた?」
「……どうかな。少なくとも、止めてはいただろう」
「ナーゲルたちからすっごく怒られた」
「あいつらは心配性なんだ。でも、お前が必要なことだと判断したんだろう? それなら、周りが止めてもやるべきだ。違うか?」
「うん、そうなんだけどね。ただ、個人的な理由もあるし……」
ネリーの柔和な表情に、一瞬だけ影が差したように見えた。
――〝極光〟に来たばかりの頃に似ている。
すべてをあきらめ、それでもどこかに強い思いを抱えたままの目。
――自分がネリーを気にかけたのは、それが自分と似ていたからかもしれない。
はっきりとした理由は未だわからない。だが、それは完全にお互い様だ。自分だって、どうしても相手には伝えられないことがいくつかある。
「それで、実際にこっちへ来てみてどうだったんだ?」
「うん、予想どおり――予想以上だったかな」
「何が?」
「本当に翼人と人間とが協力していた」
「私たちだって同じだ」
「でも、アウローラの人間は私だけで、たいして役にも立ててない」
「ネリー」
「ひょっとしたら、新部族の人たちが理想形なのかもしれない。翼人も人間も分け隔てなく共存してる。結束力も強い」
「――――」
「ねえ、知ってる?」
「うん?」
「彼らのリーダー、女性なんだよ」
「うちとおんなじじゃないか」
「私はリーダーなんかじゃない。そんな器じゃ……ない」
その声の奥底に、わずかな暗さがあった。
それに気づかない振りをして、アーシェラはあえて厳しい口調で言った。
「ネリー、お前はなんになりたいんだ」
「え?」
「お前はお前にしかなれない。他人を羨んでも比較しても意味はないだろう」
「でも、私は――」
「じゃあ、新部族の首領のようにお前はなれるのか? いいや、無理だ。お前はそもそも、そんなタイプではない」
「…………」
「割り切るんだ、ネリー。すべてを得ようとしたところで、つらくなるだけ。今の自分がすべてだと受け入れるようにしないと、いつか身を滅ぼすぞ」
「アーシェラ……」
言い方はぶっきらぼうだが、これが彼女なりのやさしさだとネリーにはわかっていた。
だから、静かに微笑んだ。それはまだ力ないものだったが。
「わかった、アーシェラ。私は、私のやり方でやってみる」
「それでいい」
「でも、もし私が道を誤ったらどうする?」
「私が、その白い頬を叩いてやる」
「ふふ、怖いけど、ありがとう」
互いに笑い合った。
たとえこころの内に一部の暗闇があろうと、二人の間にわだかまりはない。いつもの拠点ではなくまったく別の場所にいるという現実も、今ばかりは関係なかった。
「なあ、ネリー」
「はい?」
「もし私が――いや、なんでもない」
「アーシェラ?」
滅多になく言いよどんだその様子に、ネリーは不穏なものを感じたが、あえて問いただすことはなかった。
しかし、そうすべきだったのかもしれない。アーシェラが重要なことを明かそうとした千載一遇の機会を、ネリーは逸してしまった。
「お前がいるなら、私はしばらくこの辺に残る。何かあれば、またここで落ち合おう」
「うん」
紅い翼が音もなく舞い上がった。それを見上げるネリーの目は、先ほどよりもずっと穏やかなものになっていた。
「ネリー、無理はするなよ」
「アーシェラこそ――って言ったら怒る?」
「お前に言われたくない」
「もう」
今度こそ、女戦士は飛び去った。その背中がまったく見えなくなるまで、ネリーは少し雲がかかりはじめた空をずっと見つめているのだった。
――アーシェラ、みんな、ごめん。私はこれから、とんでもないことをするかもしれない。
自分を抑えられる自信がなかった。あの思いを、自分の中で受け止める余裕がなかった。
――私が、もしあの人に出会ったとしたら――
それを待ち望む気持ちがある一方、いつかそのときが訪れることを恐れてもいた。
再び影の差した表情になったネリーは握った手に力を込め、丘をゆっくりと下っていった。
そんな二人の横で、わずかに人の動く気配があった。
「……んー?」
萌葱色の翼が、大木の上方にある枝の上で身じろぎした。寝ぼけ眼を気怠げにこすり、それでもぼんやりと中空を見つめている。
――アーシェラ……?
どこかで聞いたような気がする。ああ、そうだ。
――確か、アーデの偽名……
どうしてアーデがここに、という当然の疑問はあっという間に消えてなくなった。再びやさしい睡魔が襲ってきたからだ。
ナータンは、深い眠りに落ちていった。自身が、極めて重要な事実を見落としたことに気づかないままに。




