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第九章 変転、崩壊

 こんなにも他人の態度に苛立ちを覚えることはない。

 身なりだけは立派な壮年の男が神経質な表情で、たいして広くもない部屋で右往左往し、革靴で床を叩き、建て付けが悪い窓を罵る。

「カール」

「いったい、いつまで待たせるつもりだ。こっちは、朝からずっとここにいるというのに」

「おい」

「まったくこんなことになるなんて……共和国もノイシュタットも腹立たしい」

「落ち着け、カール」

「しかし……」

「いいから落ち着け! お前の態度が周りをいらいらさせる」

 ふだんなら、こんなきついことはけっして言わない。しかし、さすがのダミアンも今は余裕がなかった。

 ――まさか、ここまでとは。

 まだ二人の執政官とは会えてはいない。だが、共和国に来た時点ですでに、十分すぎるほどの衝撃を受けていた。

 ダスクが臨戦態勢にある。

 首都ブランのすべてが物々しく、今日は平日だというのに街中は人影がまばらだ。

 あちらこちらで軍の関係者が走り回り、平和なはずの町を無数の軍馬が闊歩するという異様な光景が展開されている。

 戦時体制、それも総力戦に近いものに思えてならなかった。

 事ここに至り、ようやく楽観的であったカールら強硬派の面々も、己の認識の甘さを痛感せざるをえなかった。

 仮に戦が起こったとしても小競り合い程度だと、皆が思い込んでいた。否、そう思いたかった。

 だが、現実はこちらの予想を遥かに超えて進んでいた。共和国を押し止めるため、ここにはダミアンやバルテル隊商同盟の面々だけでなく関係する商人たちも集まっていたが、一様に暗い色をその表情に浮かべていた。

「まさか、まさか、ここまで話が大きくなるとは……」

「だから、ノイシュタット侯が大幅に譲歩してくれた時点で納得すべきだったんだ」

「だが、ダミアン! 貴様が交渉の対象を誤ったせいもあるんだぞ! 交易税さえもっと減っていたら、本当に若い連中を納得させられたんだ」

「それが高望みだというんだ! 交易を制限したいノイシュタット侯が、わざわざ交易税を下げるはずがないだろう! だいたい、増税しても交易は減らなかったんだぞ!? 侯の立場になってみろ」

「…………」

「私はあれでよかったと思っている。今にして思えばあれ以上の要求をしたら、確実に侯の怒りを買っていた。そうなれば、被害は我々だけにとどまらなかっただろう。ノイシュタット侯はあのゴトフリートに、唯一みずからの剣で立ち向かった男だということを忘れるな」

 言い返したくとも返せないカールは、苛立ちまぎれに両の拳を壁に叩きつけた。

「落ち着きなされ、二人とも。仲間同士でいがみ合っていても、何も解決はせん」

 年長者のグスタフが静かに、しかし有無を言わせない調子でいきり立つダミアンらを諫めた。ふだんメルセア王国を拠点とする彼は、この中でもっとも多くの護衛を引き連れていた。

 そのグスタフが、ため息混じりに言った。

「しかし正直なところ、まさか生きているうちに再び同じようなことに遭遇するとは。あまり長生きはするものではないですな」

「どういうことです?」

 珍しく口を開いたのは、モーリッツだった。

「以前、メルセアと北のゴールとの間で似たようなことがあったのですよ。現地でクリーク戦役と呼ばれておるものです」

「聞いたことがありません」

「まあ、今となっては年寄りしか憶えておらんようなことです。元々は、フォルムヴァルトという領地で起きたくだらない後継者争いでした。だが、国境付近の地域だったことが話をややこしくした。しかも、そこは七十年前はゴールの、そして現在はメルセアの領土なのです」

「歴史的にも奪い合いが続いていた地ということですか」

「うむ。しかも相続争いの片方がメルセアに、もう片方がゴールに支援を求めた。初めは大国の側も、互いにちょっとした当てつけのつもりだったのでしょうな。だが、紛争が長引き、戦いが激化していく中で、両国は主戦力を出すしかなくなった」

「ど、どうしてそんなことに?」

 と、カール。

 それに答えたのは、わざとらしく嘆息したダミアンであった。

「面子だよ」

「面子?」

「たとえ元々は一領地での小競り合いにしても、国が介入した以上、決着がつかないままに手を引いたら、それは『国が負けた』ということになってしまう。そんなことを、特に大国の側が許すわけがない。そんなこともわからないのか」

「お前には聞いていない、ダミアン!」

「まあまあ、お二人とも。理由は他にもあって、両国とも国内が揺らいでおったのです」

「なるほど、外部に対する威信だけでなく、内部に対する思惑もあったということか」

「そういうことです、モーリッツ殿。それゆえ、両国は引くに引けなくなった」

 老いたグスタフは大きく息をつきながら、眼前の杯を手に取り、喉を湿らせた。

「それからは悲惨なものでした。両国とも傷つきたくはない。何せ、帝国などの狼が周辺にうろうろしている。致命的な痛手を負えば、相手には勝ったとしても他の国に敗れることになる。だから、中規模の戦が延々とつづくことになった」

「それゆえに、他国の人間にはあまり知られていないのですね」

「そうです。実は、この老いぼれはその地の出身でしてな、家族も友人も――かつての婚約者も戦乱の中で失った」

 グスタフが口をつぐんだ。いつもの落ち着いた表情の中にも、沈痛な思いを感じ、一同は何も言うことができなかった。

 その静寂に耐えきれなくなったように、カールが問うた。

「……今、その地はどうなっているのです?」

「小康状態は保っておりますが、今でも睨み合いは続いています。もうかの領地は荒れ果て、領民が逃げたために、もはや占領する価値はないというのに。そもそも、最初に争っていた者たちの後継者も、すべて戦死しました。すでに戦う理由はないのに、振り上げた矛を下ろすことができない。思えば、滑稽な話です。両国の重鎮ですら、今はこう思っているのですよ、『なぜこんなことになった』と」

 机の上に広げていた本を閉じ、グスタフは椅子に身を預けた。

「では、今回もそうなると……?」

「カール殿、それは誰にもわかりません。ノイシュタット侯や執政官が愚かでないことを祈っておりますが、領土問題がからむといろいろなことが狂っていく。ひょっとしたら、両者にとってもすでに手に負えない状態になっておるやもしれませんな」

「――そうでしょう、おそらく誰が何をしようとしたところで結果は変わらなかった」

「モーリッツ殿?」

 それまで彫像のように動かなかった巨漢の男が、おもむろに口を開いた。

「フィズベクの領土問題は、前ノイシュタット侯どころか、さらにその先代の時代からつづくもの。しかも共和国の動きの速さからして、以前から準備を進めていたはず」

「確かに……」

「我々は利用されたのです。きっかけを欲しがっていたこの共和国に、わざわざ餌を与えてしまった」

 いつもならモーリッツの物言いに突っかかるカールも、今ばかりは頭を抱えた。

「じゃあ、我々が何もしなかったとしても、こうなっていたということか……」

「おそらくは」

 と、ダミアン。

「実は帝都の大神殿に知己の者がいるのですか、内々に教えてくれたのです。共和国がノイシュタットへの侵略を真剣に考えていて、その大義名分を欲しがっている、と」

「まあ、〝政治屋〟がよくやることだ。大神殿のお墨付きがあれば、何をしても許されると考えている」

「いや、カール殿。それは半分正しいことですぞ」

「グスタフ殿?」

「例の反乱騒ぎでレラーティア教の威信は地に堕ちましたが、それでもまだまだ影響力はある。今回の一件も、意外と大神殿の動きが鍵を握っておるやもしれませぬ」

「共和国と帝国だけでなく、神殿もからんでくるわけか……」

 憂鬱なことであった。

 こうも関係する存在が多いと、なおさら先を読むのが難しい。しかも各組織の内部には思惑のまったく異なる権力者が複数いるのだから、もはやどうしようもない。

 それらが複雑にからみ合った糸が〝現世〟を織りなしているにしても、今は憂鬱な未来しか想像することができなかった。

「はっきりしているのは、もはや我々の手に負える次元の話ではなくなったということだ」

「モーリッツ……」

「だが、打てる手は打っておこう。焼け石に水だろうが、一縷の望みにかけて共和国と交渉しておく価値はある」

 他から異論が出ようはずもなかった。このまま放置しておけば、他ならぬ自分たちも危機的状況に陥ることは確実なだけに。

 しばらくすると、沈黙に支配された室内に廊下のほうから、慌ただしい足音が響いてきた。

 その数は複数。確実にこちらへ近づいているようだった。

 程なくして、扉の前に到達した。

「執政官ミレーユ様のおなりである!」

 予想外の事態に一同があわてふためく間に、さっさと扉が開け放たれてしまった。

 従者の言葉どおり、そこから現れたのは見目麗しい妙齢の女性であった。その内面を体現するかのように顎を上げ、全体を睥睨する態度は相変わらずだ。

 場にいる全員が一斉に立ち上がった。まさか、執政官みずからがここを訪れるとは微塵も思っていなかった。

「よい、座っておれ」

 静かに促すと、自身は壁際の中央に立った。

「話があるそうだが、何用じゃ。(わらわ)は忙しい。要件のみ手短に話せ」

 急ぎダミアンが口を開いた。ミレーユの性格だ、本当に早くしないとさっさと帰ってしまいかねない。

「実は、以前申し上げたノイシュタットの件で、再びお伝えしたい議がございまして」

「そなたか。顔は憶えておる。確か、ノイシュタット侯の横暴に関することであったな?」

「はい。その件なのですが、御国のお陰もあり、状況は随分と改善されました。わたくしどもといたしましても、もはや十分と考えております」

「それで?」

「これ以上、御国のお手を患わせるのは恐縮でございます。ゆえに、ノイシュタット側へ圧力をかけることは、もう――」

「よい」

 ミレーユの口調は淡々としたものだった。なぜか、いつもの高圧的な調子はなく、どこか穏やかさすら漂わせていた。

「そなたらが心配することではない。ことはすでに、我ら共和国とノイシュタットの問題に移った」

「しかし……」

「あとのことは、我らに任せておけばよいのじゃ。気にするでない」

「とはいえ、ミレーユ様」

 言葉に詰まってしまったダミアンに助け船を出したのは、年長のグスタフだった。

「御国は素晴らしい技術、素晴らしい軍をお持ちといえど、ノイシュタット侯軍も精鋭ぞろい。正面からぶつかり合えば、ただではすみますまい」

「正面からぶつかり合えば、な」

「?」

 グスタフがその真意を問いただす前に、ミレーユのほうが再び口を開いた。

「ほう、誰かと思えば、〝流浪〟のグスタフではないか。まさか、こんなところで会おうとはの」

「ご無沙汰をしておりました。なにぶん、今は東方におりますゆえ。しかも現在の実務は若手に任せておりますので、御国への足が遠のいておりました」

「壮健で何よりじゃ。父上が生きておられれば、そなたとの再会を喜んだことだろう」

 (うやうや)しく一礼したグスタフは、おもむろに言った。

「執政官であられたお父上も、今のこの国を見ればさぞやお喜びになられるでしょう」

「そうじゃ、ダスクの再興は父の悲願であった。そして、フィズベクの奪還もな」

「やはり、今回の一件は以前から準備なさっておられたのですね」

「当然じゃ、でなくばノイシュタットに刃を向けるはずもない」

「では、わたくしどもの陳情はきっかけのひとつでしかなかった、と?」

「老いたりとはいえ鋭いのう、グスタフ。そのとおりじゃ、我ら共和国はずっとこの好機を待っておった――何年も何年も。準備が整ったのは先々代の時代。それからずっと堪え忍び、待ちわびてきた。帝国が弱体化し、ノイシュタットがぼろを出すこの機会を」

「…………」

「切れ者集うバルテル隊商同盟、そのことにはすでに気づいておるのだろう?」

 誰からも、反論が出ようはずもない。それどころか、あのミレーユがここまで正直にすべてを話すことのほうが驚きだった。

 グスタフのおかげだろうか。それにしても、今日の彼女は饒舌だった。

「――それは、先ノイシュタット侯ジークヴァルトへの報復ですか」

「モーリッツ殿……」

「いいや」

 やや不遜ともいえるモーリッツの物言いにも、ミレーユは怒った様子もなく淡々と答えた。

「あれは、寝返った当時の領主が愚かであっただけ。それ以前に、帝国創建前はノイシュタットの半分が我らの領土であった。卑怯にも奴らはロシー族をけしかけ、帝国連合軍によって奪い取っていった」

「帝国創建以前? あなた方は、二五〇年以上も前の話を持ち出そうというのですか」

「それが何か?」

「恐れながらミレーユ閣下」

 ダミアンが割って入った。

「奪った側は忘れ、奪われた側の痛みは永遠に残るものではありますが、さすがに大昔の話では大義名分が成り立ちますまい。それでは、帝国だけでなく周辺諸国との関係がこじれてしまうのでは?」

「そんなことはどうでもよい」

「……は?」

「他の国が何を感じ、何をしようが我らにはかかわりのないこと」

「…………」

「我らは国の悲願を成就する、それだけじゃ」

 ――感情論か!

 ダミアンは頭を抱えそうになった。

 これだ、これがもっとも怖かった。明確な理由があるのでもなく、ただ『こうしたいからこうする』という、ややもすれば子供じみた行動原理が国そのものを動かしている。

 巨大な馬車が、暴走した馬に引きずられているようなものだ。合理的な理由がないからこそ、手綱が切れてしまったかのようにもはや制御は難しい。

 暗い、というより絶望的な表情になったダミアンの横を、ミレーユは不気味なほどにこやかにグスタフと別れの挨拶を交わして、そのまま颯爽と去っていった。

 どうしようもなく重い沈黙が場を完全に支配する。

 陳情は、まったくの失敗に終わった。否、初めから交渉の余地などなかったのだ。こちらは、単なる商人の集団。どれだけ群れ集おうと、一国の決定を覆すことなどできようはずもなかった。

 ミレーユが去ってからしばらく経ったというのに、誰も声を発しようとはしなかった。

 大変なことになった。共和国は、ノイシュタットとの全面戦争も辞さない構えだ。 

 いつもならこういった場合に、カールをはじめ若手の面々が騒ぐところだが、今は静かなまま。

 なぜなら、ほとんどの若手商人は危険を察知し、自分たちだけ先に逃げ出していた――全員で行くと約束したにもかかわらず。

 その点では、怯えながらもここまでやってきたカールは立派だった。

 ようよう皆に告げたのは、最後まで態度を変えなかったモーリッツであった。

「いつまでもこんなことをしていても仕方がない。今は、一刻も早く次の手を打たなければ」

「そ、そうだ、すぐに各地の支店に対応を、資産を逃がさないと! ああ! 家族にも逃げるように伝えておけばよかった!」

 そういうことじゃないだろう、とダミアンは一喝したくなったが、やめておいた。ここまで恐慌状態に陥ったカールをどうにかするのは、それこそ共和国をひっくり返すより難しい。

 ひとり騒ぐ男は放っておいて、モーリッツのほうへ向き直った。

「こうなったら、すべてノイシュタット側に正直に伝えるしかあるまい」

「ああ。無駄だとは思うが、ノイシュタット侯を支援するよう、他の選帝侯にも接触してみよう」

 二人は頷き合った。

「ただ、あの執政官の言葉をどこまで信じてよいものやら。今日は、やけに穏やかな態度だったし……」

「あれは穏やかというより、かなり機嫌がいいのですよ」

「グスタフ殿?」

「ミレーユ様は昔から、あまり感情を表に出すような方ではなかった。あれでも、内心かなり浮き立っておるはず」

「……戦に対する高揚感ですか」

「それもあるのでしょうが、それだけではない。きっと、共和国の悲願が達成される充実感もあるのでしょうな」

「共和国の悲願……」

「そうか、あなた方がわからないのも無理はない。私も共和国との付き合いが長いから嫌でも知ることになったのですが、この国の人々のノイシュタット、引いては帝国への恨みはおそろしく根強い。一般の人々でさえ、な。きっと、過去の痛みを忘れぬよう、教育を徹底してきたのでしょうな」

「――恨みを忘れぬようにする努力に、いったいどんな意味があるのでしょう」

「私も疑問です。憎しみは負の連鎖を生む。そして、誰も得をしない。しかし、それが共和国のやり方だとしか言いようがないのです」

「もう、議論は結構」

 モーリッツが椅子から立ち上がった。

「今は行動が必要だ。すでに手遅れだろうが、やれることだけはやっておこう。どういう結果になろうと、後悔は小さいほうがいい」

「そうだな」

 それぞれも重い腰をようよう上げた。すでにすべての覚悟をあらかじめしていたのか、もっとも老いているはずのグスタフがもっとも早く部屋から出ていった。

「ダミアン、君はどうするつもりだ」

「とりあえず、シュラインシュタットの支店へ戻る。カールじゃないが、まずは部下たちに事情を説明しないと。子供たちはイルマに頼んで逃がしておいたが、どうなっているのか気になるしな……」

「確かに、共和国が戦場になることはないだろうが、ノイシュタットの側は国境線以外も危ういかもしれん」

「君は?」

「とりあえずカセルに戻る。それから、ローエとブロークヴェークの関係者に接触してみるつもりだ。少しだが知り合いがいる」

「そうか」

 二人は別れの挨拶もそこそこに、昼間だというのに薄暗い廊下を別々の道へと進んでいった。

 皆がいた広間から、カールの姿はいつの間にか消えていた。

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