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5.サンドバッグと逃亡

 心がモヤモヤしたまま、出勤する。

 罵倒。悪口。今日も他人の負の感情を受け止めなければならないのだろう。いわば、僕はサンドバッグ。他人にとって、都合のいいサンドバッグ。


 でも、僕はなりたくてサンドバッグになったわけではない。


 それなのに、どうしてサンドバッグにされなければならないのだろう。

 多くの人間は自分の立場を優位にしようとする。


 優位にするためにはどうしたらいいか。


 いろいろな方法や手段があるが、禁じ手も含めるとするのなら、『他人を陥れること』、これだって自分を優位な立場へ持っていく手段の一つである。

 妬み、ストレス解消、理由はさまざまだが、手段として存在している以上、禁じ手に手を出してしまう人間は少なくない。

 だが、『禁じ手である』と理解しているのであれば、本人たちにとって多少の悪気というものは存在しているのかもしれない。


 しかし、ここに『言い訳』というエッセンスを加えてみたとしたら、どうだろうか?


「みんなやっているんだから、俺が他人を罵倒しようが社会では常識だ」、「私以外にもやっている人間がいたから、他人を潰す行為を私のせいにするな」、なんて、恐ろしい詭弁がまかり通ってしまうのかもしれない。

 悪は悪と認識されず、ダメなものはダメなのだと正しく評価されず、人間の闇が積もりに積もっていくのである。


 では、この積もった闇を取り除くにはどうしたらいいのか。


 たぶん、ムリ、なのだろう。

 闇は闇だ。

 ブラックホールに吸い込まれた惑星はもう、元通りにはならない。吸い込まれた時点で、惑星の死が確定する。

 死んだ人間を生き返らせることはもう、できない。死んでしまうと、人生の終わりが確定してしまう。


 闇は取り除けない。だから、せめてもの抵抗として、『逃げる』という選択肢が用意されている。

 しかし、逃げたところで闇が取り除かれるわけではない。あくまで、闇に取り込まれないようにするためでしかない。

 逃げて、逃げて、逃げて。けれども、闇は追ってくるかもしれない。

 フラッシュバック。イヤな過去を捨て去りたいのに、逃げようが籠ろうが、心はいつまでも傷を負ったままなのだ。


「あっ」


 誤って、書きかけのメールを上長に送信してしまった。

 お、怒られる。特に、教育係の先輩にこっぴどく怒られる。

 恐る恐る、先輩に報告した。


 先輩は僕に「まあ、まだ社会人になったばかりだしな」と言った。語調が普段より優しげに思えた。

 なんだろう。変だ。雷が飛ぶ覚悟はしていたのだが。

 先輩は、他人のミスに非常に厳しい人間である、という認識だった。今までが特殊だっただけなのだろうか。それとも、何かいいことでもあったのだろうか。

 怒られると何もできなくなってしまうし、失敗を恐れて逃げ腰になってしまう僕には、ありがたいことではある。心身にも負担がかからずに済むし。


 だが、何か、嵐が起こる前触れのようにも感じるのは、なぜだろうか。


 気のせいだ。今日は偶然、先輩が機嫌のいい日で、僕のミスにも寛容でいてくれた。ただ、それだけなのだろう。

 ミスはミスだ。悪いのは僕である。

 とは言っても、ミスでもなく僕に非があるわけでもないときに雷が飛んで来ない、と考えると気分がとても楽になる。


 ただ怒ればいい、というわけではない。それは相手の成長につながらず、憂さ晴らしでしかない。

 先輩はそれに気づいてくれた、ということだろうか。




 まったく、ちがった。




 次の日から先輩は、会社に来なかった。

 突然、先輩が僕のミスに寛容になったのは、機嫌のいい日だったわけでもなく、教育方針を修正しようと思ったわけでもなく、自棄だったのである。

 先輩は仕事も会社も、投げ捨てるつもりだったのだ。


 急場しのぎの策として、僕の教育係は当面の間、上長になった。

 先輩は、案件をいくつか抱えた状態だったらしい。その結果、上長や同じチームの人間の仕事量が増えることとなる。


 でも、悲しいかな。

 一人の人間が去ったとして、社会は普段通りの姿を見せていた。


 先輩がいなくても、他の人が先輩の仕事をこなす。先輩がいなくても、僕の教育係は上長がしてくれる。


 なんて残酷なのだろう。


 今まで、僕は先輩から散々怒られてきた。悪口を言われてきた。

 だと言うのに、今は、ここにいない先輩への愚痴が飛び交っている。悪口、憎悪の感情。一時的なドス黒い闇が、場を掌握している。


 でも、明日にはもう、先輩への愚痴すら消えている。


 先輩をもともといなかった存在として、みんな、扱ってしまうのだろう。


「おっと、休憩時間だ。自販機、自販機。どこだっけ」


 自動販売機を見つけ、お金を入れる。

 今日は缶コーヒーにしよう。

 ポチッとボタンを押す。缶コーヒーが取り出し口に落ちてきた。それを手に取る。


「あったかい」


 ホットな缶コーヒーが僕の手をあたためる。

 どれどれお味は、と僕は缶コーヒーを飲んでみる。とても苦かった。

 普段は缶コーヒーなんて飲まない。炭酸飲料かフルーツジュースばかり飲む。

 でも、今日はなぜか缶コーヒーを飲みたい気分だった。缶コーヒーを飲んだら、少し大人になれる気がして。


「に、苦い」


 慣れない味だ、と思った。

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