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2.人間辞めたい

 はじめての電話応対。

 メモとペンもしっかりと用意している。


 あれ。どう受け答えすればいいのだろうか。

 相手の話を聞いているはずなのに、声をちゃんと聞けているのに、するすると頭から抜けていく。

 メモをしようとしても、ペンが走らない。

 相手の名前は。用件は。だれに用事がある。

 するすると頭から抜けていく。

 緊張や不安が、焦りに変わっていく。


 僕は結局、電話応対をうまくできなかった。


 教育係の先輩からきついお叱りを受ける。

 これが指導だとは理解している。ストレス解消のために怒っているわけではないと理解している。

 でも、僕の心はベキベキにへし折られる。

 負のループ。

 自分に能力が足りないから。

 できてあたりまえのことをできる人間だったのなら。心が強い人間だったのなら。もっと、うまく生きられたのではないのだろうか。

 何度も思考を巡らせて、卑屈になる。

 負のループ。


 あとはこっちでやっておくから、と上長から。


 先輩から、今度はデータ入力の指示を受ける。

 渡した紙に書いてあることをそのまま入力するだけだ、と先輩が仰る。気負う必要はないそうだ。


 けれども、すぐに僕の思考はショートした。

 どこからどの範囲まで入力していいのか。このメモ書きは何を意味しているのか。

 先輩に聞こうと思い、先輩のデスクを見る。

 先輩はノートパソコンを持ち、上長とどこかへ行ってしまった。

 周囲に他の人は一応いたが、とても忙しい様子だ。質問していいのかわからない。


 どうしよう。


 焦りと不安が生じる。

 与えられた仕事が全然進まない。ただ、慌てふためいているだけ。


 じ、自分でなんとかしなければ。


 そう思った瞬間、誤クリック。自分の知らないソフトが起動してしまう。

 閉じようとするが、閉じ方がわからない。


 どうしよう、どうしよう。


 そうこうしているうちに、先輩が戻ってきた。

 そして、僕に「そろそろ終わったか?」と訊ねてきた。


「え、えっと、そ、そのぉ」


 僕の顔色と歯切れの悪い様子を見て、先輩の眉間にシワが寄る。

 そして、先輩はディスプレイを見た。


 お、怒られる。


 極度に怯えた。

 だが、内心は、「どこがわからなかった?」とか「まあ、まだ入って間もないしな」とか、僕に寄り添った発言が出るんじゃないかと思っていた。


 僕のその見通しは、甘かった。


「データ入力させただけなんだが。チッ、こんなのもできねえのかよ。はあ。まったく、人事部もなんでこんなヤツ寄越したんだ」


 過度な圧。舌打ち。

 心が傷む、傷む。このままでは、心が死んでしまう。


 ダメだ。自分の苦しみをだれかに打ち明けたら、楽になるだろうか。


 いや。悪手だ。

 他人にはあくまで、教育という名目、と認識されてしまう。


 人間というのは、テイのいい言葉を多用する節がある。

 昨今、問題になっているパワハラも、パワハラだと認定されるまでは教育だという主張で周囲に伝わる。

 パワハラだと感じていても、パワハラされていると言葉にしても、パワハラだと認定されない限りは自分の立場が不利になる可能性が高い。

「こんなこともパワハラって言われるんじゃ何もできん」、「本人のやる気がないだけのことをパワハラと他責してくるなんて」、とか、相手にとって都合のいい言葉が並べ立てられ、周囲に喧伝され、ただただ自分の立場が不利になっていくのだ。


 仮に全面的に相手に非があったとしても、新入社員の立場で口答えしたら、不利になるよう陥れられたり、クビを切られたりするだけなのだ。


 多様性なんて言葉は、都合のいいときにだけ使われ、都合の悪いときには「そんな言葉は通用しない」と一蹴されてしまうのである。


 僕は「申し訳ございませんでした」、と何度も平謝りをする。

 心はどんどん死んでいく。


 今、発狂したらどうなるのだろう。

 急に奇声をあげたらどうなるのだろう。

 唐突に、オフィスを脱走したらどうなるのだろう。


 これも悪手だ。

 自分の立場がどんどん隅っこへ追いやられる。

 そんなことをしたら、おそらく、懲戒解雇コースまっしぐらだろう。


 こんな会社辞めてやる、って気持ちであれば、むしろ懲戒解雇も受け入れられるだろうか。


 辞めたい。会社、辞めたい。社会人、辞めたい。人間、辞めたい。


 辞めたい、辞めたい、辞めたい。


 でも、そうしたら、今後の生活はどうする。

 食い扶持は。

 家族に相談したところで、家族からは理解を得られないだろう。


 結局、僕は辞めたくても辞められないのである。


 この、どうしようもなく合理性と効率を求められる檻のような箱から逃げ出せないのだ。


 この長い長い人生、一瞬逃げ出したところで、苦しみからは逃れられない。

 僕のような人間は、どこかの段階で淘汰されていくのかもしれない。

 他人からの怒り。思惑。印象操作。

 うまく立ち回らないと、仮に自分に非はなかったとしても、自分の非はつくられてしまう。


 問題は、今回の場合、あたりまえのことをあたりまえにできない自分にも非がある、ということだろうか。


 だから、より心が傷んでしまう。


 僕は翌日、吐き気と腹痛に襲われた。

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