1.独り言の多い部屋
僕はあたりまえのことができない。
人間として、どこか欠陥でもあるのだろうか。
僕の番だった。
「……よ、よ、よろしくお願いします」
高校を卒業して、社会人になった。
新卒で入社し、自己紹介をする。
僕は何度も小さくお辞儀をしながら、ようやく言葉を発することができた。
ああ、よかった。なんとか言えた。
でも、これでよかったのだろうか。
なんて思いながら、次の人の自己紹介を待つ。
だが、周囲の人たちは無言だ。
緊張から、僕は独り言を発し始める。
「よかったのかな。これでよかったか。いや、ダメか。でも、言えた。どうだろう」、と。ぶつぶつ言い始めるのだ。
そして、おまけに、なぜかもう一度お辞儀を始めてしまうのだ。
明らかに挙動不審である。
おかしいのはわかっている。自覚している。
普通の人間は、自己紹介の場で独り言を長々と言わない。お辞儀をリピートしない。
入社早々、僕はさっそく浮いた。
;;;;;;;;;;
退勤。
「はあ、やっちまった」
うなだれながら、独り言。
今日の自分を思い返しながら、帰路に着く。
満員電車が余計に僕のメンタルを抉る。
東北から上京してきた僕は、今、ひとり暮らしをしている。
家に帰っても、親はいない。
だれかが温かいご飯を用意してくれるわけじゃない。自分で調達しなければならない。
洗濯も自分でしなければならない。
ゴミ出しも自分でしなければならない。
でも、僕はあたりまえのことができない人間だ。
僕は自分の靴紐を結べない。
身体が悪いわけではない。五体満足だ。
他人から「靴紐はこうやって結ぶんだよ」とか手本を見せられたり、自分で『靴紐の結び方』を本や動画で見て参考にしたりしながら靴紐を結ぶのだが、これが、なぜかうまく結べない。
僕は服を畳めない。
僕が畳むと、服はぐちゃぐちゃな折り目がつき、最終的に散乱した状態になる。
僕は卵の殻が割れない。
普通の人間は卵を、コンコン、と容易に割るだろう。
しかし、僕が卵を割ると、卵はぐちゃぐちゃになり、手は汚れ、皿のなかに殻が入ってしまう。
僕は箸をうまく持てない。
普通の人間とはちがう、おかしな持ち方をしている。
自分でもおかしいと理解していて、親に教わったり、動画を見て正しい持ち方を研究したりしたのだが、直らなかった。
僕は他人の話を聞き取れない。
聴力が悪いわけではない。
耳も、いたって平常だ。
普段の会話。相手の話し声に時折、ノイズみたいなもの、あるいはモヤモヤみたいなものがまじってしまうのか、内容をうまく聞き取れないのだ。
そして、僕は適当に返事をしたり相槌をしたりしてしまう。
でも、僕自身、僕があたりまえのことをできないことが、おかしいという自覚はある。
それに、あたりまえのことはできないが、思考に異常があるわけでもない。
脳の中身を見れば、僕の思考は特段おかしいわけでもない。
勉強がまったくできなかったわけでもないし、運動やスポーツがまったくできなかったわけでもないし、知力も体力も平常である。
だと言うのに、人間としてあたりまえだとされることができない。
僕は、だれもいない部屋で、「うきうき、ふぇーっふぇーっ、ふふっ」とか、突然おかしなことを口にするが、それを自分ではおかしいと自覚している。自覚しているのに、そんな奇行に走ってしまう。
でも、脳に異常があるわけではない。
だれもいない部屋で、ラーメンをすすっているのに、「魚が食べたいなあ」とか言ってしまう。べつに、魚が食べたいわけではないのに。本心ではラーメンを食べられてよかった、とか思っているのに。
でも、脳に異常があるわけではないのだ。
緊張したり、ミスをしたり、恥ずかしい場面に遭遇したりすると、独り言をぶつぶつと口に出してしまうことが多いが、べつに、まともに話せないわけでもない。
親とは普通に話せるし、友人もいたし、常時奇行に走っているわけでもないのだ。
ペン回しができない、口笛が吹けない、逆上がりができない、二重跳びができない。
できないことだらけだが、だからと言っても、何も異常があるわけではない。
哀愁漂ったサラリーマンの背中を見て「元気出して」とか、駅そばを食べているお姉さんを見て「おいしそうなおそばだなあ」とか、楽観的で子どもっぽいことを思っているような僕ではあるが、べつに、異常があるわけではないのだ。
けれども、やはり、周囲と比較すると自分が滑稽に思えてしまって鬱々とした気持ちになってしまうことがある。というか、最近、そんな気持ちになってばかりだ。
先天的な性格としては楽観的で明朗な人間だったのかもしれないが、周囲の人間の反応や環境で自分の滑稽さを痛感してしまい、卑屈で殻に籠りがちな人間になってしまった。
今でも、街を歩く元気のなさそうなおじさんを前に「元気出して」とか、子どもっぽい前向きなことを思ったりすることは多々ある。
が、僕は日に日に、僕自身が卑屈になっていくのを感じている。
「晩ご飯、どうしよう」
帰宅後、だれもいない部屋で僕は、独り言を呟いた。




