第8話 同じ紋様
悲鳴のした方へ、僕は夢中で駆けた。
木の根を飛び越え、垂れ下がったつるを手で払いのける。息が切れて、肺が焼けるように熱い。
それでも足を止めずに走り続けると、不意に目の前の木々がぱっと途切れた。
そこは、森の中にぽっかりと開けた、小さな広場だった。
森の奥から差し込んでくる青白い光が、こけむした地面を冷たく照らしている。そして、その広場の真ん中で、リーナが太い木の幹に背中を押しつけていた。
片手には、火の灯ったランプ。もう片方の手には、島の漁に使う、短い銛。
どちらもしっかり握りしめているのに、その腕はがくがくと震えていて、構えることすらできていない。
リーナの前には、一頭の狼がいた。
大きい。四本の足で立っているだけで、僕の背丈ほどもある。
灰色の毛は針のように逆立ち、低いうなり声が地面を伝って足の裏にまで響いてくる。開いた口からは白い息が漏れ、鋭い牙の間からよだれが糸を引いていた。
何より不気味なのは、その目だった。
両目が、森の奥の光と同じ、青白い色に光っている。獣の目というより、まるで中に別の何かが入り込んでいるみたいな、冷たい光だった。
膝が勝手に震え出した。
逃げたい。今すぐ回れ右をして、村まで全力で走って帰りたい。
でも、リーナは動けずにいる。昨日の夜、光を見た瞬間に足がすくんだと言っていた。きっと今も、同じなのだ。
僕は腰の鞭を抜いた。
狙いは、狼のすぐ横の地面。手首を返して、思いきり振り下ろす。
ぱしん、と乾いた破裂音が静かな森に響き渡った。
狼の耳がぴくりと動いた。そして、青白く光る目がゆっくりと僕のほうへ向けられる。
「こっちだ! お前の相手は僕だ! ……って言っておいてなんだけど、できればそのまま森の奥へ帰ってくれると、ものすごく助かるんだけど!」
情けない叫び声だった。でも、それで十分だった。
狼はリーナから目を離して、僕のほうへ一歩、また一歩と近づいてくる。
膝は相変わらず笑っている。けれど、足の裏だけは地面に根を張ったみたいに動かなかった。
【踏ん張り】のおかげだ。怖くて仕方がないのに、逃げ出さずに立っていられる。
狼が地を蹴った。
速い。牙をむき出しにした巨体が、一直線に飛びかかってくる。
僕は鞭を振るった。
【精密操作】の感覚が、腕に伝わってくる。暗がりの中でも、どこを狙えばいいのかがはっきり分かる。
縄が空中で弧を描き、跳びかかってくる狼の前脚にぐるりと巻きついた。
「――こっちだ!」
巻きついた鞭を、思いきり横へ引く。跳んだ勢いのまま体勢を崩した狼は、もんどり打って地面に転がった。
その隙に、僕は頭上の太い枝へ鞭を投げ上げた。先端が枝にくるりと巻きつく。
体重を預けて、一気に体を引き上げる。
足場は腕ほどの太さしかない枝の上だ。それでも、【平衡感覚】のおかげで体がぐらつかない。
枝のしなりも揺れる甲板と同じように、足の裏で読める。
起き上がった狼が、木の下でぐるぐると回りながら、僕を見上げてうなった。僕は枝の上から鞭を振るい、その鼻先を打ちすえる。
ぎゃん、と狼が悲鳴を上げて飛び退いた。
いける。そう思った、その時だった。
狼が木の幹に、真正面から体当たりをした。
どん、と森全体が揺れたような衝撃が走る。足元の枝がみしりと嫌な音を立てた。
「うわっ……!」
次の瞬間、枝が根元から折れた。
体が宙に投げ出され、背中から地面に叩きつけられる。肺の空気が一気に押し出されて、視界が白く弾けた。
握っていたはずの鞭が手から離れ、少し離れた茂みの中へ転がっていくのが見えた。
まずい。
起き上がろうとした時には、もう遅かった。
重たい前脚が僕の胸を押さえつける。生臭い息が顔にかかる。
青白く光る目が、すぐ目の前で僕を見下ろしていた。
港であの鳥に押さえつけられた時と同じだった。
死ぬ。
また、あの感覚が背中を這い上がってくる。
それでも僕は首をひねって、木の陰にいるリーナのほうを見た。
「リーナ、逃げて! 僕が押さえてるうちに、村まで走って! 村長さんを呼んできて!」
押さえてる、なんて嘘もいいところだ。押さえつけられているのは、僕のほうなのに。
でも、それでいい。リーナの足は速い。僕が少しでも時間を稼げば、きっと村まで逃げきれる。
リーナがびくりと肩を震わせた。
そして、その足が、動いた。
逃げる方向じゃなかった。
「……ふざけないでよ!」
リーナが叫んだ。
「一人で行くより二人のほうがましって、言ったのは私なんだから! 置いていけるわけないでしょ!」
次の瞬間、リーナの姿が、消えた。
違う。消えたように見えるほど、速かったのだ。
金色の髪が、青白い光の中を一筋の光みたいに走った。さっきまで木の陰で震えていた子とは、とても思えなかった。
気づいた時には、リーナはもう狼の目の前にいた。
「どいてっ!」
火の灯ったランプを、狼の顔に至近距離から叩きつける。
がしゃん、とガラスの割れる音。こぼれた油に火が移り、狼の鼻先でぱっと炎が燃え上がった。
狼が甲高い悲鳴を上げて飛び退いた。僕の胸を押さえつけていた重みがふっと消える。
今だ。
僕は地面を転がって、茂みの中の鞭に飛びついた。握りを掴み、膝立ちのまま、炎を振り払おうと暴れる狼めがけて振るう。
縄が狼の前脚に、もう一度巻きついた。
「リーナ、今!」
「分かってる!」
僕が鞭を引いて狼を引き倒すのと、リーナが短い銛を突き出すのは、ほとんど同時だった。銛の先が狼の肩口に深々と突き刺さり、その巨体を地面に縫いとめる。
狼が最後の力を振り絞って暴れる。僕は鞭を離さずに踏ん張りながら、腰の小刀を抜いた。
母さんが毎朝食堂で魚をさばいていた小刀だ。
僕はその刃を、狼の首元へ突き立てた。
手のひらに熱いものが伝わってくる。暴れていた体から、少しずつ力が抜けていく。
生き物の命が、手の中で消えていく感触だった。
魚をさばくのとはまるで違った。
やがて狼はぴくりとも動かなくなった。
僕は小刀を握ったまま、しばらくその場から動けなかった。指先ががたがたと震えている。
――いざって時は、こいつで自分の身を守るんだよ。
母さんの声が耳の奥で聞こえた気がした。その言葉の本当の意味が、今になってようやく分かった気がした。
どれくらいそうしていただろう。森の中に、静けさが戻ってきた。
地面で燃えていた油の炎もいつの間にか小さくなっている。
僕はぼんやりと視界の端を見つめた。
港でリーダー格の空飛ぶ魔物を倒した時は、すぐにいつもの緑色の光が浮かんだ。だから今度もきっと、と思っていた。
けれど、いつまで待っても緑色の光は浮かんでこなかった。
あれだけ死ぬ思いをしたのに、レベルは上がらないのか。……そりゃそうか。リーナがいなかったら、僕はとっくにあの狼に食べられていた。一人で倒したとは、とても言えない。
少しだけ、肩が落ちた。
その時だった。視界の端に赤い光が浮かび上がった。
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◆ 経験変換 ◆
「初めての夜の森での戦い」を検知
力に変えますか?
① 【夜目】 暗闇の中でも、物の形が見える
② 【気配察知】 近くにいる生き物の気配に気づける
③ 【忍び足】 足音を立てずに歩ける
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僕は三つの候補を、じっと見比べた。
【気配察知】があれば、さっきみたいに不意を突かれずに済むかもしれない。【忍び足】なら、魔物に見つからずに森を進めるはずだ。どちらも喉から手が出るほど欲しい。
でも、リーナの話では、あの石の扉の奥はきっと真っ暗だ。暗闇の中で何も見えなければ、気配に気づいても、足音を消しても、何もできない。
「……①で」
選んだ瞬間、目の奥がじんと熱くなった。
そして、世界が変わった。
ほとんど真っ暗だった森の中に、灰色の薄明かりが差したように、木々の輪郭がくっきりと浮かび上がってくる。葉の一枚一枚、足元のこけのでこぼこ、遠くの枝の重なりまでが見えるようになった。
レベルは上がらなくても、僕は初めてのことで強くなれる。
父さんも、母さんも、親方も知らない。これは、僕だけの力だ。
ふと気づくと、リーナがその場にぺたりとへたり込んでいた。銛を手放して、膝を抱えて、小さく丸まっている。
さっき狼の前に飛び込んだ、あの速さが嘘みたいだった。
「リーナ、大丈夫? どこか怪我して――」
「……ごめん」
かすれた声だった。
「私のせいで、あんたまで死ぬところだった。じいちゃんにも、またひどい心配をかけちゃう。……バカだよね、私。分かってるの。分かってるんだけど」
リーナは膝に顔をうずめたまま、ぽつりぽつりと言葉をこぼした。
「でもね、どうしても知りたかったの。私が、どこから来たのか」
リーナは首から下げていた小さな袋の口を開いた。そして、中から一枚の古びた布を取り出す。
すっかり色あせて、ところどころ擦り切れている。けれど、そこに織り込まれた模様だけは、青白い光の中ではっきりと見て取れた。
「私、あの場所の入口の前で泣いてたんだって。この布にくるまれて。じいちゃんは、浜で拾ったって言ってるけど、本当は違うの。ずっと前に、じいちゃんがたんすの奥に隠してたのを、見つけちゃった」
リーナは布を両手でぎゅっと握りしめた。
「……あんたには、なんでか分からないけど、話しておきたかった。会ったばかりなのに、変だよね」
僕はその布の模様から、目が離せなかった。
円の中に、線が絡み合うように複雑に交差した模様。
見覚えがあった。父さんの手帳に、何度も何度も描かれていた模様。そして――。
僕は震える手で、左の袖をまくり上げた。
「……リーナ、これ、見て」
リーナが顔を上げた。そして、僕の左腕を見て大きく目を見開いた。
「僕の腕の、この傷。父さんが旅に出る前に、僕を守るために付けたものなんだって。……その布の模様と、同じなんだ」
リーナは言葉を失ったまま、布と僕の腕を何度も見比べた。
森の中に沈黙が落ちた。
十五年前、この島に来た父さん。十五年前、あの場所の入口で見つかったリーナ。父さんが僕の腕に刻んだ傷と、リーナがくるまれていた布の模様。
ばらばらだったはずのものが、全部、あの場所に繋がっている。
「……僕もね、知りたいんだ」
気づけば僕は口を開いていた。
「父さんが、あの場所で何を見たのか。何を探して、どこへ行ってしまったのか。……怖いよ。正直に言うと、今だって手が震えてる。さっき死にかけたばっかりだし、村長さんにも、リーナを連れていかないでって頼まれた」
リーナがはっとしたように僕を見る。
「でも、リーナが一人で行ったら、また今夜みたいなことになる。僕が一人で行っても、きっと扉の前で足がすくんで終わりだ。……一人じゃ無理でも、二人なら、行ける気がするんだ」
僕は地面に座り込んだまま、リーナに右手を差し出した。
昼間、リーナがそうしてくれたみたいに。
「だから、今度は僕から言わせて。リーナ、一緒に行こう」
リーナの青い瞳がみるみるうちに潤んでいった。
「……ばか」
リーナは手の甲で乱暴に目元をぬぐった。
「それ、最初に言い出したのは、私なんだからね」
そして、僕の手をぎゅっと強く握り返した。その手は小さくて、まだ少しだけ震えていて、それでも驚くほど温かかった。
しばらく二人とも黙ったまま、手を握り合っていた。
やがて、気持ちが少し落ち着いてくると、さっきから胸に引っかかっていた疑問が、口をついて出た。
「ねえ、リーナ。さっきのあれ、何だったの? 狼の目の前まで、一瞬で飛び込んでたよね。正直に言うと、消えたのかと思ったよ」
「ああ、あれ?」
リーナは少しだけ得意そうに鼻をこすった。
「私の固有能力、【疾風】っていうの。身のこなしが速くなる才能。じいちゃんには、逃げ足が速すぎるのはそのせいだって、いつも文句言われてるけどね」
「固有能力……じゃあ、固有スキルも?」
「うん。高く跳べる【跳躍】と、一瞬だけぐんと速く動ける【急加速】と、相手の動き出しが分かる【見切り】。……まあ、怖くて足がすくんだら、ぜんぶ台無しなんだけどさ。さっきみたいに」
リーナはばつが悪そうに笑った。
「十分すごいよ。僕なんて、魔物を見ただけで膝が笑うんだから。……僕の固有能力は【天与の手】っていって、道具を使うのが得意になるだけなんだ」
「だけ、じゃないでしょ。あの鞭さばき、島の大人だって誰もできないよ」
リーナはそう言ってくれたけれど、僕はあの赤い光のことだけは、口に出さなかった。
【経験変換】のことは、まだ僕自身にもよく分かっていない。それをどう説明すればいいのかも分からなかった。
その時、森の奥から獣の遠吠えが響いた。
一つ、二つ、三つ。さっきの狼の仲間だろうか。
声はまだ遠いけれど、この森がまだ少しも安全ではないことを、はっきりと告げていた。
二人で思わず顔を見合わせる。
それから、どちらからともなく、青白い光の差してくる方角へと目を向けた。
【夜目】で見えるようになった木々の向こうに、何かが浮かび上がっていた。
こけにびっしりと覆われた、古い石の壁だった。
禁足地の、入口だ。
石壁の表面には、大きな紋様が刻まれていた。円の中に、線が絡み合うように交差した、あの模様。
それが今、内側からにじみ出すように、青白く浮かび上がっている。
その瞬間、僕の左腕が焼けるように熱くなった。
袖の下で、傷がはっきりと光っていた。
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