第9話 月の扉
左腕の光がすうっと引いていく。
僕とリーナはしばらく言葉もなく、目の前の石の壁を見上げていた。
家の屋根ほどの高さがある、こけむした壁だった。つるが幾筋も垂れ下がっていて、その真ん中に、一枚岩でできた巨大な扉がはまっている。
表面いっぱいにあの紋様が大きく刻まれていた。円の中に、線が絡み合うように交差した模様。リーナの布と、僕の傷と、まったく同じ形だ。
紋様の中心には、コインくらいの大きさの、丸いくぼみがあった。
そして、そのくぼみをぐるりと囲むように、大皿ほどの丸い石の板が、五つはめ込まれている。
五つの石板のふちには、どれにも同じように月の形がぐるりと刻まれていた。まん丸の月、半分に欠けた月、細い三日月、そして、何も刻まれていない丸。
石板のすぐ上の扉の面には、それぞれ小さな印が彫られている。
背後で、また遠吠えが響いた。さっきより、ずっと近い。
振り向くと、森の暗がりの奥で、いくつもの目が青白く光り始めていた。一つ、二つ、三つ……数えるのが嫌になるくらいだ。
「まずいよ、さっきの狼の仲間だ。三頭……ううん、もっといる。村まで走っても、途中で絶対に追いつかれちゃう」
リーナが銛を握り直しながら、かすれた声で言った。
「この扉、本当に開かないの? 中に逃げ込めれば、狼だって入ってこられないのに」
「だから言ったでしょ、何回来てもびくともしないって。押しても叩いても、体当たりしても、あの丸い石を回してみても、なんにも起きなかったんだから」
リーナは悔しそうに、扉の表面を拳でどんと叩いた。分厚い石は鈍い音を返すだけだった。
その時、僕は自分の左腕がじんじんと熱を持っていることに気づいた。
さっき光った時の名残だろうか。それとも、狼から逃げてきた興奮のせいだろうか。最初はそう思った。
でも、扉に一歩近づくたびに、その熱はどんどん強くなっていく。
ふと、扉の中心のくぼみに目をやった。
ぼんやりと青白く光っている。明るくなっては暗くなり、また明るくなる。まるでゆっくりと呼吸をしているみたいに。
その光り方に、僕ははっとした。
腕の傷が熱く脈打つ速さと、くぼみの光が明るくなる速さが、ぴったり同じだったのだ。
「ちょっと、あんたの腕、光ってるよ」
リーナが目を丸くして僕の左腕を指さした。
「それに、あのくぼみ……いつもはただの穴なのに、今日は光ってる。あんたが近づいてから、ずっとだよ。こんなの、何回来ても見たことない」
母さんの言葉が頭の中によみがえった。
――あの人はへらへら笑って、いつかきっとノアの役に立つから、としか言わなかった。
僕は恐る恐る、左腕をくぼみのほうへ近づけていった。
すると、傷とくぼみの間に糸のように細い光が、すうっと伸びた。青白い光の糸が、僕の腕と扉をまっすぐに結んでいる。
父さんが、僕の腕にこれを付けた理由。守るためだって、母さんは言っていた。でも、もしかしたら、それだけじゃなかったのかもしれない。
僕は袖をまくり上げ、傷をくぼみに押し当てた。
ひやりとした石の感触。次の瞬間、扉に刻まれた紋様の線がぱっと青白く光った。
「開く……!?」
リーナが息をのむ。
けれど、光はすぐにふっと消えてしまった。扉はぴくりとも動かない。
「今、確かに光ったのに……すぐに消えちゃった」
僕はくぼみから腕を離して、扉を見上げた。
「何かが足りないんだ。傷だけじゃ駄目なんだよ。……たぶん、この周りの丸い石。月の形が彫ってあるでしょ。これを、正しい形に合わせないといけないんだと思う」
「月……?」
リーナが何かを思い出したように顔を上げた。
「待って。それ、じいちゃんが小さい頃に歌ってくれた子守唄に、月が出てくるの。眠れない夜に、いつも歌ってくれたやつ」
リーナは目を閉じて、ゆっくりとした節をつけて小さな声で歌い出した。
「♪満ちた月は、半ばに欠けて、細く痩せて、闇に眠り……また満ちて、海を照らす♪」
満ちた月。半ばに欠けた月。細く痩せた月。闇に眠る月。そして、また満ちる月。
まん丸の月が、半分に欠けて、細い三日月になって、やがて見えなくなって、また丸く戻っていく。
五つの言葉と、五つの石板。月の形が変わっていく、順番だ。
「それだよ、リーナ! 子守唄の順番に合わせるんだ。満月、半月、三日月、何も彫ってない丸、それから最後に、また満月。ちょうど五つ、石板の数と同じだよ」
「でも、待って。石板は五つとも、同じ月の形が全部彫ってあるんだよ。それに、ぐるっと輪になって並んでるから、どれが一つ目なのか分からないじゃない。間違った石から始めたら、順番が全部ずれちゃう」
確かにその通りだった。月の形の順番は分かっても、五つの石板は扉の中心をぐるりと囲んでいて、どれが一つ目なのか、どちら回りに進めばいいのか、見ただけでは分からない。
僕は胸元から父さんの手帳を取り出した。扉の紋様が放つ青白い光に、手帳をかざす。
【夜目】のおかげで、その淡い明かりだけでもなんとか文字が読み取れた。島のページを、急いでめくる。
あった。
ページの隅っこに、ずっと意味の分からなかった、落書きのような小さな絵。五つの丸が、輪のように並んでいる。
そして、そのうちの右上の一つにだけ、時計回りに曲がった小さな矢印が描き込まれていた。
「父さん、これを書いてたんだ……」
指先が、震えた。何度も見返していたのに、ただの落書きだと思っていた。父さんは、ちゃんと答えを残していてくれたのだ。
「右上の石が一つ目なんだ。そこから矢印の向きに、時計回りで、子守唄の順番に合わせていくんだよ、きっと」
僕は右上の石板に手をかけた。
ずしりと重い。両手でつかんで力を込めると、ごとり、と鈍い音を立てて、石板がゆっくりと回り始めた。
ふちに刻まれた月の形が一つずつ、上の印の前を通り過ぎていく。
まん丸の月を印に合わせる。ごとり、と何かが噛み合う手応えがあった。
一つ目。
背後で狼のうなり声が、さらに近づいてくる。焦りが指先を急かす。
二つ目の石板に飛びつき、力任せに回す。細い月の形が見えて、僕はそこで手を止めた。続けて三つ目。半分に欠けた月を印に合わせる。
その瞬間だった。
ごろごろごろ、と低い音が響いて、合わせたはずの石板が、すべて勝手に回り始めた。三つとも、元のばらばらの向きへと戻っていく。
そして、扉の紋様が赤く光った。
血のような、ぞっとする赤だった。
その赤い光に照らされた途端、森の暗がりの狼たちが一斉に吠え立てた。茂みが大きく揺れて、灰色の影が次々と飛び出してくる。
「なにやってんの!? 赤くなったよ、赤く!」
「ご、ごめん! 半月と三日月を逆にした! 半ばに欠けて、細く痩せて、なんだから、半月が先なのに! もう一回やらせて、今度は絶対に間違えないから!」
狼たちがじりじりと距離を詰めてくる。四頭、いや、五頭。どれもさっき倒した狼と同じように、目が青白く光っていた。
僕が石板に向き直ろうとした時、リーナがすっと僕の前に出た。
「時間は、私が稼ぐ」
「え……?」
「さっき教えたでしょ、逃げ足だけは島で一番なんだから。あんたは、その丸い石に集中して!」
「リーナ、でも、さっきは足が……」
僕の言葉に、リーナは一瞬だけ振り返った。
その顔は真っ青だった。銛を握る手は小刻みに震えている。
「すくむよ、今だって。怖くて、膝なんかがくがくしてる」
それでも、リーナはにっと笑ってみせた。
「でも、あんたが一緒に行こうって言ってくれたんだもん。足がすくんだくらいで、止まってられないでしょ!」
言うが早いか、リーナの姿がぱっと消えた。
いや、消えたんじゃない。金色の髪が、青白い光の中を一筋の線になって、狼たちの群れのど真ん中へと走っていく。
「こっちだよ! 鈍いね、あんたたち!」
狼たちが一斉にリーナのほうへ向きを変えた。飛びかかってくる牙を、リーナは紙一重でかわしていく。
【見切り】だ。相手が動き出すより早く、もう体が逃げる方向へ動いている。
かわしては走り、走ってはかわす。銛の柄で狼の鼻先を叩いては、また別の狼の注意を引きつける。
すごい。
見とれている場合じゃない。僕は石板に向き直った。
今度は焦らない。一つ目の石板に手をかけ、目を閉じる。
【道具理解】の感覚が、指先から伝わってくる。石板の奥で、何か小さな歯車のようなものが、かちり、かちりと噛み合っていくのが分かる。
正しい位置に来た時だけ、ほんの少しだけ手応えが軽くなる。
まん丸の月。かちり。一つ目。
【精密操作】で、重い石板をほんのわずかもずらさずに止める。
二つ目。半分に欠けた月。かちり。
三つ目。細い三日月。かちり。
四つ目。何も刻まれていない丸。月が闇に眠っている形。かちり。
合わせるたびに、扉の紋様の線が月から月へと、青白い光で結ばれていく。
あと一つ。
僕は最後の石板を見上げた。
扉の一番上。家の屋根ほどの高さにある、五つ目の石板。背伸びをしても、跳び上がっても、僕の手はとても届かない。
「リーナ! 一番上のやつ、僕じゃ届かない!」
僕は狼の群れの中を走り回るリーナに向かって叫んだ。
「さっき言ってた【跳躍】で、あそこまで跳べる? まん丸の月の形を、上の印に合わせてほしいんだ!」
「任せて! ……もう、人使いが荒いんだから!」
リーナが方向を変えた。
追いかけてくる狼を引き連れたまま、まっすぐ扉へ向かって駆けてくる。そして、扉の手前で地面を強く蹴った。
金色の髪がふわりと舞い上がった。
リーナの体が、狼の頭上を軽々と飛び越えて、扉の一番上まで跳び上がる。石板のふちに手をかけ、体ごとぶら下がるようにして、ぐるりと回した。
ごとり。
まん丸の月が印の前でぴたりと止まった。
その瞬間、五つの月が一斉に青白く輝いた。
紋様の線が、月から月へ、そして扉の中心のくぼみへと、まばゆい光で結ばれていく。扉全体が内側から脈打つように光り始めた。
「今だよ、早く!」
リーナが扉から飛び降りながら叫ぶ。
僕はもう一度、左腕の傷をくぼみに押し当てた。
さっきとは違った。傷から流れ込んだ光が、紋様の線を伝って、扉の隅々まで駆け巡っていく。
光は消えなかった。それどころか、どんどん強くなっていく。
地響きのような、低い音が響いた。
足元の地面がかすかに揺れる。目の前の一枚岩が、真ん中からゆっくりと左右に割れていく。
十五年間、誰一人通さなかった扉が、開いていく。
「今のうちに!」
背後で狼たちが一斉に飛びかかってくる気配がした。
僕はリーナの手をつかみ、開いたばかりの細い隙間へと、二人で転がり込んだ。
冷たい石の床に体が叩きつけられる。振り返ると、扉はもうひとりでに閉じ始めていた。
狭まっていく隙間の向こうで、狼の青白い目がこちらをにらんでいる。一頭が鼻先をねじ込もうとしたけれど、扉は止まらなかった。
ごうん、と重い音を立てて、扉が完全に閉じた。
狼のうなり声が、分厚い石の向こうでだんだんと遠ざかっていく。
あとには静けさだけが残った。
僕とリーナは冷たい床に寝転がったまま、しばらく荒い息をついていた。どちらからともなく顔を見合わせて、それから、どちらからともなく、少しだけ笑った。
暗闇の中で、【夜目】がゆっくりと周りの景色を浮かび上がらせていく。
石の通路が、奥へ、奥へと続いていた。
十五年間、誰も入れなかった場所。父さんがたった一言「入った」とだけ書き残した場所。
その場所に、僕たちは今、立っている。
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