第10話 扉の向こう
扉の内側は、外とはまるで別の世界だった。
ひんやりとした空気が肌にまとわりついてくる。かびと、湿った土の匂い。
分厚い扉が閉じた今、狼の声も、虫の声も、波の音も、何一つ聞こえない。
聞こえるのは、僕とリーナの息づかいと、石の床を踏む足音だけ。
その足音さえ壁に跳ね返って、いつまでも耳の奥に残った。
石の通路は緩やかに下りながら、奥へと続いている。
壁のところどころにはあの紋様が刻まれていて、ぼんやりと明るくなったり暗くなったりを繰り返していた。
【夜目】のおかげで、僕には通路の奥まで灰色の薄明かりの中に見通せた。
でも、隣を歩くリーナはそうはいかないらしい。
不意に服の袖がぎゅっと引っ張られた。
「ちょっと待って、ほとんど何も見えないんだけど」
リーナが僕の袖をつかんでいた。
「……あんた、なんでそんなにすたすた歩けるの? さっきの森でも思ったけど、もしかして、暗いところが見えてる?」
どきりとした。
「え、あ、うん……目が慣れてきたのかな。港の倉庫も暗かったから、たぶんそのせいだよ。ほら、袖、ちゃんとつかんでて。足元、段差があるから」
「ふーん……」
リーナは納得していないような声を出したけれど、それ以上は聞いてこなかった。
嘘をついたわけじゃない。
でも、本当のことも言っていない。
あの赤い光のことを、どう説明すればいいのか、僕にはまだ分からなかった。
袖をつかむリーナの指先が少しだけ震えているのが伝わってきて、胸の奥がちくりと痛んだ。
しばらく進むと、通路の壁に古い石の燭台がいくつも並んでいるのが見えた。
近づいてみると、燭台には松明が差したまま残っている。
触ってみると、木に油の染みた樹脂がたっぷり含まれていて、べたりと指にくっついた。
長い年月が経っているはずなのに、まだ十分に燃えそうだった。
「リーナ、松明があるよ。でも、火が……」
「任せて」
リーナは首から下げた小袋を探って、小さな石を二つ取り出した。
「ランプは割れちゃったけど、火打ち石だけは持ってるの。夜の森に一人で行くなら、火がないと何もできないからね」
かちっ、かちっ、と石を打ち合わせる音が通路に響く。
何度目かで、小さな火花が松明の先に飛び移り、ぽっと赤い炎が灯った。
「……ほら、ついた! これで、やっと足元が見える」
炎の明かりが通路の壁を橙色に照らし出した。
リーナが心底ほっとしたように笑う。その横顔を見て、僕も少しだけ肩の力が抜けた。
僕たちは燭台から松明をもう一本抜き取って、お互い手に持ち、奥へと進んだ。
通路はどこまでも続いていた。
途中で、僕はふと壁に手をついた。
ひんやりとした灰色の石。その表面に細かな線がいくつも走っている。
この手触り、どこかで――。
僕は胸元から父さんの手帳を取り出した。島のページを開くと、挟んであった灰色の石片が手のひらにころりと転がり出る。
壁の石と見比べてみる。色も、手触りも、表面に刻まれた細かな線も、まったく同じだった。
石片を壁の紋様に近づけてみる。すると、石片がかすかに青白く光った。
あの夜、手帳の島のページを開いた時に、左腕の傷が光ったのは、これだったのだ。
「これ、父さんの手帳に挟まってたんだ。旅先で拾った珍しい石だと思って、気にもしてなかったんだけど……この壁と、まったく同じ石だよ。父さんは、ここから持ち帰ったんだ」
リーナが松明を近づけて、石片と壁を見比べた。
「じゃあ、本当に、あんたのお父さんはここに入ったんだね」
リーナは通路の奥の暗がりを見つめた。
「……なんか、変な感じ。私が扉の前で何度も悔しがってた場所の奥に、十五年前、誰かが立ってたなんて」
さらに進むと、通路の先で松明の明かりがふっと途切れた。
足元の床が大きく崩れ落ちていた。
僕たちの目の前に、深い穴がぽっかりと口を開けている。
松明をかざしても、底はまるで見えない。どこまでも黒い闇が続いているだけだった。
試しに小石を一つ落としてみる。
しばらく何の音もしなかった。
かなり経ってから、遥か下のほうで、ぽちゃん、とかすかな水音が返ってきた。
リーナがごくりと喉を鳴らした。
穴の向こう側にも、通路は続いている。でも、その間には、大人が何人も寝そべれるほどの幅があった。
その時、僕は穴の縁の岩に、何かが打ち込まれているのに気づいた。
錆びついた、鉄の杭だった。岩の割れ目に深々と打ち込まれていて、そこに、古いロープが結ばれたまま、穴の向こう側へと渡されている。
僕はしゃがみ込んで、その結び目をじっと見た。【道具理解】の感覚が、指先に伝わってくる。
「この結び方……港の船乗りがやる結び方だ。親方に、一番最初に教わったやつだよ」
胸の奥が熱くなった。
「リーナ、このロープを渡したのは、たぶん父さんだ。十五年経っても、まだ残ってる」
「誰も入れなかったから、ずっとそのままだったんだね」
リーナがロープにそっと触れる。その瞬間、ロープの表面がぼろりと崩れて粉になった。
「……でも、もうぼろぼろだよ。とても体重なんて預けられない」
リーナは穴の幅を目で測って、首を振った。
「跳ぶのも無理。いくら私でも、助走をつけても、半分も届かないよ」
僕は父さんの杭を見つめた。それから、ゆっくりと視線を上げていく。
杭の真上。
天井の高いところに、太い石の梁が一本、穴の上を横切るように渡されていた。
父さんももしかしたら、最初はあの梁を使ったのかもしれない。
「リーナ、松明を一本あっちに投げるね」
僕は持っていた松明を投げるため、向こう岸の足場を見据えた。【精密操作】の感覚が、腕に満ちてくる。
腕を大きく振って、松明を放り投げる。
炎がくるくると回りながら穴の上を飛んでいき、向こう岸の狭い足場の上にぴたりと落ちた。
転がることもなく、そのまま燃え続けている。向こう岸が明るく照らし出された。
着地できそうな足場と、その真上を通る梁がはっきりと見える。
「……あんた、ほんとに何者なの」
リーナが呆れたような声を出した。
僕は腰の鞭を抜いて、頭上の梁を見上げた。狙いを定めて、思いきり振り上げる。
縄がしなりながら宙を走り、梁にぐるぐると巻きついた。
軽く引いてみると、ぎしり、と確かな手応えが返ってくる。
【道具理解】が、しっかり噛んでいると教えてくれた。
父さんが残した杭の真上を、親方が作ってくれた鞭で越えていく。
十五年の時間を挟んで、僕は今、父さんと同じ場所に立っている。
「……行ってくる」
鞭の握りを両手でしっかりと握りしめて、僕は穴の縁を蹴った。
体が宙に投げ出される。
足元から地面が消えた。
真下には、底の見えない闇。一瞬、胃袋が浮き上がるような感覚がして、悲鳴が喉まで出かかった。
それでも、手は離さなかった。
鞭がぴんと張って、僕の体は大きな弧を描きながら、穴の上を滑っていく。
向こう岸の松明の明かりがぐんぐん近づいてくる。
今だ。
僕は鞭から手を離した。足が向こう岸の狭い足場をとらえる。
体がぐらりと後ろに傾きかけたけれど、【平衡感覚】が踏みとどまる場所を足の裏に教えてくれた。
渡れた。
僕は振り返って、鞭の握り部分をぶらんこを押し返すように、リーナのいる手前の岸へと送り返す。
鞭は大きく揺れながら穴の上を戻っていき、リーナの目の前で止まった。
リーナが握りをつかむ。
けれど、その足は穴の縁から一歩も動かなかった。
「……底、見えないよ」
松明の明かりに照らされたリーナの顔は真っ青だった。
「松明を近づけても、真っ暗なまま。跳ぶのは得意だけど……もし手が滑ったら、私、どこまで落ちるの?」
その声は震えていた。
狼の群れの中に飛び込んでいった時のリーナとは、まるで別人みたいだった。
でも、きっとこっちのほうが本当のリーナなのだと思う。怖くて、それでも前に進もうとしている、僕と同じ。
僕は両手を大きく広げた。
「鞭の先を、手首にひと巻きしてから握って。そうすれば、もし手が滑っても、落ちたりしないから。タイミングは、僕がちゃんと言う。三つ数えたら、思いきり前に蹴って。あとは、鞭が勝手に僕のところまで運んでくれる」
まっすぐにリーナの目を見る。
「絶対に、受け止める!」
リーナがぎゅっと唇を結んだ。そして、小さくこくりと頷き、松明を地面に置いた。
「一」
リーナが鞭を手首にくるりと巻きつけて、握り直す。
「二」
膝を深く曲げる。
「三!」
リーナが地面を強く蹴った。
【跳躍】の力で、リーナの体が勢いよく宙へ飛び出す。金色の髪が松明の明かりを受けて炎のようにきらめいた。
鞭が大きくしなり、リーナの体が穴の上に弧を描いて、こちらへ向かってくる。
僕は足を踏ん張って、腕を伸ばした。
どんっ、とリーナの体が胸に飛び込んできた。
勢いを受け止めきれずに、二人そろって後ろへ倒れ込み、石の床に尻もちをつく。
倒れながらも、僕はとっさにリーナの手首から伸びる鞭をつかんでいた。ここで二人とも手を離したら、鞭は振り子のように揺れ戻って、穴の向こう側へ行ってしまう。
リーナが手首に巻きつけていたおかげで、鞭はちゃんとこちら側に留まっていた。
「いったぁ……」
「……ご、ごめん。受け止めるって言ったのに、一緒に転んじゃった」
「ばか。……でも、ちゃんと受け止めてくれてありがとっ」
リーナは僕の胸の上で、ふっと笑った。それから手首に巻いた鞭をほどいて僕の手に押しつけると、慌てたように飛び起きて、顔を真っ赤にしながらぱんぱんと服の埃を払った。
僕は鞭をしっかりと握ったまま立ち上がり、頭上の梁を見上げた。手首を返して振ると、梁に巻きついていた縄がするりとほどけて、手元へと戻ってきた。
通路の先は少しずつ明るくなっていた。
松明の炎とは違う、冷たく、青白い光。その光に誘われるように進んでいくと、不意に両側の壁がぱっと途切れた。
僕たちは言葉を失った。
そこは、巨大な広間だった。
天井が、見えない。どこまでも高く、闇の中へと吸い込まれている。
その闇を支えるように、何本もの太い石の柱が、ずらりと立ち並んでいた。
そして、その柱の一本一本に刻まれた紋様が、青白く光っていた。
光はゆっくりと呼吸するように、強くなったり弱くなったりを繰り返している。手にした松明の炎が、かすんで見えるほどの明るさだった。
「ここが……光の正体だったんだ」
リーナが震える声でつぶやいた。
「毎晩、森の奥が光ってたのは、この柱だったんだね。……すごい。こんな場所が、ずっと島の下にあったなんて」
広間の中央には、大きな石の台座があった。何段もの階段の上に据えられていて、その上に、何かが乗っている。
ここからでは、それが何なのかは分からない。
そして、その台座のそばに、大きな影がうずくまっていた。
石のように灰色だった。岩山のように盛り上がった背中が、ゆっくりと上下しているようにも、していないようにも見える。
眠っているのか、ぴくりとも動かない。
その時、左腕の傷がまた、じんじんと熱を持ち始めた。
影の表面を、柱の紋様と同じ青白い光の線がすうっと走った。
「……ねえ、ノア」
リーナが僕の袖を、強く握りしめた。
「あれ、今、動かなかった?」
初めて、名前を呼ばれた。
その意味を考える暇もなく、うずくまっていた影がゆっくりと首をもたげた。
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