第11話 目覚める番人
ごり、と石と石がこすれ合う音がした。
うずくまっていた影が、ゆっくりと首をもたげていく。そのたびに、ごりごりと低い音が広間じゅうに響いて、足元の床まで小さく震えた。
僕は息をするのも忘れて、その姿を見上げていた。
蛇だった。
ただし、僕が知っているどんな蛇とも違った。胴体の太さだけで、大人が両腕を回しても抱えきれないほどある。
その体が広間に立ち並ぶ柱から柱へ、何本にもまたがって巻きついていて、どこからどこまでが一匹なのかまるで分からない。
全身を覆っているのは、石のうろこだった。灰色の、ざらついた岩のようなうろこが、何千枚も重なり合っている。
そして、そのうろこの隙間を柱の紋様と同じ青白い光の線が、脈打つように走っていた。
持ち上がった頭は、港で荷を運ぶ荷馬車ほどの大きさがあった。
額の真ん中に、こぶし大の青白い石が埋まっている。その下で二つの目が、石と同じ色にぼうっと光っていた。
左腕の傷が焼けるように熱くなった。
「……蛇?」
隣でリーナがかすれた声を出した。
「嘘でしょ、あんなに大きい蛇なんて、いるわけない……。柱に巻きついてるの、全部あいつの体なの?」
「たぶん、この場所を守ってるんだと思う」
僕の声も自分でも情けないくらい震えていた。
「扉が開かないようになってたのも、きっと、あいつのところまで誰も来させないためだったんだ。……リーナ、ゆっくり下がろう。刺激しないように」
僕たちは大蛇から目を離さないまま、一歩、また一歩と後ずさった。
その時、広間の中央の台座が目の端に入った。
何段もの階段の上に据えられた、石の台座。その上で、何かが青白く光っている。
柱の光とも、大蛇の目の光とも違う、もっと深くて、静かな光だった。ここからでは、それが何なのかまでは分からない。
父さんはあれを見たんだろうか。手帳に「入った」としか書かなかったのは、あれのせいなんだろうか。
そう思った瞬間だった。
大蛇の目がぎらりと強く光った。
「来る!」
大蛇が口を大きく開けて、一直線に突っ込んできた。
石の牙が松明の光をぎらりと返す。
ものすごい速さだった。あれだけ大きな体なのに、まるで弓から放たれた矢のように、一瞬で距離が詰まる。
考えるより先に、体が動いていた。
僕は腰の鞭を抜き、近くの柱に向かって振るった。縄が柱に巻きつくのと同時に、思いきり床を蹴る。
体が振り子のように横へ流れて、僕は大蛇の突進の線から外れた。
反対側では、リーナが【疾風】で風のように跳び退いている。
次の瞬間、さっきまで僕たちが立っていた床を、大蛇の頭が叩き割った。
轟音とともに、石の床が粉々に砕け散る。飛び散った破片がばらばらと雨のように降ってきた。
「なにあれ、速すぎる!」
柱の陰からリーナが叫んだ。
「あんな大きな体で、なんであんなに速く動けるの!? ちょっとでも遅れてたら、二人とも床と一緒にぺしゃんこだったよ!」
「止まらないで、リーナ! 柱の陰を使って、一か所にいないようにするんだ!」
僕は柱に巻きつけた鞭をほどき、次の柱へと投げ放った。
さっき穴を渡った時と同じだ。鞭を巻きつけて、体を振って、飛び移る。【平衡感覚】が着地する場所を足の裏に教えてくれる。
柱から柱へ、振り子のように飛び移っていくと、大蛇の頭が僕を追ってぐるりと向きを変えた。
その隙を、リーナが突いた。
【急加速】で一気に距離を詰めたリーナが、大蛇の胴体めがけて銛を思いきり突き出す。
がきん、と甲高い音が響いた。
銛の先が石のうろこに弾かれていた。跳ね返された勢いで、銛はリーナの手から離れ、からからと音を立てて床を転がっていく。
「硬っ……!」
リーナがしびれた手を押さえて飛び退く。
「全然刺さらない、手がしびれた! これ、本当に生き物なの!? 岩を突いてるのと、何にも変わらないよ!」
僕も柱の上から大蛇の目を狙って、鞭を振るった。
縄の先が光る目に向かってまっすぐに伸びる。
けれど届く寸前に、まぶたのような薄い石の膜がぱちりと目を覆った。鞭はその膜にあっけなく弾かれた。
狼とはまるで違う。
鞭も、銛も、届いたところで意味がない。どうすればいい。どうすれば、こんな相手に勝てるっていうんだ。
焦りがほんの一瞬、動きを鈍らせた。
その一瞬を、大蛇は見逃さなかった。
柱を回り込むようにして、巨大な尾が横から薙ぎ払ってきた。避ける間もなく、足をすくわれる。
体が宙に浮いて、僕は背中から床に叩きつけられた。
「ぐっ……!」
肺の空気が全部押し出される。
視界が揺れる中、真上に大蛇の頭が迫ってくるのが見えた。
大きく開いた口の奥が、青白く光っている。石の牙が僕の頭なんか一口で噛み砕いてしまいそうなほど、すぐそこにあった。
死ぬ。
港でも、森でも感じた、あの冷たい感覚が背中を這い上がってくる。
その時だった。
左腕の傷がこれまでで一番強く光った。
袖の下から、青白い光があふれ出す。思わず目を細めるほどの、まばゆい光だった。
大蛇の動きがぴたりと止まった。
牙が僕の鼻先で止まっている。
光る二つの目が、僕の腕の傷をじっと見つめていた。まるで、そこに刻まれた模様を一つ一つ確かめるように。
止まった……?
こいつ、僕の傷を見ている。この模様を、知っているのか。
光る目の奥がほんの一瞬だけ、揺れた気がした。怒りでも、飢えでもない。何か、もっと別の――悲しそうな色に。
もしかして、こいつは本当は、僕たちを襲いたくないんじゃないか。
そう思った、次の瞬間だった。
大蛇の体を走る光の線が一斉に、ぎらりと強く輝いた。
まるで何かに無理やり引き戻されるように、大蛇の目からさっきの揺らぎが消えた。代わりに、耳をつんざくような咆哮が広間を震わせる。
僕は転がるようにして、大蛇の頭の下から抜け出した。一瞬遅れて、牙が床を噛み砕く。
這うようにして柱の陰に逃げ込み、僕は荒い息をついた。
心臓が壊れそうなほど暴れている。それでも、さっきの光景が頭から離れなかった。
あの目は確かに、僕を見て止まった。
僕は柱の陰から、そっと大蛇の体を見つめた。【夜目】が、薄暗い広間の中で大蛇の全身をくっきりと浮かび上がらせる。
石のうろこの隙間を走る、青白い光の線。
よく見ると、その光はただ体中を走っているだけじゃなかった。尾の先から、胴体から、首から、すべての線が、一つの場所へと流れ込んでいく。
額の、青白い石だ。
体中の光が、全部あそこに集まっている。そして、あそこからまた体中へと送り出されている。まるで心臓みたいに。
「リーナ!」
僕は向かいの柱の陰にいるリーナに向かって叫んだ。
「あいつの額の石、見える? 体中の光が、全部あそこに集まってるんだ。たぶん、あそこが心臓みたいなものなんだよ。あれを壊せば、きっと止められる!」
「見えるけど、あんな高いところ、どうやって狙うのよ!」
リーナが悲鳴のような声で返してくる。
「頭はずっと上にあるし、近づいたら丸呑みされちゃう! さっきだって、あんた、もう少しで食べられるところだったじゃない!」
その通りだった。額の石は大蛇の頭の一番高いところにある。
下から鞭を振っても、まぶたの膜と同じように弾かれてしまうかもしれない。
それでも、リーナは銛を拾い直していた。
「……でも、やるしかないんだよね」
リーナは震える手で銛を握りしめて、大蛇の頭を見上げた。
「私が跳んで、狙ってみる。あんたは、あいつの気を引いて!」
「リーナ、待って! 一人じゃ――」
僕の声が届くより早く、リーナは柱の陰から飛び出していた。
【急加速】で一気に大蛇の足元まで駆け寄り、【跳躍】で高く、高く跳び上がる。金色の髪が、青白い光の中を一筋の線になって昇っていく。
額の石まで、あと少し。
けれど、大蛇の尾がその動きを読んでいたかのように、横から唸りを上げて迫った。
空中のリーナには避けようがなかった。
尾の一撃がリーナの体をまともにとらえた。リーナはまるで木の葉のように弾き飛ばされ、背中から柱に叩きつけられた。
鈍い音が広間に響いた。
リーナの手から銛が離れて、からからと床を転がっていく。リーナは柱の根元に崩れ落ちたまま、ぴくりとも動かなかった。
「リーナっ!」
頭の中が真っ白になった。
僕は柱の陰から飛び出していた。大蛇のことなんて頭から消えていた。ただ、リーナのところへ行かなきゃいけない。それだけだった。
それが、間違いだった。
横から巨大な影が覆いかぶさってきた。
気づいた時には、大蛇の胴体が僕の体にぐるりと巻きついていた。
石のうろこが全身に食い込んでくる。腕も、足も、まるで動かせない。
締めつける力がじわじわと強くなっていく。肋骨がみしみしと嫌な音を立てた。
息が、できない。
視界の端が黒くにじんでいく。鞭を握っていたはずの手から力が抜けていく。
かすんでいく目の前で、大蛇の頭がゆっくりと持ち上がっていった。
そして、真上から僕を見下ろした。
青白く光る口が、大きく、大きく開いていく。
――危ないと思ったら、格好つけずに逃げて帰ってくること。
母さんの声が遠くで聞こえた気がした。
母さん、ごめん。約束、守れないかもしれない。
……いや。
まだだ。
まだ終わりたくない。リーナがまだあそこで倒れている。父さんが何を見たのかも、まだ何も分かっていない。
こんなところで、終わってたまるか。
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