第12話 額の石
息が、吸えなかった。
全身に食い込む石のうろこが、じわじわと締めつけを強めていく。肋骨がみしみしと嫌な音を立てた。
腕も、足も、指一本動かせない。視界の端から黒いものがにじむように広がってくる。
真上では大蛇の口がゆっくりと開いていく。青白く光る喉の奥がすぐそこに見えた。
母さんの顔が浮かんだ。柱の根元で、ぴくりとも動かないリーナの姿が浮かんだ。父さんの、少し右上がりの文字が浮かんだ。
まだ、何も終わっていない。
けれど、息のできない苦しさに意識がすうっと遠のきかけた。
その瞬間だった。
暗くなりかけた視界の端に赤い光が浮かび上がった。
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◆ 経験変換 ◆
「初めての、締めつけられる苦しみ」を検知
力に変えますか?
① 【縄抜け】 締めつけや縛りから、体をひねってすり抜けられる
② 【息止め】 長い間、息をしなくても動ける
③ 【底力】 追い詰められた時ほど、体の奥から力が湧く
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【底力】という言葉に一瞬、心が引かれた。
追い詰められた時ほど、力が湧く。怖がりの僕には、喉から手が出るほど欲しい力だ。
でも、今の僕に必要なのは、この締めつけを押し返す力じゃない。ここから抜け出して、リーナのところへ行くことだ。
港で何千回もロープをほどいてきた。結び目は力で引きちぎるものじゃない。緩むところを見つけて、抜くものだ。
「……①だ」
選んだ瞬間、体の感じ方ががらりと変わった。
さっきまでただの重たい石の塊にしか感じられなかった締めつけが、まるで大きな結び目のように思えてくる。
どこが一番きつくて、どこにほんのわずかな緩みがあるのか。どこの力を抜いて、どちらへひねれば、隙間が生まれるのか。それが手に取るように分かった。
僕は全身の力を、ふっと抜いた。
肩をすぼめ、腰をひねる。うろことうろこの継ぎ目に生まれた、指一本分ほどの隙間。そこへ体を滑り込ませるようにして、ひねり、抜き、またひねる。
結び目から一本の縄を抜き取るように、僕の体は締めつけの輪の中を、するすると滑り抜けていった。
気づいた時には、僕は石の床の上に転がり落ちていた。
肺に空気が一気に流れ込んでくる。むせながら、何度も息を吸った。
けれど、息を整える暇はなかった。
獲物を失った大蛇の頭が、真上から僕めがけて落ちてくる。
僕はとっさに床を転がった。一瞬遅れて、さっきまで僕がいた場所に、大蛇の頭が叩きつけられる。
砕けた床の破片が頬をかすめた。
床すれすれまで下りてきた大蛇の頭が僕のほうを向き、もう一度大きく口を開けた。
今しかない。
僕は膝立ちのまま、鞭を振るった。
縄が大蛇の鼻先に向かって、まっすぐに伸びる。そのまま、ぐるり、ぐるりと鼻先に巻きついていく。
僕はありったけの力で鞭を引いた。
開いていた大蛇の口が、がちん、と音を立てて閉じた。
「閉じてろ……!」
かすれた声が喉から絞り出た。
「その口で、僕もリーナも、絶対に食べさせない!」
口を縛られた大蛇が、怒り狂ったように首を振り回した。僕は鞭の握りを両手で握りしめて、引きずられないように踏みとどまる。
鞭の先は大蛇の鼻先に、しっかりと巻きついたままだった。
柱の根元では、リーナがまだ倒れたままだった。
駆け寄りたい。でも、ここで鞭を離せば、大蛇の口はすぐにまた開いてしまう。
僕は暴れる大蛇に引きずられないよう両足で踏みとどまったまま、喉が裂けそうなほどの声で叫んだ。
「リーナ! 起きて、リーナ!」
倒れていたリーナが、小さくうめいて、ゆっくりと目を開けた。
「リーナ! 立てる!? あいつの口は、今、鞭で縛ってる! でも、長くはもたない!」
「……ったた……頭、がんがんする……」
リーナは顔をしかめながら、柱に手をついて体を起こした。
「でも、平気。あんたが一人で戦ってるのに、寝てなんかいられないでしょ」
リーナは少し離れた床に転がっていた自分の銛へ、這うようにして手を伸ばした。それをつかむと、杖の代わりにして、ふらつきながらも立ち上がる。
「リーナ、額の石だよ!」
僕は暴れる大蛇の頭を見上げて叫んだ。
「僕が、あいつの頭を床まで引きずり下ろす。下りてきた瞬間に、思いっきり突いて!」
「引きずり下ろすって、あんな大きいのを!?」
リーナが目をむいた。それからふっと息を吐いて、銛を構え直す。
「……もう、分かったよ! あんたが言うなら、やってみる。絶対に、外さないから!」
大蛇が鼻先に巻きついた鞭ごと、僕を振り払おうと首を大きく振り回した。
体がぐんと引っ張られる。足が床から浮きかけた。
逆らっちゃ駄目だ。この勢いを、使うんだ。
僕は引っ張られる力に逆らわず、床を蹴った。体が振り回される鞭の勢いに乗って、ふわりと宙に舞い上がる。
その先にあるのは、大蛇の、岩山のような背中だった。
石のうろこの上に着地する。
足元が大きくうねった。大蛇が背中の異物を振り落とそうと、体をくねらせている。
でも、【平衡感覚】が次にどちらへ傾くのかを、足の裏に教えてくれる。揺れる甲板と同じだ。
僕はうねる背中を、首のつけ根に向かって駆け上がった。
首のつけ根まで登りきると、僕は鞭を両手で握り直した。鼻先に巻きついた鞭が、まるで馬の手綱のように、僕の手の中でぴんと張る。
全身の体重をかけて、鞭を引いた。
びくともしなかった。
大蛇の首はまるで太い木の幹みたいに重かった。どれだけ引いても、頭は少しも下がらない。
それどころか、大蛇が首を振るたびに、僕の体は背中から振り落とされそうになる。
うろこを踏みしめる。振り落とされまいと、ただひたすらに足の裏に力を込める。
その時、視界の端にまた赤い光が浮かんだ。
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◆ 経験変換 ◆
【踏ん張り】が育ちました
Lv2 → Lv3 MAX
追加効果:恐怖の中でも、体が震えなくなる
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その瞬間、僕はふと気づいた。
怖い。今だって、心臓は壊れそうなほど暴れている。喉はからからで、手のひらは汗でぬるぬるしている。
それなのに、足が、震えていなかった。
港で鳥に押さえつけられた時も、森で狼と向き合った時も、ずっと笑っていた膝が、今は石のうろこの上で、まっすぐに僕を支えている。
怖いまま、震えずに立っていられる。
それがこんなにも心強いなんて、知らなかった。
それだけじゃなかった。今までは膝が震えるたびに、せっかく込めた力がどこかへ抜けていっていたのだ。
震えが止まった今、足の裏から込めた力が、まっすぐに腕へ、そして鞭へと伝わっていくのが分かる。
その時、左腕の傷がまた強く光った。
袖の下から、青白い光があふれ出す。
大蛇の動きが一瞬、ぴたりと止まった。首をひねるようにして、背中の上の僕をその光る目で見つめる。
目の奥がまた、悲しそうに揺れていた。
お前も本当は、止まりたいんだよね。
僕は心の中で語りかけた。
……だったら、今だけ、僕に力を貸して。
大蛇がためらったその一瞬を、僕は逃さなかった。
震えの止まった足で踏みとどまったまま、全身の力を一本の鞭に込めて、ぐっと引く。
さっきまでびくともしなかった首が、ゆっくりと下がり始めた。
じりじりと大蛇の頭が床へと近づいていく。ためらいが消えて、大蛇がまた暴れ出しそうになる。
それでも僕は鞭を緩めなかった。足はもう震えない。どれだけ引っ張られても、もうここから動かない。
そして、大蛇の頭が床すれすれまで下りてきた。
「リーナ、今っ!」
「分かってる!」
視界の端を金色の光が駆け抜けた。
【急加速】で、リーナが一気に距離を詰める。大蛇の頭の前で、【跳躍】で額の高さまで跳び上がった。
両手で握った銛を高く振りかぶる。
「これで……終わりにしてあげる!」
銛の先が、額の青白い石をまっすぐに貫いた。
びしり、と乾いた音が広間じゅうに響き渡った。
額の石に大きなひびが走る。
その瞬間、大蛇の体を走っていた青白い光の線が、一斉に額の石へと吸い込まれていった。尾の先から、胴体から、首から。すべての光が、ひびの入った石へと集まって――。
ぱん、と光が砕け散った。
青白い光のかけらが、雪のように広間に舞い落ちていく。
大蛇の動きが、止まった。
僕は鞭を握ったまま、息をするのも忘れて大蛇の頭を見下ろしていた。
大蛇の目から、ぎらぎらとした青白い光がゆっくりと抜けていく。そして、その奥に別の光が灯った。
穏やかな、淡い金色の光だった。
僕は鞭をほどいて、そっと大蛇の背中から滑り降りた。リーナが銛を握りしめたまま、僕の隣に駆け寄ってくる。
大蛇はもう暴れなかった。
ゆっくりと頭を下げていく。そして、僕の目の前でぴたりと止まった。
金色の目が、僕の左腕の傷を静かに見つめている。
やがて大蛇は、そっと目を閉じた。
まるで深く、お辞儀をするように。
その時、僕はようやく分かった気がした。
こいつは本当は、僕たちを襲いたかったんじゃない。何かに無理やり暴れさせられていたんだ。そして、ずっとこの傷を持つ者が来るのを、待っていたのかもしれない。
「……ねえ、ノア」
リーナがささやくように言った。
「あの蛇、あんたにお辞儀してるみたい」
「うん。たぶん、この場所を守る番人だったんだと思う」
僕は大蛇の閉じた目を見つめながら答えた。
「父さんも、きっとこうやって、ここを通してもらったんだ」
大蛇はゆっくりと体をずらし、台座の前から退いた。そして、柱に巻きつくようにして、静かにもとの石の姿へと戻っていった。
広間に静けさが戻ってきた。
柱の紋様は、さっきまでとは違う穏やかな光で、ゆっくりと明滅している。
その時、視界の端に見慣れた緑色の光が浮かんだ。
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レベルが上がりました
Lv4 → Lv5
新スキル:【仕掛け看破】
効果:罠や仕掛けの仕組みを、見抜ける
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「あっ!」
隣でリーナが声を上げた。宙の何かを見つめて、目を丸くしている。
「ねえノア、私、レベルが上がった! 新しく【連突き】っていうのを覚えたよ。一瞬で、何回も続けて突けるんだって」
「僕も、今ちょうど上がったところだよ。罠や仕掛けの仕組みを、見抜ける力なんだって」
「えー、なにそれ、地味! ……でも、なんか、あんたらしいね」
リーナは銛をくるりと回して、にやりと笑った。
「……これで、あの硬いうろこにも、もう弾かれたりしないんだから」
「頼もしいけど、次からは一人で跳び出すのだけはやめてよ。さっき、本当に心臓が止まるかと思ったんだから」
「……それは、ごめん。でも、あんただって、一人で突っ込んで捕まってたじゃない」
「それは、リーナが倒れてたから……」
言いかけて、僕たちは顔を見合わせた。そして、どちらからともなく、笑い出した。
ひとしきり笑ってから、僕たちは広間の中央の台座を見上げた。
何段もの階段の上で、何かが青白く光っている。
僕とリーナは並んで、一段ずつ階段を上っていった。
台座の上に置かれていたのは、一枚の石の板だった。
大きさは父さんの手帳を広げたくらい。表面は鏡のように滑らかで、そこに見たことのない文字がびっしりと刻まれている。
文字の一つ一つが、内側から淡く光っていた。
僕には一文字も読めなかった。
けれど隣のリーナは、その石の板を見た瞬間、息をのんでその場に立ち尽くしていた。
「リーナ……?」
リーナの唇がかすかに震えていた。
「……うそ」
リーナは石の板から目を離さないまま、つぶやいた。
「この字……私のステータスに、ずっと読めないまま書いてある字と、同じだ」
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