第13話 石の板と、二人の秘密
広間はすっかり静けさを取り戻していた。
柱に刻まれた紋様は、戦いの時のぎらつくような光ではなく、穏やかな光でゆっくりと明るくなったり暗くなったりを繰り返している。
石の姿に戻った番人は、柱にゆるやかに巻きついたまま、まるで深い眠りについたように動かなかった。
台座の上の石の板は父さんの手帳を広げたくらいの大きさだった。
鏡のように滑らかな表面に、見たことのない文字がびっしりと刻まれている。文字の一つ一つが、内側から淡く光っていた。
リーナはその石の板の前に立ったまま、じっと動かなかった。
「リーナ……?」
声をかけても、リーナは石の板から目を離さなかった。ただ、その横顔がいつになく青白く見えた。
「……私」
しばらくして、リーナがぽつりと口を開いた。
「ずっと、誰にも言えなかったことがあるの」
リーナは両手をぎゅっと握りしめていた。
「私のステータスにはね、固有能力の下に、もう一つだけ欄があるんだ。でも、そこに書いてある字が、一つも読めないの。ぐしゃぐしゃの模様みたいな字が、ずらっと並んでるだけ」
僕は何も言えずに、リーナの横顔を見つめていた。
「じいちゃんにも、話したことない。……島の外から来た子だって言われるのが、もっと本当になっちゃう気がして、怖かったから」
リーナは小さく笑った。笑っているのに、今にも泣き出しそうな顔だった。
「でも、この石の板の字、あの欄の字と、まったく同じなの。一つ一つの形まで、ぜんぶ同じ」
広間に沈黙が落ちた。
リーナは一番怖いことを、僕に話してくれたのだ。
島の誰にも、育ててくれた村長にさえ、話せなかったことを。
それなのに、僕だけ黙っているのは、違う気がした。
「……リーナ」
僕は一つ息を吸い込んだ。
「僕も、隠してたことがある」
リーナがゆっくりとこちらを向いた。
「暗いところが見えるのは、目が慣れたからじゃないんだ。前に話した僕の固有能力は【天与の手】だけど、それとは別に、もう一つだけ、変な力を持ってる。初めて体験したことを、力に変えられる。【経験変換】っていう力なんだ」
「……経験、変換?」
「港で、空飛ぶ魔物に襲われた日から、急に使えるようになったんだ。初めてのことを体験すると、赤い光が出て、どんな力に変えるか、自分で選べるんだ。暗いところが見えるのも、さっき蛇の締めつけから抜けられたのも、全部その力だよ。……僕のステータスにもね、固有スキルの下に、『変換スキル』っていう、普通の人にはない欄があるんだ。リーナと同じだよ」
リーナはぽかんと口を開けて、しばらく固まっていた。
それからみるみるうちに眉を吊り上げた。
「……ちょっと待って。じゃあ、松明をぴたっと投げたのも、暗闇ですたすた歩いてたのも、さっき蛇の輪からするっと抜けたのも、全部その力なの!?」
「う、うん」
「なんで今まで黙ってたのよ! 私、あんたのこと、目がいいだけの変な港の子だと思ってたんだからね!」
「どう説明したらいいか、分からなかったんだ。僕自身、まだよく分かってないから。……ごめん」
僕が頭を下げると、リーナはぷいっとそっぽを向いた。
けれど、その肩が小さく震えていた。怒っているのかと思ったら、そうじゃなかった。リーナは笑っていた。
「……ばか」
リーナは目元をぬぐいながら、こちらに向き直った。
「でも、お互いさまだね。私たち、変なものを抱えてる者同士だ」
その言葉に、僕もつられて笑ってしまった。
ずっと胸の奥につかえていたものが、すうっと溶けていくような気がした。
リーナもきっと同じだったのだと思う。二人してしばらく、意味もなく笑い合っていた。
ひとしきり笑ってから、僕は改めて石の板を見つめた。
その時、頭の奥で、何かがかちりと噛み合うような感覚がした。
さっき覚えたばかりの【仕掛け看破】だ。ただの石の板にしか見えなかったものが、急に違って見え始めた。
板の縁が、台座のくぼみにぴったりとはめ込まれている。その継ぎ目から細い光の筋が、台座の奥へと伸びている。
この板は、台座と繋がった、一つの大きな仕掛けの一部なのだ。
そして、板の両端に手のひらほどの丸い印が、二つ刻まれているのに気づいた。
僕は試しに片方の印に手を置いてみた。しかし、何も起きなかった。
「これ、ただの石の板じゃない。台座と繋がった、仕掛けになってるんだ」
僕はもう片方の印を指さした。
「両端の丸い印……たぶん、二人で同時に触れるんだと思う。一人じゃ、動かないようにできてるんだ」
「二人で、同時に……?」
リーナが目を丸くした。それから、少し呆れたように笑う。
「扉の時もそうだったけど、この場所って、一人じゃ何もさせてくれないんだね」
僕たちは石の板を挟んで、向かい合った。僕は左手を、リーナは右手を、それぞれの印の上にかざす。
「せーの、で行くよ」
「うん」
「せーの」
二人の手のひらが同時に、冷たい石に触れた。
その瞬間、左腕の傷が熱く脈打った。石の板の文字もそれと同じ速さで、とくん、とくんと一斉に光り始める。
まるで石の板が、僕たちの鼓動に合わせて、息をしているみたいだった。
光はどんどん強くなっていった。石の板からあふれ出したいくつもの光が、細い糸のように宙へと昇っていく。
そして、天井の見えない広間の闇いっぱいに、ぱっと広がった。
僕たちは言葉を失って、頭上を見上げた。そこには、光で描かれた巨大な地図が浮かんでいた。
海と、陸の形。
いくつもの島と、見たこともないほど大きな大陸。
そのあちこちに小さな光の点が、星のように灯っている。
数えきれないほどの点の中で、一つだけ、ひときわ明るく輝いている点があった。
ルナリア島のあたりだ。今、僕たちがいる場所。
「なに、これ……地図?」
リーナがかすれた声でつぶやいた。
「光ってる点が、いっぱいある。島の外って、こんなに広かったんだ。私、何にも知らなかった」
「僕も、港から見える水平線の向こうしか、知らなかったよ」
光の地図を見上げながら、僕は答えた。
「……この点の一つ一つに、ここみたいな場所があるのかもしれない」
ふと見ると、光の糸の何本かが石の板からリーナの右手へと流れ込んでいた。
リーナの白い指先から腕へ、青白い光がすうっと昇っていく。
リーナ自身は、頭上の地図に見とれていて、それに気づいていないようだった。
その時、胸の奥に何かが引っかかった。この点の並び方を、どこかで見たことがある。
僕は片手で石の板に触れたまま、もう片方の手で胸元の手帳を取り出した。島の記録のページをめくり、その次のページを開く。
あった。
父さんの、少し右上がりの線で描かれた、いくつもの点の並び。
最初に見た時は、星の並びを写したものだと思っていた。
でも、違った。
頭上に浮かぶ光の地図と、まったく同じ形をしていた。
「父さんも、これを見たんだ……」
そして、父さんのスケッチでは一つの点だけが、丸で囲まれていた。
僕は頭上の地図に目を戻した。その点はルナリア島から海を越えた先にあった。
地図の上でも他の点より、ほんの少しだけ強く光っている。
「父さんは、ここを見て、次はこの場所へ行ったんだ」
僕はリーナのほうを向いた。
「……リーナ、次に行く場所が、分かったよ」
リーナは何も言わずに、こくりと頷いた。その目が地図の光を映して、きらきらと揺れていた。
光の地図には、点の横に文字のようなものも添えられていた。
でも、僕には一文字も読めなかった。きっと父さんにも読めなかったのだと思う。
だから父さんは、丸で囲んだ点を一つずつ、自分の足で確かめていくしかなかったんだ。
やがて光の地図は、ゆっくりと薄れていった。宙に広がっていた光の糸が一本、また一本と、石の板の中へ戻っていく。
最後の光が吸い込まれると、広間にはまた柱の穏やかな明かりだけが残った。
僕たちはそっと印から手を離した。
その時だった。
リーナがはっとしたように、宙の何かを見つめた。自分のステータスを、開いたのだ。
リーナの目が大きく見開かれた。唇がかすかに震えている。
「ノア……」
リーナが僕の袖を、ぎゅっとつかんだ。
「読める。読めない欄の、最初の一文字だけ……読めるようになってる」
「本当に!?」
思わず声が大きくなった。
「なんて書いてあるの?」
リーナはしばらく黙って、宙を見つめていた。それから、ゆっくりとその一文字を口にした。
「……『月』って書いてある」
リーナは自分でも信じられないというように、首を振った。
「その後ろは、まだ全部、ぐしゃぐしゃの模様のままだけど」
そこで僕は思い出した。光の地図が浮かんでいる間、石の板から光の糸がリーナの腕へと流れ込んでいたことを。
あの光だ。あの光が、リーナの欄の文字を一つだけ目覚めさせたんだ。
月。
僕はその言葉を、心の中で繰り返した。
五つの月を合わせて開いた、あの扉。村長がリーナに歌ってくれたという、月の子守唄。月の名を持つ、この島。
そして、リーナの欄に浮かび上がった、最初の一文字。
ばらばらだったものが、また一つ、繋がった気がした。
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