第6話 海から来た子
夜が明けると、朝もやの向こうにぼんやりと島の影が浮かび上がってきた。
海から突き出た切り立った崖。その上にはどこまでも深い緑の森が広がっていて、崖のふもとには目が痛くなるほど真っ白な砂浜が続いている。
風の匂いも港町とはまるで違った。潮の匂いに混じって、熟れた果物のような甘い香りがふわりと鼻をくすぐる。
「見えたぞ、坊主。あれがルナリア島だ」
舵を握ったまま、ハーゲン船長が短く告げた。
「十五年前、お前の親父が桶を抱えたまま、それでも目だけは輝かせて眺めてたのと、同じ景色だよ」
僕は船べりに手をついて、近づいてくる島をじっと見つめた。
父さんもここから同じ景色を見ていたのだ。そう思うと、胸の奥が少しだけ熱くなる。
上陸する前に、もう一度だけ自分の力を確かめておきたかった。僕はステータスを開いた。
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名前:ノア
レベル:4
固有能力:【天与の手】 道具を扱う才能に恵まれる
固有スキル:
【道具理解】 初めて触る道具でも、使い方が分かる
【精密操作】 投げる・結ぶ・当てるが正確になる
【即席使い】 その場にある物を、武器や道具として使える
変換スキル:
【踏ん張り Lv2】 恐怖や衝撃の中でも、足を止めずに踏みとどまれる
【平衡感覚 Lv1】 揺れる足場でも、体の傾きを読んで立っていられる
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港を出て、まだ一日しか経っていない。それなのに、力が一つ増えている。
初めてのことに出会うたびに、僕は少しずつ変わっていくのかもしれない。だとしたら、この島ではいったいどれだけ変わるんだろう。
期待と同じくらいの怖さを抱えたまま、僕はステータスを閉じた。
船が小さな木の桟橋に横付けされると、日焼けした島の人たちがわらわらと荷を受け取りに集まってきた。
みんな、色鮮やかな布を体に巻きつけるようにして着ている。
籠の中には、紫色の皮をした見たことのない果物がどっさりと積まれていて、隣の籠では、銀色に光る細長い魚がぴちぴちと跳ねていた。
聞こえてくる言葉にも、港町とは少し違う、歌うような抑揚がある。
何もかもが初めてで、僕は荷物を担いだまま、あっちを見たりこっちを見たりと、きょろきょろしてしまった。
集まった人たちの先頭には、一人の老人が杖をついて立っていた。白いひげを胸のあたりまで伸ばしていて、深いしわの奥の目が、ハーゲン船長の下ろした木箱の中身を一つずつ丁寧に確かめている。
「村長、塩と薬と布、頼まれてた分は全部そろってる」
船長は最後の木箱を下ろすと、顎で僕のほうをしゃくった。
「……それと、今回は客を一人連れてきた。港町の坊主だ。しばらく島にいるつもりらしいから、寝る場所を世話してやってくれ。十五年前に俺たちが運んできた、あの変わり者の息子だよ」
村長の手がぴたりと止まった。
ゆっくりと顔を上げた村長は、僕の顔をじっと見つめて、それから懐かしいものを見るように目を細めた。
「……ああ、覚えとるよ。困ったような眉をした男じゃった。島の言い伝えを、年寄りから子どもまで片っ端から聞いて回ってな。最後には、わしらが止めるのも聞かずに、入ってはならん場所にまで入っていきおった。……その男の息子が、今度はこの島に何をしに来たんじゃ」
僕は背負った荷物の紐をぎゅっと握りしめた。
「父さんが何を見たのか、知りたくて来ました。父さんの手帳には、この島の入ってはいけない場所に『入った』とだけ書いてあって……その先のことが、何も書かれていないんです」
村長の顔がすっと曇った。
「悪いことは言わん、あそこの話はやめておけ。ここ最近、夜になると、森の奥がぼんやりと光るんじゃ。島の者はみな祟りだと怖がって、誰も近づこうとせん」
そこで村長は、大きなため息を一つついた。
「……いや、一人だけ、懲りずに近づこうとする馬鹿者がおる。よりにもよって、わしの孫がな」
荷を下ろし終えたハーゲン船長は、すぐに渡り板へと足をかけた。
「俺は次の島へ行く。帰りにまた寄るから、それまで生きてろよ、坊主」
船長は振り返りもせずにそう言ってから、ほんの少しだけ足を止めた。
「……お前の母親に、息子を死なせたなんて言えるわけがないからな。ゴルドの奴にも、一生恨まれちまう」
「……はい。船長も、気をつけて」
帆が風をはらみ、船がゆっくりと桟橋を離れていく。港町へと繋がる、最後の糸が切れたような気がして、僕はその背中が小さくなるまでずっと見送っていた。
「……さて」
村長が杖で桟橋をこつんと叩いて、僕に向き直った。
「寝る場所じゃが、わしの家に泊まっていきなさい。十五年前、お前の親父も、うちに泊まっていったんじゃ。その息子を、よその家にやるわけにもいくまい」
「父さんも、村長さんの家に……?」
「それにのう」
村長は白いひげを撫でながら、じろりと僕を見た。
「わしの目の届くところに置いておかんと、どこぞの誰かと同じように、ふらっと森へ飛び込みかねんからな」
「ありがとうございます。何から何まで、お世話になります」
僕が頭を下げると、村長は「ふん」と鼻を鳴らしただけで、杖をついて歩き出した。
父さんが十五年前に泊まった家。そう思うだけで、背中の荷物が少しだけ軽くなった気がした。
村長の家は、港から続く坂道を上りきった、小高い丘の上にあった。
白い石を積み上げた壁に、大きな葉を何枚も重ねた屋根。庭先には、見たことのない真っ赤な花がいくつも咲き誇っている。
丘の上からは、さっきまで乗っていた船がもう豆粒ほどの大きさになって、水平線の近くを進んでいくのが見えた。
家の前に着いた、ちょうどその時だった。
「離してってば! 自分で歩けるって言ってるでしょ!」
森のほうから甲高い声が近づいてきた。
振り向くと、島の男が二人、一人の少女の両腕をがっちりとつかんで、坂道を引きずるようにして上ってくるところだった。
僕は思わず息をのんだ。
島の強い日差しの中で育ったはずなのに、その肌は驚くほど白かった。
肩にかかるくらいの金色の髪は、毛先がふんわりと内側に丸まっていて、暴れるたびにふわふわと揺れる。
膝には森で転んだような擦り傷が、いくつもできていた。
日焼けした島の人たちの中で、その子だけが、まるで別の場所から来たみたいに見えた。
「村長、またリーナの奴が、夜中に森へ入り込もうとしてましたよ。見張りが見つけて、なんとか連れ戻しましたけど」
「ご苦労じゃった。……離してやれ」
男たちが手を離すと、リーナと呼ばれた少女はぷいっとそっぽを向いて、つかまれていた腕をさすった。
「だから、ちょっと様子を見に行っただけだって言ってるでしょ! 光の正体を確かめなきゃ、みんなずっと怖がったままじゃない! 祟りだの言い伝えだの言うけど、実際に見た人なんて、この島に一人もいないくせに!」
「リーナ! お前という奴は、いったい何度言えば分かるんじゃ! あそこに近づくたびに、わしの寿命が縮むと、何べん言わせる気じゃ!」
「そんなこと言って、じいちゃん、あと五十年は生きそうじゃない!」
「屁理屈を言うでない!」
村長の雷が、丘の上に響き渡る。その声に引かれるように、近所の家々から島の女の人たちが何人も顔を出した。
家の前に集まった女の人たちは、リーナのほうをちらちらと見ながら、ひそひそと囁き合っている。
「またリーナちゃんかい。懲りないねえ」
「……やっぱり、海から来た子は、どこか違うのかねえ」
その瞬間だった。
あれだけ威勢よく村長に言い返していたリーナの顔が、ほんの一瞬だけこわばった。
唇をきゅっと結び、白い指先が服の裾を強く握りしめる。けれど、それは本当に一瞬のことで、リーナはすぐに何も聞こえなかったような顔をして、ふいっとそっぽを向いた。
その一瞬を、僕は見てしまった。
怒鳴られている時より、ずっと痛そうな顔だった。
「海から来た子」という言葉が、何を意味しているのかは分からない。でも、この子が島の中でどんなふうに見られているのかは、なんとなく分かった気がした。
村長が女の人たちをじろりとにらむと、囁き声はぴたりと止んだ。女の人たちは気まずそうに笑って、それぞれの家へと戻っていく。
その時、リーナの目が、村長の隣に立っていた僕に止まった。
腰に下げた鞭。それから、手に持っていた手帳。
リーナの視線が、その二つの間を行ったり来たりして、やがてずかずかとこちらへ近づいてきた。
「ねえ、あんた、島の外から来た人でしょ」
「え、あ、うん。今朝、港町から着いたばかりなんだけど……」
「さっき、そこの女の人たちが噂してたの、聞こえちゃった。……昔、あの場所に入って戻ってきた旅人の息子が来たって。それって、あんたのこと?」
リーナが、ぐっと顔を近づけてくる。近くで見ると、その瞳は晴れた日の海みたいに澄んだ青色をしていた。
「た、たぶん、僕の父さんのことだと思う。この手帳、父さんが旅の間に書いてたもので、この島のことも書いてあるんだ」
リーナの目がぱっと大きく見開かれた。
けれど、そこに浮かんでいたのは、ただの好奇心ではなかった。もっと切実な、すがるような色だった。
「あの場所の奥にね、石の扉があるの。私、何回も行ったんだよ。押しても、叩いても、体当たりしても、ぜんぜん開かなかった。……でも、あんたのお父さんは、あの扉の奥に入って、戻ってきたんでしょ? だったら、その息子のあんたなら、何か分かるかもしれない」
「ちょ、ちょっと待って。僕、扉の開け方なんて何も知らないよ。それに、正直に言うと、ものすごく怖いんだ。さっきの村長さんの話を聞いて、もっと怖くなったくらいで」
情けない本音だった。でも、嘘をつくよりはましだと思った。
リーナは少しだけ目を伏せた。長いまつげが白い頬に影を落とす。
それから顔を上げて、にっと笑った。
「怖いのは、私も同じだよ。昨日だって、森の奥で光を見た瞬間、足がすくんで動けなくなったんだから。見張りに捕まったのも、本当はそのせい」
リーナは白くて細い手を、僕の前にまっすぐ差し出した。
「……でもさ、一人で行くより、二人のほうがずっとましでしょ。ねえ、私と組まない?」
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