第5話 それぞれの餞別
それからの七日間は、目が回るほど慌ただしかった。
家の中は旅支度で散らかり放題になり、床には干し肉の包みや堅焼きのパン、傷薬の小瓶がずらりと並んだ。
母さんはそれを一つずつ手に取っては、あれも足りない、これも足りないと唸りながら、次々と袋へ詰め込んでいく。
「着替えは三枚……いや、四枚だね。傷薬も、もう一瓶入れときな。……ちょっとノア、あんた干し肉だけで一か月もつと思ってるのかい? 旅先で腹を壊して倒れたって、あたしは迎えに行けないんだからね」
「母さん、それ以上入れたら袋の口が閉まらないよ。それに、父さんの時より荷物が多いって、さっきから三回くらい言ってるよね」
「当たり前だろ。あの人は大人だったけど、あんたはまだ子どもなんだから。多くて困ることはあっても、少なくて助かることなんて一つもないんだよ」
そう言いながら、母さんはまた一つ、干し肉の包みを押し込んだ。袋がぎしりと悲鳴を上げた。
出航の前日の夕方、港の片付けを手伝っていると、親方に桟橋の端まで呼びつけられた。
「ノア、ちょっと来い」
振り向くと、親方は腕を組んで、何やら細長いものを小脇に抱えていた。
夕日を背にしているせいで、表情はよく見えない。
「餞別だ、持ってけ」
ぶっきらぼうに突き出されたのは、一本の鞭だった。
握りには新しい革が丁寧に巻かれていて、その先には、何本もの綱を固く編み込んだ、しなやかな縄が長く伸びている。
潮に揉まれて色の抜けた綱は、見た目よりずっと重く、手に取るとずしりと掌に馴染んだ。
「俺が船乗りだった頃、帆を張るのに使ってた綱をほどいて、鞭に編み直してやった。お前の親父もな、旅の間はずっと鞭を腰に下げてやがったんだよ。遺跡の穴に落ちかけた時も、魔物に囲まれた時も、そいつ一本で切り抜けてきたって、酒の席でよく自慢してたもんだ」
「父さんが、鞭を……」
「ロープの扱いがあれだけ上手いお前なら、こいつもすぐに言うことを聞くだろうよ。……ただし、なくしたら承知しねえからな」
「……ありがとうございます、親方。一生、大事にします」
「一生はいい。帰ってくるまで大事にしろ」
親方は照れくさそうに鼻を鳴らして、顎で桟橋の杭をしゃくった。
「試しに振ってみな。あの杭の先っぽだ」
言われるまま、僕は鞭の握りを持ち直した。
不思議なことに、握った瞬間、どう手首を返せばいいのか、どこで力を抜けばいいのかがなんとなく分かった。
ロープを投げる時の感覚とどこか似ている。
軽く腕を振る。縄が夕日の中で大きく弧を描き、ぱしん、と乾いた音が響いた。
狙った杭の先から、木くずがぱっと弾け飛んだ。
「……おいおい。初めて振った奴の音じゃねえぞ、そりゃ。お前の親父なんざ、最初は自分の背中を思いっきり叩いて、悲鳴上げてたってのによ」
「なんでだろう。握った瞬間に、どう振ればいいのか、手が分かってたんです。ロープを投げる時と、少しだけ似てる気がして」
親方はしばらく黙って僕の手元を見ていた。
それからふっと笑って、僕の頭をがしがしと乱暴に撫でた。
「……やっぱり、あいつの息子だな」
その帰り道、僕はずっとミナのことを考えていた。
この七日間、ミナは一度も港に顔を出していない。
足の具合が悪くなったのかと思って家を訪ねてみても、ミナのお母さんに「今ちょっと手が離せないみたいでねえ」と笑ってはぐらかされるばかりだった。
明日にはもう、僕は港を出るのに。
出航の前夜、僕は自分の部屋で最後の荷物を確かめていた。
月明かりが窓から床に四角く差し込んでいる。
手帳を荷物の一番上にしまおうとした時、島のページの隙間から何かがころりとこぼれ落ちた。
拾い上げてみると、指先ほどの大きさの、灰色の小さな石片だった。
ひんやりと冷たくて、よく見ると表面にかすかな線が刻まれている。
「父さんの拾い物かな……」
旅先で珍しい石でも拾ったのだろう。僕はさして気にも留めず、石片を元のページへ戻して、手帳を閉じた。
「ノア、起きてるかい」
扉の向こうから母さんの声がした。返事をすると、母さんは何か細長い包みを手にして入ってきた。
「ほら、これ持っていきな」
包みを開くと、中から一本の小刀が出てきた。
木の柄は長年握られて黒く艶を帯び、刃には細かな研ぎ跡が幾筋も残っている。
見覚えがあった。母さんが毎朝、食堂で魚をさばいている小刀だ。
「あたしが食堂で二十年近く使ってきた小刀だよ。魚をさばくのも、野菜を刻むのも、縄を切るのも、こいつ一本でやってきたんだ。刃はゆうべ研いどいたから、切れ味は保証するよ」
「母さん、これ、毎朝使ってるやつじゃないか。これがなかったら、明日から仕事にならないんじゃないの?」
「包丁の代わりなんて、市場に行けばいくらでも売ってるよ。でも、あんたの代わりは、どこにも売ってないんだ。だから、あんたが持ってきな」
母さんは僕の手に小刀をぐっと押しつけた。
「いいかい、旅先でもちゃんと飯を作って食べな。腹が減ってると、人間ろくな判断ができないんだから。それと、いざって時は、こいつで自分の身を守るんだよ」
「……うん。大事に使う」
母さんはそれだけ言うと、ぽんと僕の頭に手を置いて、ぱたんと扉を閉めていった。
翌朝の港は、白い靄に包まれていた。
桟橋には、二本の帆柱を持つ交易船が横付けされていて、船乗りたちが威勢のいい声を掛け合いながら、次々と荷を積み込んでいる。
潮の匂いと、濡れた木の匂い。靄の向こうで、海鳥が高く鳴いた。
「来たか、ノア。こいつがハーゲンだ」
親方の隣に立っていたのは、背の高い、細身の男だった。
潮に焼けた顔には深い皺が刻まれていて、片方の耳で古びた銀の耳輪が鈍く光っている。
「愛想は海に捨ててきたような奴だが、腕だけは確かだ。坊主を島まで頼むぞ」
「愛想を捨てたんじゃない。お前が二人分しゃべるから、俺の分がいらないだけだ」
ハーゲン船長は、親方を横目で一瞥してから、僕をじっと見下ろした。
「……ほう。お前が、あいつの息子か。困ったような眉の形がそっくりだな」
「え、父さんを知ってるんですか?」
「十五年前、あいつを島まで運んだ船で、俺は航海士をやってた。……まあ、話は船の上でもできる。荷物を積んだら、さっさと乗りな」
言うだけ言って、船長は背を向けて船へ戻っていった。本当に口数の少ない人だ。
その時、靄の向こうから聞き慣れた声が飛んできた。
「ノアにーーーっ!」
振り向くと、ミナが桟橋を全力で駆けてくるところだった。
足首の添え木は、もうない。
ただし、走り方は相変わらず前のめりで、最後の一歩で案の定つまずきかけ、僕は慌てて腕を伸ばして受け止めた。
「セーフ! ……ほら、足はもう治ったんだよ。先生にも、走っていいって言われたんだから」
「治ってすぐに全力で走って転びかける人、初めて見たよ。治ったのは足だけで、中身は何も変わってないんだね」
「失礼な! それより、はい、これ!」
ミナが差し出したのは、小さなお守りだった。
白い貝殻に丁寧に穴が開けられていて、色とりどりの糸で編んだ組紐が通してある。組紐の編み目はところどころ少し歪んでいた。
「しばらく港に来なかったのはね、これ作ってたからなの。貝殻に穴を開けて、組紐を編んで……指に何回も針を刺したんだから、なくしたら本気で怒るよ。ノア兄が転びそうになったら、これが代わりにセーフって言ってくれるから」
見れば、ミナの指先には小さな布があちこちに巻かれていた。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
「……ありがとう、ミナ。絶対になくさない。帰ってきたら、一番に見せに来るよ。だからミナも、僕がいない間に転んで怪我するんじゃないよ」
「それは、約束できないかも」
「そこは約束してよ!」
ミナはあははと笑った。その目の端が少しだけ赤いのには、気づかないふりをした。
「坊主、出るぞ」
船の上から船長の短い声が飛んでくる。
僕はお守りを首に掛け、腰に鞭と小刀を差して、渡り板を踏みしめた。
船の甲板は、港の石畳とはまるで違って、足の下でゆらゆらと揺れていた。
綱が解かれ、船がゆっくりと桟橋を離れていく。
「ノア!」
港じゅうに響き渡るような声がした。
桟橋の一番先に、母さんが立っていた。エプロン姿のまま、腰に手を当てて、胸を張って。
「約束、三つとも忘れるんじゃないよ! 手紙を寄越さなかったら、あたしがそっちまで殴りに行くからね!」
「分かってる! 母さんも、元気でいて!」
母さんは泣いていなかった。いつもの豪快な笑顔だった。
大きく手を振る母さんの隣では、ミナが両手をぶんぶんと振り回していて、その後ろでは、親方が腕を組んで仁王立ちしている。
三人の姿が、朝日の中でだんだんと小さくなっていく。
ただ一度だけ、手を振っていた母さんの手が止まって、エプロンの端をぎゅっと握りしめたのが見えた気がした。
港が靄の向こうに消えて、船が外海に出ると、世界が一変した。
大きなうねりが船体を持ち上げては、また深く沈ませる。
甲板が斜めに傾き、次の瞬間には反対側へ傾く。そのたびに胃袋が体の中で宙返りをして、喉元までせり上がってきた。
「う、うぷ……」
僕は舷側にしがみついたまま、ずるずるとその場にうずくまった。
空と海がぐるぐると回って、どっちが上なのかも分からない。
目の前に、水の入った革袋がぬっと差し出された。見上げると、船長が呆れたような顔で僕を見下ろしている。
「……親父と同じだな。あいつも出航して半刻でそうなって、島に着くまで一度も顔を上げなかった。まあ、血は争えないってやつだ」
「そ、そんなところまで、似なくていいのに……」
その時、視界の端に赤い光が浮かび上がった。
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◆ 経験変換 ◆
「初めての船酔い」を検知
力に変えますか?
① 【平衡感覚】 揺れる足場でも、体の傾きを読んで立っていられる
② 【船上歩行】 揺れる船の上を、陸と同じように歩ける
③ 【胃袋強化】 乗り物酔いや食あたりに強くなる
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船酔いまで、力になるのか。
驚くより先に、ぐるぐる回る頭で必死に考える。
【胃袋強化】は、今の僕には喉から手が出るほど魅力的だ。
でも、これから先ずっと役に立つかと言われると、少し怪しい。
【船上歩行】も、船を降りたら出番がなさそうだ。
【平衡感覚】なら、揺れる甲板の上でも、崖や遺跡の足場でも使えるはずだ。鞭を振る時に体がぶれなくなれば、きっと狙いも正確になる。
「……①で、お願いします」
選んだ瞬間、ぐるぐると回っていた視界がすうっと落ち着いた。
甲板の揺れが消えたわけじゃない。
ただ、次にどちらへ傾くのかが足の裏で読めるようになったのだ。
持ち上がる時は膝を緩め、沈む時は踏みしめる。それだけで、体が船と一緒に揺れてくれる。
僕はゆっくりと立ち上がった。船長が片方の眉をわずかに持ち上げる。
「……ほう。立ち直りだけは、親父より早いらしいな」
父さんは、何年船に乗っても桶を手放せなかったらしい。
僕はたった一日目で、それを力に変えてしまった。
……ちょっとだけ、父さんに勝った気がした。
夕暮れが海をゆっくりと染めていった。
空と海の境目が、溶けたように橙色に混ざり合って、どこまでが空で、どこからが海なのか分からない。
港から毎朝眺めていた、あの水平線。
今、僕はその内側にいるのだ。
そう思うと、怖さと一緒に、胸の奥がむずむずと騒ぎ出した。
舵を握っていた船長が、前を向いたままぽつりと言った。
「着いたら気をつけな、坊主。あの島の連中、ここ最近、どうも様子がおかしいんだ。島の奥の、入っちゃいけねえ場所のあたりで、夜になると妙な光が見えるって噂でな」
「入っちゃいけない場所……」
手帳に書かれていた「入った」の一言が頭に浮かぶ。
「……お前の親父も、十五年前、あそこに入っていったんだよ。戻ってきた時は、何を聞いても笑ってごまかすだけだった」
船長はそれきり何も言わなかった。
僕は首に掛けたお守りを、そっと握りしめた。腰の鞭と小刀の重みが、ほんの少しだけ心強かった。
明日の朝には、島に着く。
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