第4話 母さんとの約束
あの襲撃から、五日が経った。
砕けた樽や倒れた露店はすっかり片付けられて、港にはいつもの朝が戻ってきている。
空には海鳥の声が降るように響いていて、それを聞くたびに、僕は少しだけほっとした。
あの静けさだけは、もう二度と味わいたくない。
縫った肩の傷もだいぶふさがってきて、先生からは軽い荷物なら運んでいいと許しが出た。
だから僕は、今日も朝から桟橋でロープの傷みを確かめている。
ただ、手を動かしていても、頭の中はずっと別のところにあった。
あの夜から僕は毎晩、父さんの手帳を読み返している。
船酔いの愚痴も、不味いスープの話も、もう何度読んだか分からない。
そして最後には決まって、最初の島のページを開いて、そのまま眠れなくなるのだ。
気づけば今も手が止まって、目は水平線の向こう、島のある方角を見つめていた。
「ノア兄、最近ずーっと上の空だよね」
振り向くと、ミナが杖をつきながら桟橋をこちらへ歩いてくるところだった。
足首にはまだ添え木が巻かれているけれど、腫れはだいぶ引いたらしい。
「荷物を運びながら三回も同じ樽を数えてたの、私ちゃんと見てたんだから。一、二、三、あれ、一、二、三って。親方に見つかったら、また雷が落ちてたよ?」
「見てたなら声かけてよ……。あと、その足で港をうろうろしてたら、ミナのお母さんに怒られるんじゃないの」
「平気平気、ちゃんと杖ついてるもん。それより、ごまかさないでよ。……手帳のこと、考えてるんでしょ」
ミナは僕の隣にすとんと腰を下ろして、同じように水平線を見た。
「……ミナって、こういう時だけ本当に鋭いよね。考えてるよ。考えないようにしても、気づいたら島のページを開いてるんだ」
「ふーん」
ミナはそれ以上何も聞かなかった。行くの、とも、行かないで、とも言わない。
ただ、少しだけ寂しそうに笑って、足元の海に小石を一つ投げただけだった。
ぽちゃん、と小さな音がして、波紋がゆっくりと広がっていく。
その横顔を見て、僕はミナにはもう全部お見通しなのだと分かった。
昼の休憩の時、僕は思い切って親方に声をかけた。
親方は積み上げた木箱に腰かけて、大きな握り飯を頬張っているところだった。
日に焼けた赤銅色の腕は、僕の太ももくらいありそうだ。
「親方、ちょっと聞きたいことがあるんですけど。ここから船で一日くらいのところに、小さな島がありますよね。あそこへ行くには、どうすればいいんですか」
握り飯を持つ親方の手が、ぴたりと止まった。
しばらく親方は何も言わなかった。
それから残りの握り飯を一口で放り込んで、ゆっくりと噛みながら遠くの海を見た。
「……あの島か。懐かしいな」
「懐かしい?」
「十五年くらい前、お前の親父をあの島まで送った船に、俺も乗ってたんだよ。まだ俺が、船乗りをやってた頃の話だ」
今度は僕の手が止まる番だった。
「あいつ、出航して半刻もしねえうちに桶を抱えて真っ青になってやがってな。こりゃ島に着く前に死ぬんじゃねえかって、船の連中みんなで笑ってたんだ。そのくせ、島影が見えた途端、この先に何かある、って、子どもみたいな顔で笑いやがった。……あの顔は、今でもよく覚えてるよ」
「親方、父さんのこと知ってたんですか? どうして今まで、一度も話してくれなかったんですか。僕、ずっとここで働いてたのに」
「お前の母ちゃんに、口止めされてたからだよ。あの子が自分から聞いてくるまでは、あの人の話は何も言うなってな。……で、お前は今日、自分から聞いてきた。だから話した。それだけのことだ」
親方はごつごつした指で頭をがしがしと掻いた。
「それにな、この前の鳥の件もある。空の相手じゃ、俺の銛も届かねえ。お前があのデカブツを引きずり下ろさなきゃ、あいつは今ごろ、港を好き放題荒らしてたぞ。あの時のお前の目を見て、ああ、こいつはやっぱりあいつの息子なんだなって、思っちまったんだよ」
胸の奥がじんと熱くなった。
顔も声もよく思い出せない父さんが、急にすぐそばにいるような気がした。
「七日後に、俺の古い知り合いの交易船が、あの島へ向かう。荷物のついでに、坊主一人くらいなら乗せてくれるだろうよ」
「七日後……」
「ただし、だ」
親方は太い人差し指を僕の鼻先に突きつけた。
「乗るかどうかは、母ちゃんとちゃんと話してから決めろ。黙って出ていくような真似をしてみろ、俺がこの手で海に放り込んでやるからな。いいな」
「……はい。分かってます」
その夜、夕食の片付けが終わっても、僕はなかなか言い出せなかった。
母さんは居間の椅子に座って、僕の破れたシャツを繕っている。
針を動かす音と窓の外の波の音だけが、部屋に静かに響いていた。
壁には父さんの外套が掛かっていて、棚の上には、色あせた地図が一枚。
どう切り出せばいいのか、何度も頭の中で言葉を並べ替えては、全部やり直す。
そのうちに、母さんのほうがぱたりと針を止めた。
「……行きたいんだろ」
心臓が跳ね上がった。
「隠したって無駄だよ。ゴルドのやつが、夕方あたしのとこに来て、全部しゃべっていったんだから。あのお喋り、口止めしたのはこっちだってのにさ。ほんと、十二年も黙ってたのが奇跡みたいなもんだよ」
母さんは呆れたように鼻を鳴らした。けれど、僕を見るその目は少しも笑っていなかった。
僕は膝の上で拳を握った。
「ごめん、母さん。僕も父さんが行った島に行ってみたい。でも怖いんだ。今でもあの時、魔物に押さえつけられた時のことを思い出すと、手が震える。夜中に目が覚めることだってある。でも、それでも行きたいって思ってる自分がいるんだ。父さんが何を見たのか、何を探してたのか、この目で確かめたい」
母さんは何も言わずに僕を見ていた。
長い、長い沈黙だった。
やがて母さんは縫いかけのシャツを膝に置いて、低い声で言った。
「あたしはね、あの人を送り出してから十二年、毎朝あの水平線を見てきたんだよ。港に入ってくる船に、あの人が乗ってないか、甲板の顔を一人ずつ探しながらね。雨の日も、嵐の日もだ」
母さんの声は少しも震えていなかった。それがかえって胸に刺さった。
「それを今度は、あんたの分までやれっていうのかい。帰ってくるかどうかも分からない息子を、毎朝毎朝、あの水平線に探せって、あんたはあたしに言ってるんだよ」
逃げたかった。
今すぐ「やっぱりやめる」と言ってしまえば、母さんはきっと、いつもみたいに豪快に笑ってくれる。
それが分かっていたから、余計に言葉が出てこなかった。
でも、僕は母さんの目から視線を逸らさなかった。怖くて膝が震えていても、目だけは逸らさなかった。
「……それでも、行く。母さんにそんな思いをさせるのは、嫌だけど。それでも、行きたいんだ」
言い切った瞬間、自分の声が、自分のものじゃないみたいに聞こえた。
母さんは目を閉じた。そして、胸の底から絞り出すような、大きな、大きな息を吐いた。
次に目を開けた時、母さんは、笑っていた。
「……ほんと、嫌になるくらいあの人そっくりだよ。怖い怖いって顔しながら、結局、言い出したら聞かないんだから」
母さんは指を一本立てた。
「いいかい、条件は三つだ。一つ、町に着くたびに手紙を寄越すこと。字が汚くても構わないから、生きてるってことだけは必ず書きな」
二本目の指が立つ。
「二つ、危ないと思ったら、格好つけずに逃げて帰ってくること。あんたの怖がりは、恥ずかしいもんじゃない。生き延びるための才能だと思いな」
そして、三本目。
「三つ、何があっても、生きて帰ってくること。……約束は約束だ。あたしがあの人との約束を破らなかったみたいに、あんたも、絶対に破るんじゃないよ」
「……うん。約束する。三つとも、絶対に守る」
「よし」
母さんはぱん、と自分の膝を叩いて立ち上がった。
「そうと決まったら、七日しかないんだろ。明日からは準備で忙しくなるよ。着替えに、保存食に、傷薬に……ああもう、あの人の時も、こうやってばたばた用意したんだっけね。さ、今日はもう寝な」
いつもの調子で、母さんは僕の背中を押した。
その夜、僕は自分の部屋で手帳の最初の島のページを開いた。
窓の外では、月明かりの下で水平線が静かに伸びている。
十二年前、父さんもこの港から、あの向こうへ漕ぎ出していったのだ。
怖い。やっぱり、怖い。
でも、もう決めた。
七日後、僕はこの港を出る。
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