第3話 父の手帳
港の医者の家は、薬草と消毒用の強い酒の匂いで満ちていた。
窓から差し込む夕日が棚に並んだ瓶を琥珀色に染めていて、その光の中で僕は歯を食いしばりながら、肩の傷を縫われる痛みに耐えていた。
隣の寝台では、ミナが足首に添え木を当てられている。先生の見立てでは骨に異常はなく、ひどく捻っただけらしい。
それを聞いた瞬間、僕は肩の痛みも忘れて、ほっと長い息を吐いてしまった。
「ノア兄、縫われてる間ずっと変な顔してたよ。魔物の前ではあんなに格好よかったのに、針一本で涙目になるの、ずるくない?」
「魔物と針は別なんだよ! 魔物はいきなり来るから怖がる暇もないけど、針は来るって分かってるぶん、刺さる前から余計に怖いんだって」
「なにそれ、変なの。でも、ちょっとノア兄らしくて安心した」
ミナが添え木を当てられた足をぶらぶらさせながら笑う。
先生に「動かすな」と叱られて首をすくめる姿は、いつものミナそのもので、今朝の出来事が悪い夢だったような気さえしてくる。
そのとき、入口の扉が外れそうなほどの勢いで開いた。
「ノア! ノアはどこだい!」
飛び込んできたのは、母さんだった。
港の食堂で働いている時のエプロンをつけたまま、袖は肘までまくり上げ、片手にはなぜかお玉を握りしめている。どうやら厨房から一直線に走ってきたらしい。
「ここだよ、母さん。……っていうか、なんでお玉なんか持ってるの」
「そんなこと知らないよ! 魔物が出てあんたが下敷きになったって聞いて、気づいたら走ってたんだから! で、生きてるんだね? 足はちゃんとついてるね? 腕も二本あるね?」
母さんは僕の頬を両手で挟み込み、右、左と、ぐいぐい顔を動かして確かめてくる。
先生が「お母さん、縫ったばかりですから」と止めに入ったけれど、まるで耳に入っていない。
「生きてるって。肩をちょっと切られただけで、先生もちゃんと縫えば元通りになるって言ってくれたよ」
「ちょっとってのは、どのくらいだい」
「……五針、くらい」
「それは、ちょっととは言わないんだよ!」
雷みたいな声が医者の家じゅうに響き渡って、隣のミナがびくっと肩をすくめる。
けれど次の瞬間、母さんは縫ったばかりの肩を器用に避けて、僕の頭をぎゅっと胸に抱き寄せた。怒鳴り声とは裏腹に、その腕はほんの少しだけ震えていた。
「……よく、生きてくれてたね」
耳元で聞こえたその声だけは、びっくりするほど小さかった。
「おばさん、ノア兄、すごかったんです! 私が転んで動けなくなったら、自分が囮になるって飛び出していって、ロープで大きな鳥を引きずり下ろしたんですよ。親方も、あんな真似は自分にもできないって、びっくりしてました!」
「ミナ、余計なこと言わなくていいから……」
「余計じゃないもん! ノア兄が格好よかったのは、本当のことでしょ!」
「ほう、この子がねえ」
母さんは腕を組み、僕を頭のてっぺんから爪先まで、じろじろと眺め回した。
「雷が鳴っただけで布団に潜り込んでた子が、魔物相手に囮とはね。……怖がりのくせに、いざって時だけ妙に無茶をするところは、いったい誰に似たんだか」
そう言った母さんの目は、僕ではなく、窓の向こうの水平線を見ていた。
その横顔に、僕は何も言えなかった。
家に帰り着いた頃には、すっかり日が暮れていた。
僕たちの家は、港を見下ろす坂の上に建つ、小さな二階建てだ。
窓からは夜の港が一望できて、襲撃の跡を片付ける人たちの松明が、あちこちで揺れているのが見えた。いつもなら酒場の笑い声が響いてくる時間なのに、今夜の港は波の音しか聞こえないほど静かだった。
居間の壁には、父さんの古い外套が掛けられている。色の抜けた焦げ茶色で、肘のあたりに何度も繕った跡がある。
棚の上には、色あせた地図が一枚だけ飾ってあって、僕は子どもの頃からそれを眺めては知らない土地の名前を指でなぞるのが好きだった。
僕が三歳の頃に父さんがいなくなってから、もう十二年。その間、この二つだけは母さんが一度も動かしたことがない。
覚えているのは、大きな手に抱き上げられて、この窓から海を見せてもらったことくらいだ。顔も声も、もうぼんやりとしか思い出せない。
食卓には、焼き魚と、少し焦げたパンと、野菜のスープが並んでいた。
「さあ、食べな! 本当は港で一番でっかい鯛を買ってくるつもりだったのに、魔物の奴らが市場をめちゃくちゃにしてくれたせいで、こんなちっこいのしか残ってなかったんだよ。十五の祝いにこれじゃ格好がつかないけど、恨むなら鳥どもを恨みな」
「鯛じゃなくても十分だよ。今日は、生きてご飯を食べられてるだけで、僕にとっては一番のお祝いなんだから」
「……あんたって子は、本当にもう。そういう殊勝な台詞は、嫁さんでももらってから言いな」
母さんは豪快に笑って、僕の皿に魚の一番いいところを、どさりと取り分けてくれた。
食事の間、母さんはいつも通り、よく喋ってよく笑った。食堂で酔っぱらった常連が魔物に向かって椅子を投げた話、ミナのお母さんが腰を抜かして市場の籠に座り込んだ話。
けれど、会話がふっと途切れるたびに、母さんの目は壁の外套へと向かう。
ほんの一瞬だけで、すぐに「ほら、スープも飲みな」といつもの調子に戻るのだけれど、その一瞬が今夜は妙に多かった。
食器を片付け終えると、母さんは「ちょっと待ってな」と言って寝室へ入っていった。
しばらく何かを引っ張り出す音がして、戻ってきた母さんは、一冊の手帳を僕の目の前の机にどんと置いた。
焦げ茶色の革の表紙は、角がすっかり擦り切れて丸くなっている。ところどころに白く浮いた潮の染みがあって、長い旅をしてきた物なのだと、触る前から分かった。
「あんたが十五になった誕生日に、これを渡してくれって。あの人が旅に出る前に、あたしに頼んでいったもんだよ」
「父さんが……? これ、父さんの手帳なの?」
「そうさ。あの人が旅の間、ずっと書き溜めてたもんだ。……正直に言うとね、あたしは渡したくなかった。こんなもん読んだら、あんたもいつか、あの人と同じ場所を見たくなっちまうに決まってる。今日のあんたを見てたら、なおさらそう思ったよ」
母さんは腕を組んで、椅子にどっかりと座り直した。
「でもね、約束は約束だ。あたしはあの人との約束を破ったことは一度だってないんだよ。だから、ほら。遠慮なく読みな」
それ以上は何も言わず、母さんは僕が手帳を開くのを黙って待っていた。
最初のページを開くと、少し右上がりの、癖のある文字が並んでいた。
書かれていたのは、驚くほど普通の旅日記だった。
この港を出た日のこと。初めての船旅で盛大に船酔いして、三日間まともに起き上がれなかったこと。途中の港で泊まった宿のスープがとにかく不味くて、それでも腹が減っていたから三杯おかわりしたこと。
「父さん、船酔いするんだ……」
思わず声が出て、母さんがぶはっと豪快に吹き出した。
「そうさ。あの人、船に乗るたびに真っ青な顔で桶を抱えてたんだから。それなのに懲りずに何度も乗るんだよ。まったく、馬鹿なんだか根性があるんだか」
冒険者で、調査者で、世界中を旅した人。僕の中の父さんは、ずっとそういう遠い存在だった。
でも、ページをめくるたびに、不味いスープに文句を言いながらおかわりをする、ちょっと間の抜けた一人の人間が浮かび上がってくる。
僕は自分でも気づかないうちに、夢中で読み進めていた。
最初にきちんとした記録が書かれていたのは、この港から船で一日ほどの小さな島だった。
島の人たちの暮らし、珍しい果物の味、そして、島の奥にある「入ってはいけない場所」の噂。
その場所の記録には、なぜか短く「入った」とだけ書かれていて、中で何を見たのかは、どこにも書かれていなかった。
そして、その島を境に手帳の中身は少しずつ変わっていく。
遺跡の見取り図。石碑に刻まれた文字の写し。聞き取った古い伝承。
土地も言葉も違う場所の記録なのに、ページのあちこちに、同じ模様のスケッチが何度も描かれていた。円の中に、線が絡み合うように複雑に交差した、見慣れない紋様だ。
後半になるほど、文字は細かく、急いで書き殴ったように乱れていった。何かを追いかけていたのだと、読んでいるだけで伝わってくる。
そして、最後のページ。
そこには、たった一行だけが書かれていた。
――これから、そこへ向かう。
それだけだった。行き先も、地図も、何もない。
どこへ向かったのかも分からないまま、父さんの記録はそこで途切れていた。
「……そこって、どこなんだよ」
呟いて、何気なくページを裏返した僕は、そのまま息を止めた。
裏側には、それまでとは違う、ゆっくりと丁寧に書かれた文字が並んでいたのだ。
――ノアへ。
――これを読んでいるということは、私は調査に失敗したのだろう。
――もし私が戻らなかったら、お前がその続きを調べてほしい。この手帳に記した場所を辿れば、きっと何かが見つかる。
――世界の果てで、いったい何が待っているのか。私にも、まだ分からない。
世界の果て。
船乗りたちが酒場で語る、おとぎ話の中の言葉だ。そんなもの本当にあるはずがないと、誰もが笑い飛ばしている場所。
父さんは、そんなものを本気で探していたのか。
手帳を持つ指が小さく震えていた。怖いからなのか、それとも別の何かなのか、自分でもよく分からない。
ふと、さっき見た紋様のスケッチが頭に浮かんで、僕はページを戻した。
円の中に、線が複雑に交差した模様。見れば見るほど、どこかで見覚えがある気がしてならなかった。
どこで見たのか思い出した瞬間、背筋がすっと冷たくなった。
僕は左の袖をまくり上げる。上腕の外側、ちょうどコインくらいの大きさの、古い傷。
物心ついた頃にはもうあって、小さい頃にどこかでぶつけてできたのだろうと、ずっと気にも留めていなかったものだ。
その傷の形が、手帳のスケッチとまったく同じだった。
「母さん、この手帳に何度も出てくる模様、僕の腕の傷とそっくりなんだ。これ、どこかでぶつけてできた傷じゃなかったの?」
母さんはしばらく黙って、僕の腕の傷を見つめていた。
それから、ふう、と一つ大きく息を吐いて、真っ直ぐに僕の目を見た。
「……気づいちまったかい。そうだよ。それは、ぶつけてできた傷なんかじゃない。あの人が旅に出る前に、あんたを守るためだって言って、そこに付けていったもんだ」
「守るためって……いったい何から守るっていうの? 父さんは、何を知ってたの?」
「さあね。それが分かりゃ、あたしだって苦労しないよ。何から守るんだって何度も問い詰めたけど、あの人はへらへら笑って、いつかきっとノアの役に立つから、としか言わなかった。まったく、肝心なことほど言わない人なんだから」
母さんは呆れたように壁の外套を見上げた。
怒っているような口ぶりなのに、その目だけは、どこか遠くを見るように優しかった。
「さ、今日はもう寝な。怪我人が夜更かしなんて、あたしが許さないよ」
縫っていない方の肩を、ばしんと叩かれる。
僕は手帳を抱えたまま、半ば追い立てられるようにして、自分の部屋へ向かった。
その夜、自分の部屋に戻ってからも、僕はなかなか眠れなかった。
窓を開けると、冷たい夜風が潮の匂いを運んできた。月明かりの下で、水平線が銀色の線になって、どこまでも静かに伸びている。
父さんは、あの向こうのどこかにいる。生きているのか、どうしているのかも分からないまま、あの向こうで何かを探し続けているのかもしれない。
僕は手帳の最初の島のページを開いた。
そのときだった。
左腕の傷が一瞬だけ、淡く光った気がした。
慌てて袖をまくったけれど、そこにあるのはいつもと変わらない古い傷だけだった。
月の光が反射しただけだろうか。それとも、昼間に見たあの赤い光と、何か関係があるのだろうか。
分からない。何もかも、分からないことばかりだ。
怖い。本当に、怖い。
でも――知りたい。
僕は手帳を閉じることができないまま、夜が明けるまでずっと水平線を見つめていた。
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