第2話 怖いのに、足が動いた
頭上を灰色の影が滑るように横切った。
低く降りてきた一羽の嘴がミナの頭のすぐ上をかすめ、茶色のポニーテールの先が数本ぷつりと切れて、朝焼けの光の中できらきらと舞い落ちる。
「ひっ……!」
「ミナ、立てそう!? 少しでいいから、僕の肩に掴まって!」
「む、無理だよ……足首に力を入れようとすると、ずきんって頭まで響いて、全然言うこと聞いてくれないの」
いつもの強がりも出てこないのか、ミナの声は裏返っていた。
見れば足首はすでに赤黒く腫れ上がっていて、触れただけで泣き出してしまいそうなほど痛々しい。
逃げなきゃ、とにかく逃げなきゃ。
頭ではずっとそう叫んでいるのに、僕の膝は石でも詰め込まれたみたいに固まって、少しも言うことを聞いてくれなかった。
そんな僕の袖を、ミナの指がぎゅっと掴む。
「ノア兄、怖いよね。私、さっきから足ががくがくして、全然止まってくれないの」
「怖いに決まってるだろ。正直、今すぐ走って逃げたいくらいだよ。膝なんか、ミナより震えてるかもしれない」
「あはは……だよね。私も、すっごく怖い」
震える声で、それでもミナは無理やり口の端を持ち上げてみせた。
「でもね、ノア兄がここにいると、ちょっとだけ大丈夫な気がするんだ。ノア兄って、怖がりなのに、いつも最後は逃げないもん。小さい頃、私が崖の下に落ちたときだって、泣きながら降りてきてくれたでしょ」
そんなこと、あっただろうか。
思い出すより先に、その言葉が胸の奥にすとんと落ちてきた。僕のことをずっとそんなふうに見ていたなんて、まるで知らなかった。
逃げたい。今すぐこの場から逃げ出したい気持ちは、少しも消えていない。
それなのに、この子の目の前でだけは逃げたくないと思ってしまった自分がいる。
「……大丈夫だなんて、とても言えないけどさ。ミナを置いて逃げたりはしない。それだけは、絶対に約束する」
「うん。ノア兄がそう言うなら、私、信じて待ってる」
へにゃりと笑ったミナの顔を見て、僕は観念した。
この状況で笑うなんて、反則もいいところだ。これで逃げ出したら、僕は一生、自分を許せなくなる。
歯を食いしばって彼女を抱え上げると、思っていたよりずっと軽くて、それがかえって胸に刺さった。
船具置き場の脇に積まれた樽の陰へ運び、傷めた足に触れないよう、そっと座らせる。
「ここでじっとしてて。僕が鳥を引きつけて、ここからできるだけ遠ざけるから」
「そんなの無茶だよ! ノア兄、魔物と戦ったことなんて一回もないじゃない!」
「分かってるよ、そんなの僕が一番分かってる。でも、二人でここに隠れてても、いつかは見つかる。だったら、動ける僕が動くしかないんだ」
ミナは何か言い返そうとして、ぎゅっと唇を結んだ。
それから、樽の横の壁に掛かっている太いロープの束に目をやって、小さな声で言う。
「……じゃあ、そのロープ持っていって。ノア兄のロープって、いつもちゃんと言うこと聞いてくれるでしょ。親方だって、それだけは褒めてたもん」
ほんの少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
僕はロープの束を肩に掛け、一度だけ深く息を吸ってから、樽の陰から飛び出した。
改めて見渡した港は、ついさっきまでの朝と同じ場所とは思えない有様だった。
灰色の羽根が雪のように舞い散り、引き裂かれた露店の天幕がばたばたと風に暴れている。
逃げ惑う人々の悲鳴と魔物の甲高い鳴き声が混ざり合って、耳の奥がわんわんと鳴り続ける。焦げた魚と潮の匂いの中には、鉄錆に似た嫌な匂いまで混じっていた。
僕は樽の陰から少しでも離れるように走りながら、腹の底から声を張り上げる。
「こっちだ! 僕のほうが美味そうだろ! 骨ばっかりで大した肉もついてないけど、とにかくこっちに来いって!」
我ながらひどい誘い文句だと思う。
それでも、近くを旋回していた三羽が一斉にこちらへ首を向けた。
一羽目が真上から急降下してくる。
僕はとっさに積まれた樽の横へ飛び込み、次の瞬間、さっきまで立っていた場所の樽が、嘴の一撃で木っ端みじんに砕け散った。
二羽目は低く滑るように突っ込んできて、僕は石畳を無様に転がってどうにかかわす。
囮になると言い出したのは自分なのに。足はさっきから逃げ道ばかりを探していた。
肩のロープのことなんて、頭から完全に抜け落ちている。
三羽目の爪が右肩を深々と裂いていったのは、そのときだった。
「ぐっ……!」
一拍遅れて、焼けた鉄を押し当てられたような痛みが来た。
破れた服の下から、赤い筋がじわじわと腕へ伝っていく。痛い。痛くて、息もうまくできない。
膝から力が抜けて、僕は石畳に片膝をついた。
ふと、誰かに見られているような気がして、顔を上げる。
港に面した倉庫の屋根の上に一羽だけ、他の鳥たちが暴れ回る中でじっと動かずにこちらを見下ろしている魔物がいた。
他のどれよりもひと回り大きく、翼の付け根の黒がひときわ濃い。獲物を品定めするようなその目が、まっすぐに僕だけを捉えている。
あいつが群れのリーダーだ。理由もなくそう分かった。
目が合った次の瞬間、そいつは屋根を蹴って一直線に降ってきた。
避けなきゃ、と思ったときにはもう、僕の背中は石畳に叩きつけられていた。肺の空気が一気に押し出され、視界が真っ白に弾ける。
両肩に鉤爪が食い込み、身動き一つ取れなくなった僕の目の前で、巨大な嘴がゆっくりと開いていく。
生臭い息のむこうに、どこまでも真っ暗な喉の奥が見えた。
ミナに、置いていかないって約束したばかりなのに。
約束した僕のほうが、先に死ぬのか。こんなところで、何もできないまま。
死ぬ。本当に、死ぬんだ。
頭の中がたったそれだけの言葉で塗りつぶされていく。
――そのとき、世界から音が消えた。
視界の端にふわりと光の板が浮かび上がる。
レベルアップの表示だ。何度も見てきたから、見間違えるはずがない。
ただ、いつもは柔らかな緑色をしているはずのそれが、今は血のような赤色に染まっていた。
それに僕はまだ何も倒していない。レベルなんて上がるはずがないのに。
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◆ 経験変換 ◆
「初めての死の恐怖」を検知
力に変えますか?
① 【危機察知】 迫る危険を、一瞬早く感じ取れる
② 【踏ん張り】 恐怖や衝撃の中でも、足を止めずに踏みとどまれる
③ 【受け身】 倒れた時の衝撃を和らげられる
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何だ、これ。頭がまったく追いつかない。
ただ、時間が止まったみたいに、目の前の嘴がぴたりと動きを止めていることだけは分かった。
①なら、きっと次は逃げられる。③なら、この痛みを少しは誤魔化せるかもしれない。
どっちを選んでも、僕が助かる道だ。
でも、それで僕だけが助かって、樽の陰で待っているミナはどうなる。置いていかないって、ついさっき自分の口で約束したばかりじゃないか。
「……②だ。逃げるための力なんかじゃなくて、ここに立っていられる力が欲しい」
選んだ瞬間、体の奥で何かがかちりと噛み合った。
膝はまだがたがたと震えている。それなのに、足の裏が見えない根を張るように地面を掴む。
押さえつけられて倒れているはずなのに、不思議ともう倒れない気がした。
初めて味わった死の恐怖が、そのまま力に変わったのだ。
理屈は分からないけれど、体がそう教えてくれている。
音が戻ってくる。
ドガッ、と嘴が僕の顔のすぐ横の石畳を砕き、飛び散った破片が頬を切った。
「うおおおっ!」
爪の下で無理やり体を捻り、肩の傷が悲鳴を上げるのも構わず、押さえ込む足を蹴り上げる。
転がった勢いのまま、僕は立ち上がった。立てた、と自分でも驚く。
怖くて怖くて仕方ないのに、足が、ちゃんと動いてくれる。
恐怖が少し引いたせいか、さっきまで真っ白だった頭が、嘘みたいに回り始めていた。
リーダー格の空飛ぶ魔物が翼を大きく広げ、再び空へ舞い上がろうと地を蹴る。
その瞬間、肩にずしりとかかっている重みに、僕はようやく気がついた。
ロープだ。ずっとここにあったのに。
「ミナが言ってたよな。僕のロープは、ちゃんと言うことを聞いてくれるって……頼むから、今だけは本当に聞いてくれよ!」
素早く輪を作って構えると、不思議なことに、どこへ投げればいいのかがはっきりと見えた。
まるで答えが最初から分かっているみたいに、手が正しい場所を知っている。
放ったロープが空を走り、輪がリーダー格の魔物の右足に吸い込まれるように絡みついた。
すかさず反対側を近くの係船柱に二重に巻きつけ、全身で体重を預ける。
魔物が翼で空を打つたびに、ロープがぎしぎしと悲鳴を上げ、掌の皮が焼けるように熱くなった。
腕は引きちぎられそうで、肩の傷からはまた血が滲んでくる。
それでも、僕の足だけは一歩も引かなかった。
「落ちろ……! お前なんかに、ミナのところへは行かせない! 落ちろぉぉぉっ!」
ぐん、とひときわ大きな力がかかった直後、リーダー格の魔物の体が宙で大きく傾き、そのまま石畳に叩きつけられた。
「ノア! そのまま絶対に離すんじゃねえぞ! 野郎ども、今のうちに突き刺せえっ!」
野太い声に振り向くと、銛を構えた親方と漁師たちが、地響きを立てて駆けてくるところだった。
三本の銛が、リーダー格の魔物の首と胸を立て続けに貫いた。
甲高い断末魔の悲鳴が港じゅうに響き渡り、暴れる翼が石畳を叩く音がしばらく続いて、やがてそれもぴくりとも動かなくなる。
リーダーを失った群れは、まるで糸が切れたように向きを変え、灰色の翼を連ねて沖へ沖へと遠ざかっていった。
やがて波の音だけがゆっくりと戻ってきた。
ぺたりとその場に座り込んで、僕はようやく息をつく。掌はずきずきと痛み、肩の傷も熱を持って脈打っていた。
倒したという実感なんて、これっぽっちもない。ただ、生きている。それだけだった。
すると視界の端に、再び光が灯った。今度はいつもの見慣れた緑色の光だ。
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レベルが上がりました
Lv3 → Lv4
新スキル:【即席使い】
効果:その場にある物を、武器や道具として使える
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さっきの赤い光とはまるで違う。いつもの当たり前の表示だ。
そう思った直後、もう一つ光が浮かんだ。今度はまた赤色だった。
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◆ 経験変換 ◆
【踏ん張り】が育ちました
Lv1 → Lv2
追加効果:衝撃を受けても、体勢を崩しにくくなる
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育つ、のか。選んだ力は、使えば使うほど育っていくのか。
「ノア兄ーっ!」
樽の陰からミナが地面を這うようにして出てきた。
泣きじゃくりながら、僕の腕にしがみつく。
「ノア兄、生きてる!? ほんとに生きてるよね!? ノア兄がいなくなったら、私が転んだとき、誰がセーフって判定してくれるの!」
「泣きながら心配するの、そこなの!? 肩のほうを、もうちょっと心配してほしいんだけど! 今けっこう痛いから、あんまり揺らさないで!」
呆れて叫んだはずなのに、なぜか笑いが込み上げてきた。
ミナも泣き顔のまま、ぷっと吹き出す。僕たちはしばらく、意味もなく肩を震わせて笑い合っていた。
そこへ、どすどすと重い足音が近づいてくる。
見上げると、銛を肩に担いだ親方が、口をぽかんと開けて僕を見下ろしていた。
「……ノア。今のは本当に、お前がやったのか」
「え、あ、はい。たぶん、僕がやった……んだと思います。正直、自分でもよく分かってなくて」
「たぶんじゃねえよ。あのデカブツの足に輪っかを一発で掛けて、しかも係船柱に二重巻きだ。慌ててる時にゃ、俺だってあんな真似はできねえぞ」
「そ、そんなにですか……? いつもの結び方を、そのままやっただけなんですけど」
「そのいつものが、あの状況でできる奴はそういねえって話だ。おまけにお前、あの化け物の下敷きから這い出してきやがっただろ。……いつの間に、そんな度胸をつけやがったんだ」
僕にも分からなかった。
ただ、あれだけ震えていた足がいつの間にか動いていたことだけは確かだった。
親方はぐしゃぐしゃと、乱暴に僕の頭を撫でた。
この人の手はいつも大きくて、火傷しそうなくらい熱い。
「十五の誕生日に、とんでもねえもん貰いやがって。……まあ、今日のところは大目に見てやる。その肩はちゃんと医者に診せろ。仕事は明日からだ、いいな」
「は、はい! ありがとうございます!」
「ったく、返事だけは昔から元気なんだよなぁ、お前は」
呆れたように笑って、親方は仲間たちの方へ戻っていく。
その大きな背中を見送りながら、僕は震える指でステータスを開いてみた。
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名前:ノア
レベル:4
固有能力:【天与の手】 道具を扱う才能に恵まれる
固有スキル:
【道具理解】 初めて触る道具でも、使い方が分かる
【精密操作】 投げる・結ぶ・当てるが正確になる
【即席使い】 その場にある物を、武器や道具として使える
変換スキル:
【踏ん張り Lv2】 恐怖や衝撃の中でも、足を止めずに踏みとどまれる
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いつもの表示だ。増えた【即席使い】以外は、何も変わっていない。
……そう思ったのに、一番下に「変換スキル」という見たことのない欄が増えていた。
こんな欄は、昨日までどこにも無かった。
何も変わらないはずだった十五歳の朝は、どうやらとんでもなく変わってしまったらしい。
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