第1話 怖がりの誕生日
僕は怖がりだ。
港の水平線すら、少し怖い。
あの向こうに何があるのか、知らないからだ。
父はあの水平線のどこかへ旅立ったきり、戻って来なかった。
それでも毎朝つい見てしまう。怖いのに目が離せない。それが僕、ノアだった。
「おいノア! 手が止まってるぞ! 水平線は逃げやしねえよ!」
背後から親方の雷が落ちてきて、僕は木箱ごと三センチほど飛び上がった。この港の大人はみんな声が大きい。おかげで僕の心臓は弱っていく一方だ。
「は、はい! すみません!」
慌てて担ぎ直した木箱は、肩に食い込むほど重い。朝から船の荷降ろしをして、ロープの傷みを確かめ、錆びかけた銛を研ぐ。それが港で働く僕の毎日だった。
高い所も、暗い倉庫も、親方の大声も苦手だけど、ロープの扱いだけは大人たちに褒められる。裏を返せば、それ以外はあまり自信がないということでもあるのだけど。
今日、僕は十五歳になる。だからといって、何かが変わる気配はこれっぽっちもなかった。
試しにステータスを開いてみても、表示は昨日と同じレベル3のままだ。荷運びと縄いじりでは、この数字はなかなか動いてくれない。
「ノアにーーーっ!」
桟橋の向こうから、元気すぎる声が全力で突っ込んできた。
幼馴染のミナだ。茶色の長いポニーテールを尻尾みたいに跳ねさせ、小さな包みを抱えて駆けてくる。ただ、走り出す前からすでに体が三割ほど前に傾いているあたり、嫌な予感しかしない。
「ミナ、前! 前見て!」
「え、前? ――わっ!?」
案の定、何もない地面につまずいた。僕は木箱を放り出して腕を伸ばし、なんとか彼女を受け止める。包みは無事。ミナも、たぶん無事。
「セーフ!」
「セーフじゃないよ。今日でもう三回目だろ」
「数えてるノア兄が悪い!」
「なんでよ!?」
ミナは悪びれもせず、えへへと笑う。日に焼けた頬には擦り傷ひとつない。この港でいちばん元気なのは間違いないけれど、いちばん目が離せないのも、間違いなくこの子だ。
「はい、これ! 誕生日おめでとう! 母さんと二人で焼いたんだよ。ちょっと形は崩れたけど、味は保証する!」
「あ、ありがとう……」
差し出された包みの中身は、ところどころ焦げた焼き菓子だった。ミナの保証ほど当てにならないものもない、と思いつつ一口かじると、舌が痺れるほど甘かった。
「……おいしい」
「でしょ! お砂糖、いつもの倍入れたの!」
「倍……」
道理で、と思ったけれど、そこは口に出さないのが優しさだと思う。
「ねえねえ、ノア兄、十五歳だよ十五歳! もう大人じゃん! 何か変わった? 背とか伸びた?」
「朝から何も変わってないよ。ミナが転ぶ回数以外は」
「それは変わらなくていいの!」
胸を張って言い切るミナに、思わず吹き出してしまう。すると彼女は、ふっと桟橋の先、朝日に光る水平線を指さした。
「ねえ、ノア兄はさ。いつか船に乗るの?」
「んー、怖いから無理……かな」
即答だった。ミナがふふっと笑う。
「即答だ。でもさ、毎朝あっち見てるよね」
言い返せなかった。図星だったからだ。
「……見てるだけだよ」
「ふーん?」
にやりと笑うだけで、ミナはそれ以上つっこまない。こういう時だけ妙に鋭いのが、この子のずるいところだ。
そう答えたのに、僕の目はまた水平線に吸い寄せられていた。空と海の境目は、今日もまっすぐで、遠くて、少しだけ怖い。父さんもこんなふうにあそこを眺めていたのだろうか。
そのとき、ふと違和感に気づいた。
静かなのだ。いつもなら降るように聞こえる海鳥の声が、いつの間にかひとつ残らず消えている。風まで止んで、船の帆がだらりと垂れ下がっていた。
空を見上げると、一羽だけ妙に低く飛ぶ鳥がいた。灰色の羽で、翼の付け根だけが墨を垂らしたように黒い。あんな鳥、見たことがない。
「……なんだあれ? 珍しい鳥が迷い込んできたのかな」
胸の奥で、何か嫌なざわめきがした。でも、怖がりの勘なんて今まで一度も当たった試しがない。だから今回もきっと外れると、そう思っていた。
「ねえ、ノア兄。なんか今日、静かすぎない?」
僕の袖を、ミナがきゅっとつまんだ。さっきまでの元気が嘘みたいな、小さな声だった。親方も手を止め、険しい顔で空を睨んでいる。
「鳥が鳴いてねえな。一羽もだ」
その呟きの直後、見張り台の鐘が狂ったように打ち鳴らされた。
カン、カン、カン、カン!
「魔物だ! 空から来るぞ!」
水平線の向こうから、黒い雲がせり上がってくる。いや、雲じゃない。うねりながら降りてくるそれは、数十羽の鳥の群れだった。
しかも、ただの鳥じゃない。僕の背丈に迫るほどの翼、刃物のように尖った嘴、獲物を掴むための鉤爪。
魔物だ。本物を見るのは、生まれて初めてだった。
朝焼けの空が、羽ばたきの影でみるみる暗くなっていく。
港中に悲鳴が響いた。露店が倒れ、樽が転がり、石畳に散らばった魚は誰かに踏まれてぬるりと滑る。
頭の中が真っ白になって、足が勝手に震え出した。
逃げたい。とにかく、逃げたい。ここにいたら、死ぬ。
「ミナ、走れ!」
「え、え、魔物ってどういうこと!? なんで!?」
「いいから走れ! 船具置き場だ!」
彼女の手を掴んで駆け出す。目指すのは、石造りで扉の分厚い船具置き場だ。あそこならきっと大丈夫。そう信じて、二人で必死に足を動かした。
背後で、木箱の砕ける音がした。誰かの叫び声と、羽ばたきの風が背中を叩く。それでも振り向く勇気はなかった。ただ握った手の温かさだけを頼りに走る。
あと少し。もう少しで、扉に届く。
そのとき、掴んでいた手がするりと抜けた。
「きゃっ!」
足元に散らばっていた網に、ミナのつま先が引っかかったのだ。振り返った僕の目の前で、彼女は石畳に倒れ込み、ゴリッと嫌な音がした。
「い、たた……! ノア兄、足、足が……!」
足首を押さえるミナの顔から、みるみる血の気が引いていく。体を起こそうとしても、痛みで足に力が入らないらしい。
「ご、ごめん……こんな時に、また転んじゃった……」
笑おうとして、失敗した顔だった。いつもならここで「セーフ!」と叫ぶのに。
逃げなきゃ。でも、動けない子を置いて? いや、置いていけるわけがない。だけど、僕に何ができる?
ガクガクッと、膝が笑っている。怖い。怖くて、たまらない。
それなのに、掌にはまだ、彼女の手の温もりが残っていた。
ミナの足元に、影が落ちた。
顔を上げると、空が黒く染まっていた。
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