第41話 職人の街ロスタ
翌朝、出発の支度を終えた頃、ロベルトがガルドを宿の裏手に呼んだ。
僕も一緒に来てほしいと言われた。昨夜のことを見つけたのは、僕だからだ。
「お話があります。他の方には、聞かせたくないのです」
ロベルトがそう切り出した。ガルドは腕を組んだまま、黙って聞いていた。荷箱の結び目のこと。夜の中庭のこと。御者のオットーのこと。そして、黒い手袋の男のこと。
話が終わると、ガルドは長く息を吐いた。
「……御者が、か」
「はい。ですが、事情は聞きました。借金は私が肩代わりして、オットーさんには、これまで通り手綱を握ってもらいます」
「甘いな、旦那は」
「よく言われます」
ロベルトが少しだけ笑う。ガルドはふん、と鼻を鳴らしたけれど、否定はしなかった。
「分かった。他の連中には黙っておく。疑い合いながら歩く道ほど、危ないものはない」
それからガルドは僕の方を向いた。
「ノア。夜中によく気づいた」
「え……」
「荷箱の結び目なんぞ、俺は見ても分からん。お前の目は本物だ」
初めてまっすぐにほめられた気がした。僕が言葉に詰まっていると、ガルドは背を向けて、先頭の馬車の方へ歩き出した。
「黒い手袋の男、だったな。俺も覚えておく。……行くぞ」
その背中を見ながら、僕は胸の奥の小さな引っかかりを、そっと押し込めた。
峠を下る道は、昨日までの険しさが嘘のようになだらかだった。
オットーはいつも通り、先頭の馬車の手綱を握っていた。ときどきこちらを振り返っては、深く頭を下げる。僕は手を軽く上げて応えた。それだけで十分だった。
日が傾く頃、谷の底に煙の立ちのぼる街が見えてきた。
「あれが、ロスタです」
ロベルトが言った。
「職人の街です。鍛冶屋も、革細工も、織物も、染物も。王都に出回る品の多くは、ここで作られているんですよ」
街に近づくと、かん、かん、と鉄を打つ音が風に乗って届いた。川沿いには大きな水車がいくつも回っている。通りの両側には工房の看板が、隙間なく並んでいた。
「すごい……! 街じゅう音がしてる!」
リーナが目を輝かせる。
「ノア、あの店、いい匂いがする! 革かな?」
「食べ物じゃないよ、リーナ」
「分かってるもん!」
その夜はロスタの宿に泊まった。ロベルトの話では、荷馬車の補修と、馬の蹄鉄の打ち直しで、翌日は丸一日、足止めになるらしい。出発はその次の朝だ。
「その間は自由にしていただいて結構です。ただ、夕方には宿に戻ってください」
一日だけの自由時間だった。
僕は胸元に手を当てた。父さんの手帳がそこにある。
――父さんがこの街に来たことがあるなら。
何か残っているかもしれない。
翌朝、リーナと一緒に工房の通りを歩いた。
革細工の店では職人が小さな刃物で、革に細かい模様を彫っていた。織物の店では大きな機の前で、女の人たちが色とりどりの糸を渡している。どこを見ても僕の知らない道具ばかりだった。
「この道具、使い方が分かる……」
【道具理解】が、棚に並んだ工具の一つ一つを教えてくれる。この小さな錐は、革に穴を開けるもの。この木槌は、鋲を打つもの。面白くてつい足が止まった。
「ノア、置いてくよー!」
「待って、リーナ」
染物の工房は通りの一番奥にあった。
中に入ると、まず天井の高さに驚いた。高い梁から染め上がった長い布が、何本も垂れ下がっている。赤、青、黄色、深い緑。風が吹くたびに布がゆらゆらと波打って、まるで色の滝みたいだった。
「きれい……!」
「おや、見学かい。ゆっくりしていきな」
染物職人のおばさんが布を干しながら、にこにこと笑った。
その時だった。
ばさり、と大きな音がした。見上げると、梁の上から干していた一本の布がずるりと滑り落ちて、宙にぶら下がっている。端が梁の真ん中あたりの釘に引っかかって、止まっているらしい。
「ああ、まずいね。あの布、今日中に納めなきゃいけないのに」
おばさんが困った顔で見上げた。
梁は床から、僕の背の三倍はある高さにあった。幅は手のひらよりも少し広いくらい。梯子は梁の端にしか届かない。
「普段は、うちの息子が登るんだけどね。今日は、遣いに出てて」
「あの……僕が、行ってもいいですか」
「え? あんたが? 危ないよ」
「高いところは、船の帆柱で慣れてますから。それに、縄の扱いも得意です」
おばさんは少し迷ってから、うなずいた。
「無理は、しないでおくれよ」
「ノア、気をつけて……。私、下で見てるね」
リーナがぎゅっと袖をつかんだ。さっきまでの元気はなくて、顔が少し青い。
「リーナ、高いところ、苦手なんだっけ」
「落ちるのが、嫌なだけ!」
「うん。落ちないよ」
僕は梯子を登って、梁の端に足を乗せた。
細い。足の裏に木の硬さが直接伝わってくる。下を見ると床がずいぶん遠かった。
でも、怖くはなかった。【踏ん張り】が足を固めてくれて、【平衡感覚】が体の傾きを読み続けている。どこに体重をかければいいのか、足の裏が自然と教えてくれる。
一歩。また一歩。
梁の真ん中あたりで布が釘に引っかかっていた。体を低くして、片手で梁をつかみ、もう片方の手で布の端をほどく。
「あと、少し……」
その時、足元の木がみしり、と鳴った。
梁の一部が湿って柔らかくなっていたらしい。体がぐらりと傾く。
ひやり、と背中が冷えた。
でも、次の瞬間には体が勝手に動いていた。重心を低く落として、足の位置を半歩ずらす。傾いた体がすっと元に戻った。
「……っ」
そのまま、布をほどいて、下へ落とす。ひらりと舞った布を、おばさんがうまく受け止めた。
「ありがとうよ、坊や! すごいねえ、あんた!」
「ノア、すごい! 落ちなかった!」
リーナがほっとして、へなへなと座り込んだ。
僕が梯子で降りようとした時だった。
世界がふっと止まった。
下で拍手をしていたおばさんの手が、空中でぴたりと止まる。揺れていた布も動かなくなった。
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◆ スキル成長 ◆
【平衡感覚】 Lv2 → Lv3 MAX
効果:どんなに細い足場でも、揺れる場所でも、体の傾きを自在に保てる
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淡い緑の光が視界に広がった。
成長した。そう分かった瞬間、足の裏がさっきよりもずっと深く、梁の木目を感じ取っていた。
音が戻ってくる。止まっていた世界が、ふたたび動き出した。
「ノア? どうしたの、ぼーっとして」
「ううん。なんでもない」
僕は梯子を降りた。足はもう一度も揺れなかった。
おばさんはお礼にと、小さな布の切れ端を二枚くれた。染めの試し布らしい。リーナは深い青を選んで、うれしそうに首に巻いた。
染物工房を出ると、昼が近かった。
通りの突き当たりから一番高い鉄の音が聞こえる。
「ノア、あそこの鍛冶屋さん、おっきいね」
「うん。剣の手入れも頼みたいから、寄ってみようか」
その鍛冶屋は石造りの大きな建物だった。入り口の上に鉄でできた金槌の看板が掛かっている。
中では白髪の老人が、真っ赤に焼けた鉄を打っていた。腕は丸太のように太くて、背中は岩みたいに広い。
かん、かん、かん。
その音がぴたりと止まる。老人がこちらを振り返った。
「客か」
「はい。剣の手入れを、お願いしたくて」
僕が腰の剣を抜いて差し出すと、老人は無言で受け取った。刃を光にかざして目を細める。
「……ほう」
「どう、でしょうか」
「手入れは、悪くない。砥ぎの角度が、きっちりしとる。誰に習った」
「一緒に護衛をしている方に。それと、自分でも、毎晩」
「そうか。道具は、大事に使う者のところに、集まるもんだ」
老人は少しだけ口元をゆるめた。それから剣の刃こぼれを指でなぞる。
「ここと、ここ。細かい欠けがある。今日の夕方までには、仕上げてやろう。わしは、ドルゴだ」
「ノアです。こっちは、リーナ」
「よろしくね、ドルゴさん!」
ドルゴ爺さんはふん、と笑って、剣を作業台に置いた。
僕は少し迷ってから、胸元から手帳を取り出した。
「あの、ドルゴさん。もう一つ、聞きたいことがあって」
「なんだ」
「この模様に、見覚えはありませんか」
手帳のページを開いて、あの紋様のスケッチを見せる。
円の中に、線が絡み合うように交差した、見慣れない形。
ドルゴ爺さんは手帳をのぞき込んだ。その目がすっと見開かれる。
「……これは」
作業台に手帳を置いたまま、爺さんはしばらく動かなかった。
「……エドの印だ」
心臓がどくん、と跳ねた。
「父を、知っているんですか」
「父? ……お前さん、エドの息子か」
ドルゴ爺さんは僕の顔をまじまじと見つめた。それからふっと目を細める。
「……ああ、言われてみれば、困ったような眉が、そっくりだ。道具を前にすると、あの男も、そんな顔で黙り込んでおった」
「父は、ここに来たんですか」
「ああ。もう、十年以上前になるな。ふらりと、この店に現れた」
ドルゴ爺さんは腕を組んで、遠くを見るような目をした。
「手帳に描いてあった、この模様を、薄い金属の板に彫り込んでくれ、と頼まれた。わしは、そんな細かい仕事はやったことがなかったがな。あの男の目は、冗談を言うものじゃなかった」
「それで……彫ったんですか」
「ああ。三日かけて、な。出来上がった板を、エドは、大事そうに懐にしまっておった」
「何のために、ですか」
「それは、言わんかった。わしも、聞かなんだ。ただ……」
爺さんは言葉を切って、口をつぐんだ。
「……いや。その先は、思い出せん。昔の話だ」
僕は手帳を握りしめた。
父さんは本当に、この街を通っていた。この鍛冶屋で、この模様を金属の板に彫らせていた。
それは遺跡の扉に刻まれていたものと、同じ模様だ。
「ありがとうございます。それだけで、十分です」
「そうか」
ドルゴ爺さんは手帳を僕に返した。その手は大きくて、あたたかかった。
「夕方に、剣を取りに来い。……エドの息子なら、これくらいは、おまけだ」
鍛冶屋を出ると、通りには傾き始めた日が差していた。
リーナがそっと僕の顔をのぞき込む。
「ノア、よかったね。お父さんの手がかり、見つかった」
「うん。……少しだけ、だけどね」
「少しでも、前に進んでるよ」
リーナは首に巻いた青い布を、くいっと直して笑った。
僕はうなずいた。
父さんはこの道を歩いていた。きっとこの先にも、続いている。
遠くで、また、かん、かん、と鉄を打つ音が響いていた。
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