第40話 夜の人影
人影は荷箱の縄を、手慣れた様子でほどいていった。
僕は屋根裏の暗がりで、息を殺していた。【索敵】でその人の気配を探る。呼吸の仕方、足の運び、肩の落とし方。どこかで見たことのある気がした。
「ノア」
隣でリーナが口の動きだけで言った。
「行く?」
「まだ。中身に手を出す瞬間を待とう」
人影は荷箱の蓋を、そっと持ち上げた。箱の中には白い布の束が、きれいに積まれている。外套の内側から小さな瓶を取り出して、栓を抜いた。
つん、と鼻を刺す墨のような匂いが漂ってきた。その瓶が白い布の真上で、ゆっくりと傾いていく。
――布を汚す気だ。
「今!」
僕は屋根裏の窓から音もなく中庭に飛び降りた。【平衡感覚】のおかげで、着地の音はほとんどしなかった。リーナも猫のような身のこなしで、反対側に降りる。
人影は気づいていない。
僕は腰の鞭を抜いた。狙うのは、箱の中に伸びた右の手首。
――ぱしっ。
鞭の先が手首にくるりと巻きついた。力を込めすぎないように、けれど振りほどけない強さで、きゅっと締める。
「っ……!」
人影が声を上げかけた。その口を背後に回ったリーナの手がふさぐ。もう一方の手は、手首から滑り落ちた瓶を素早く受け止めていた。中身は一滴もこぼれていない。
「動かないで。大きな声も、出さないで」
リーナの囁きは普段よりずっと低かった。
その瞬間、視界の真ん中に赤い光が浮かんだ。
世界の音が遠のく。人影が手首を引き抜こうとした姿のまま、ぴたりと止まった。
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◆ 経験変換 ◆
「初めて、人を鞭で傷つけずに捕らえる体験」を検知
力に変えますか?
① 【捕縛】 狙った相手を、傷つけずに鞭で縛りつけられる
② 【手加減】 相手を傷つけずに、制圧しやすくなる
③ 【声殺し】 相手に声を出させずに、静かに取り押さえられる
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人を傷つけないように捕らえるのは、初めてだった。敵を倒すのとは違う。力を込めすぎれば、取り返しがつかないことになる。
②も③も役に立ちそうだった。でも、僕の鞭は相手を傷つけるためのものじゃない。足を止め、手を封じ、守るためのものだ。
「……①だ」
選んだ瞬間、鞭を握る右手にふっと確かな感覚が宿った。
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◆ 経験変換 ◆
【捕縛】を習得しました
Lv1
効果:狙った相手を、傷つけずに鞭で縛りつけられる
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赤い光が消える前に、その隣に青白い光が浮かび上がった。
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◆ スキル統合 ◆
同じ系統の力が、重なり合っています
【武器絡め】 鞭で、相手の武器を絡め取って、手から奪える
【鞭撃】 鞭の先に力を乗せて、一点を鋭く打てる
【捕縛】 狙った相手を、傷つけずに鞭で縛りつけられる
一つに統合しますか?
【鞭術】 鞭を自在に操り、絡める・打つ・縛るが思いのままになる
※元の力は、すべて引き継がれます
はい / いいえ
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絡め取る。打つ。縛る。どれも、鞭を使う力だ。それがいま、一つに重なろうとしている。
鞭を振る時、絡めるのも、打つのも、縛るのも、本当は一つながりの動きだ。それが一つの力になれば、もっと自在に扱えるようになるかもしれない。それに、元の力はすべて引き継がれると書いてあった。
「……はい」
選んだ瞬間、鞭が腕の延長になったような感覚が、全身を駆け抜けた。
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◆ スキル統合 ◆
【鞭術】を習得しました
Lv1
効果:鞭を自在に操り、絡める・打つ・縛るが思いのままになる
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音が戻ってくる。止まっていた世界が、ふたたび動き出した。
手首に巻いた鞭の締め具合を、指先で細かく調整できる。人影が痛がらないぎりぎりの強さで、けれど逃げられない強さで。
「……は、離してくれ……」
リーナが手をゆるめると、かすれた男の声がした。僕はその声に聞き覚えがあった。
「ランプを、こっちに」
リーナが足元のランプの布を外した。ぼんやりした光が人影の顔を照らす。
白髪の混じった短い髪。日に焼けた深い皺。いつも荷馬車の一番前で、馬の手綱を握っていた人だった。
「……オットーさん」
御者のオットーだった。
「ノア……ぼうず……。すまん……すまん……」
オットーはがくりと膝をついた。抵抗する気配はもうなかった。
「リーナ、ロベルトさんを呼んできて。静かに、他の人に気づかれないように」
「うん!」
リーナが風のような速さで宿の中へ走っていった。
中庭にはオットーの荒い息づかいだけが残った。僕は鞭をゆるめて、手首を離した。それでもオットーは逃げようとしなかった。
「どうして、こんなことを」
「……娘が、病気なんだ」
オットーはうつむいたまま、ぽつりと言った。
「ずっと、咳が止まらない。王都の医者は、高い薬を飲み続けなければ、長くは持たないと言う。薬代の足しに、金を借りた。それが、悪かった」
声が震えていた。
「ロベルトの旦那は、いい人だ。爺さんの代から、この荷馬車を引かせてもらっている。裏切るなんて、考えたこともなかった。だが、借金の証文を、あいつらに握られて……」
「あいつら?」
その時、足音が近づいてきた。
ロベルトだった。外套を羽織って、リーナに連れられて駆けてきた。オットーの姿を見てぴたりと足を止める。
「オットーさん……」
「旦那……!」
オットーは地面に額をつけた。
「すまねえ、旦那! 俺は、旦那を裏切った! 荷の布を、この染料で汚すよう頼まれたんだ! 売り物にならなくなれば、契約は流れる。そうすれば、借金の証文を返してやると……!」
ロベルトはしばらく何も言わなかった。リーナが持っていた瓶を受け取り、栓を少しだけ開けて、匂いを確かめる。濃い、黒い染料の匂いだった。ロベルトはそっと目を閉じた。
それから、ゆっくりとオットーの前にしゃがみ込んだ。
「顔を上げてください」
「旦那……」
「娘さんの薬代は、いくらですか」
オットーは目を見開いた。
「旦那、何を……」
「私が、肩代わりします。借金の証文も、私が買い取りましょう」
「そんな、俺は、旦那を裏切ったんだ! 許されるはずが……」
「許されるとは、言っていません」
ロベルトの声は静かで、けれどはっきりしていた。
「ただ、私は知っているんです。重い荷を担ぐ辛さも、守りたい人がいる辛さも。あなたは、爺さんの代から、私を支えてくれた人だ。そのあなたが、ここまで追い詰められていたことに気づけなかった。それは、私の落ち度でもあります」
オットーの肩が大きく震えた。声を殺して、泣いているのが分かった。
「そのかわり、知っていることを、全部話してください。誰が、あなたに話を持ちかけたのか」
オットーは涙をぬぐって、顔を上げた。
「……王都の、酒場でだった。背の高い、痩せた男だ。深く帽子をかぶっていて、顔は、よく見えなかった」
「名前は?」
「名乗らなかった。ただ……」
オットーは自分の手を、じっと見つめた。
「夏でもないのに、黒い手袋をはめていた。革の、上等なやつだ。指先が、やけに細くて、静かな手だった。物を渡す時も、足音ひとつ立てない男だった」
黒い手袋の男。
その言葉が胸の奥に、小さく引っかかった。なぜだろう。会ったこともない相手のはずなのに、背中がひやりとした。
「そして、その男は、こう言った。『荷は、十五日以内に、王都に着かせるな』と」
ロベルトが僕の顔を見た。リーナも息を呑んでいる。
中庭の上で月が静かに傾いていた。まだ、夜は終わっていなかった。




