第39話 峠の宿場ガロ
朝食のあと、荷馬車の列は峠道を登り始めた。
昨夜の群れが嘘のように、山は静かだった。道の両側に背の低い草と白い岩が広がっている。吹き下ろす風は冷たくて、息を吐くたびに白くなった。
【索敵】を広げてみても岩場の小さな獣の気配があるだけだった。
「ノア、寒い……」
「リーナ、外套の前、閉めなよ」
「だって、閉めるとパンが取り出しにくいんだもん」
「まだ食べるの?」
そんなやりとりをしているうちに、日が傾き始めた。峠をひとつ越えた先に石造りの屋根の群れが見えてくる。
「あれが、ガロです」
先頭の馬車の上からロベルトが指さした。
「峠の宿場です。山を越える旅人は、みんなここで一晩休みます」
ガロは思ったより大きな町だった。石畳の通りの両側に頑丈な造りの宿屋が並んでいる。荷を積んだ馬車や旅装の商人たちで、通りはにぎわっていた。煙突からは夕食の煙が上がっている。
「ここでは、宿を取ってあります。荷馬車は宿の中庭に入れてください」
ロベルトの声に従って、馬車の列が中庭に入っていく。ガルドの組もハンスとミレイも、ほっとした顔をしていた。
宿の食堂は暖炉の火で暖かかった。
壁に吊るされたランプが長い木の机を照らしている。出てきたのは、豆と肉をじっくり煮込んだ熱々のシチューと、堅焼きのパンだった。
「おいしい……! 体の中からあったまる……!」
リーナは器を両手で抱えるようにして、幸せそうに目を閉じた。
「リーナさん、おかわりもありますよ」
向かいの席からロベルトが笑った。他の護衛たちは少し離れた机で、それぞれ疲れを癒している。僕とリーナだけが、ロベルトと同じ机に呼ばれていた。
「改めて、昨夜のお礼を言わせてください。ノアさんの知らせがなければ、荷は、そして皆の命は、どうなっていたか」
「いえ。皆さんが戦ってくれたからです」
「あなたは、いつもそうおっしゃる」
ロベルトはやわらかく笑った。それから、シチューを一口食べて少しだけ遠い目になった。
「聞いていただけますか。私が、なぜこの商隊を率いているのかを」
「はい」
「私は、王都の下町で生まれました。両親は早くに亡くなって、十歳の頃から、市場で荷運びをして暮らしていたんです」
ロベルトの声は静かだった。
「朝から晩まで、重い荷を担いでも、手に入るのは、パンが一つ買えるくらいのお金でした。そんな私を拾ってくれたのが、市場の隅で小さな店を開いていた、老いた商人です」
「その人は、どんな人だったんですか」
「口の悪い、頑固な爺さんでした。でも、いつもこう言っていた。『荷は、客の信用を運ぶんだ。重さをごまかした日から、お前は、荷物じゃなく、自分の名前を捨てることになる』と」
その言葉がすとんと胸に落ちた。母さんも同じようなことを言っていた気がする。食堂の料理は、お客さんの信用を、鍋で煮込んでいるようなものなのよ、と。
「爺さんが亡くなって、店を継ぎました。十年間、毎日、重さと値段をごまかさずに、小さな商いを続けて。去年、ようやく、大きな取引を任されるようになったんです」
「すごい……」
リーナがぽつりとつぶやいた。
「ただ、それを面白く思わない方々もいます」
ロベルトの目が少しだけ鋭くなった。
「王都には、昔からの老舗の大商会があります。グランツ商会という名です。貴族の方々と深くつながっていて、役所への根回しも、袖の下も、お手のものでしてね」
「袖の下……」
「私は、それを一切、やっていません。ですから、あちらにとって、私は、目障りな新参者なんです。去年から、関所の通行許可の遅れ、仲買人への圧力、取引先への根も葉もない噂。細かい嫌がらせは、数え切れません」
だから、強い護衛を雇ったのだと、ロベルトは言った。
「今回の荷は、王都の織物の組合との大事な契約のためのものです。十五日以内に届けなければ、契約は流れてしまう。あちらは、それを狙っているでしょう」
「そんな……」
「ただ、味方がいないわけではありません。王都には、私の誠実な商売のやり方を気に入ってくださった、変わったお客様もいましてね」
ロベルトは少し照れたように笑った。
「いつか、その方に、胸を張って品物を届けられる商人になりたい。それが、私の願いです」
僕はロベルトの顔を見つめた。商人の目というより、まっすぐで、少し不器用な、一人の青年の目だった。
「……届けましょう。必ず」
「はい。お願いします」
ロベルトは頭を下げた。リーナがぐっと拳を握る。
「任せて! ごはんの分、しっかり働くから!」
「リーナ、そこなんだ」
食堂に小さな笑い声が広がった。
食事のあと、僕は一人で宿の中庭に出た。
月明かりの下に荷馬車が並んでいる。腰の剣を抜いて、砥石で刃を整えながら、荷馬車の様子をぼんやり眺めていた。
イルゼに教わった通り、指二本分の角度を保って、一定の調子で引く。しゅっ、しゅっ、という音が静かな中庭に響く。
その時、ふと目が止まった。
三台目の荷馬車の荷箱。縄で厳重に縛られた箱の、結び目だ。
港で毎日見てきた結びの形がそこにあった。けれど何かが違う。【仕掛け看破】が頭の奥で静かに反応する。
僕は荷箱に近づいて、結び目を指でなぞった。
「……これ」
縄の結び方は船乗りの本結びだった。ところが、結び目の下の縄の跡が、少し違う。長く縛られてへこんだ縄目の跡と、今の結び目の位置が、ほんの少しだけずれている。
一度解かれて、結び直された跡だ。
しかも、結んだ人は元の結び方をよく知らなかった。見た目は同じでも、港で縄を扱ってきた僕の目には、はっきり分かる。
「誰かが、この荷箱を開けた」
背筋がすっと冷たくなった。
僕は箱の蓋の継ぎ目を調べた。封の蝋がうっすらと割れている。中身が抜かれた様子はない。ただ、確かに一度、開けられている。
「ロベルトさんに、知らせないと」
宿の中に戻ると、ロベルトは一人で帳簿を広げていた。僕は声を落として、見つけたことを伝えた。
ロベルトの顔からすっと血の気が引いた。
「……三台目の、荷箱ですか」
「はい。中身は、減っていないと思います。でも、確かに、開けられた跡があります」
ロベルトはしばらく黙っていた。それから静かに息を吐く。
「道中、荷馬車に近づけるのは、私が雇った者と、護衛の皆さんだけです。つまり……」
その先は言葉にならなかった。
「このことは、皆さんには、言わないでください。誰が、何のために開けたのか、まだ分かりません。軽々しく口にすれば、疑心暗鬼を生みます」
「分かりました。僕たちで、今夜、見張ります」
「危険かもしれませんよ」
「リーナと二人なら、大丈夫です。僕には、これがありますから」
僕は自分の目と頭の奥の感覚を、指さした。ロベルトはゆっくりとうなずいた。
「……お願いします。ただし、無理はしないでください」
宿の中庭を見下ろせる馬小屋の屋根裏に、僕とリーナは身を潜めた。
夜は深く、冷えていた。毛布にくるまって、藁の山の陰から荷馬車を見つめる。
「ノア。誰が来ると思う?」
リーナが息だけの声で聞いた。
「分からない。でも、荷箱に手を出すなら、きっと人が寝静まってから来る」
【索敵】を最小限に絞って広げる。宿の中の寝息。馬の鼻息。眠っている護衛たちの気配。そのどれもが動かない。
しばらく時間が過ぎた。
月が屋根の上まで昇った頃だった。
宿の裏口がぎい、とかすかに鳴った。
【索敵】が一つの気配を捉える。足音を殺して中庭の影を渡っていく。外套を深くかぶっているのか、顔までは見えない。手には、布をかぶせた小さなランプ。
リーナが僕の袖を、ぎゅっとつかんだ。
その人影は迷いのない足取りで、三台目の荷馬車の前に立った。あたりを一度だけ、ゆっくりと見回す。
僕たちは息を止めた。
人影はランプを足元に置いた。そして、荷箱の縄に手をかけた。




