第37話 峠の夜
アルバを出て二日目。街道はいつの間にか山道に変わっていた。
道の幅は狭くなって、片側は切り立った岩壁、もう片側は谷底が見えないほどの急な斜面だ。荷馬車の車輪が石を踏むたびに、ごとん、と大きく揺れる。
「ノア、この道、すごいね! 下を見ると足がすくむ!」
「リーナでも足がすくむんだ。意外だね」
「高いところは、跳ぶのは平気だけど、落ちるのは嫌なの!」
よく分からない理屈だった。僕は苦笑いしながら、列の横を歩いていた。
その時、先頭の方からガルドの声が飛んだ。
「止まれ! 荷馬車がはまったぞ!」
駆けつけてみると、三台目の荷馬車の車輪が道の端の溝に落ち込んでいた。馬が必死に引いているけれど、車輪は空回りするだけで、びくともしない。
「おい、バルド! 押せ!」
「承知」
バルドとトビが荷台の後ろに肩を当てて押した。ガルドも加わる。それでも車輪は一寸も上がらなかった。
「重すぎる。荷を降ろすしかないか……」
「いや、それでは日が暮れてしまう」
困り顔のロベルトの横で、僕は溝の深さを見ていた。
【道具理解】が車輪の食い込み方と、荷の重さのかかり方を教えてくれる。このまま押しても車輪は溝の縁に引っかかるだけだ。
「あの、少し、いいですか」
「坊主、何だ」
「車輪の下に、平らな石か、板を挟みたいです。それと、太い枝を一本。てこにします」
ガルドがじろりと僕を見た。それから顎でトビに合図をした。
トビが近くの岩場から平たい石を運んでくる。ハンスが道端の木から太い枝を折ってきた。
僕は枝の先を荷台の下に差し込んだ。枝の途中には大きめの石を置いて、支えにする。枝のもう一方の端を下に押せば、てこの力で荷台がじわりと持ち上がる仕組みだ。
バルドに枝の端を押してもらい、持ち上がった隙間へトビの運んできた平たい石を滑り込ませる。これで、車輪が溝から這い上がる足場ができた。
それから腰の鞭を抜く。
「馬を引く方向が、今のままだと真っすぐすぎて溝の縁に当たるんです。少し、斜めに引かせたいです」
鞭の先を荷台の枠にしっかりと巻きつける。持ち手に近い側は道の先の太い岩の突起に一度回して、折り返した。持ち手は僕が握っておく。
「馬は、こっちから引かせてください。バルドさんは、もう一度、てこの端をゆっくり下に押して」
縄を扱うのは港で毎日やってきたことだ。【精密操作】のおかげで、鞭の張り具合はぴったりそろった。
「いきますよ。せーの!」
馬が引く。バルドが枝を押す。鞭がぴんと張る。
ぐん、と車輪が持ち上がった。溝の縁を越えて、がたん、と道の上に戻る。
「おおおっ!」
ハンスが歓声を上げた。ミレイもぱちぱちと手を叩いている。
「やったあ! ノア、すごい!」
リーナが僕の背中をばんばんと叩いた。痛い。
ロベルトが深々と頭を下げる。
「ありがとうございます、ノアさん。助かりました。荷を降ろしていたら、今夜の野営地まで、とても着けなかったでしょう」
「いえ、皆さんが押してくれたからです」
ガルドは何も言わずに僕を見ていた。それから、ふん、と鼻を鳴らす。
「……縄の扱いだけは、一人前だな」
そう言って、また先頭へ戻っていった。それがガルドの精いっぱいのほめ言葉なのだと、僕はもう知っていた。
日が傾く頃、峠の手前の開けた岩場に着いた。
「今夜は、ここで野営する。荷馬車を、円に並べろ」
ガルドの指示で、荷馬車が岩を背にして、円を描くように並べられていく。天幕を張って、火を起こして。すっかり慣れた手つきで、準備が整っていく。
夕食のあと、宵の口の見張りは僕とリーナだった。
岩場の夜は冷たかった。吹き降ろしの風が谷の底から、湿った土の匂いを運んでくる。
【索敵】を静かに広げてみる。ごつごつした岩の隙間で眠る、小さな虫。遠くの尾根を飛ぶ、夜の鳥。それだけだった。
「ノア。何も、いないね」
「うん。静かだね」
「ねえ、お祭り、楽しかったね」
「また、その話?」
「だって、またやりたいんだもん」
リーナの声は少しずつ、眠そうに小さくなっていった。やがて、交代の時間が来て、ハンスとミレイが焚き火のそばへやってきた。
僕とリーナは天幕に入った。
どれくらい眠っただろう。
体の奥で、小さな鈴がちりん、と鳴った。
目を開けると、天幕の中は真っ暗だった。隣でリーナが小さな寝息を立てている。外では、焚き火の爆ぜる音。ハンスとミレイの、ひそひそとした話し声。
――何かが、来ている。
僕は飛び起きた。【索敵】を一気に広げる。
風が止んでいた。山の斜面を吹き降ろしていたはずの風がぴたりと止まっている。そして、北東の森の斜面から、気配がぞろぞろと降りてくるのが分かった。
小さな気配が、数えきれないほど。三十はいる。その後ろにひときわ大きな気配が二つ、ゆっくりと続いている。
数と、動き方。獣じゃない。群れで統率されている。
「リーナ、起きて!」
「ん……ノア……? まだ夜だよ……」
「敵だ! 北東から、たくさん来る!」
その一言で、リーナの目がぱちりと開いた。短剣を両手に握って、飛び起きる。
僕は天幕を飛び出して、焚き火のそばのハンスに駆け寄った。
「ハンスさん! 北東から、魔物の群れが来ます! 数は三十以上、大きなのが二体!」
「え? ノア? 何も見えないけど……」
「風が止まりました。気配が、斜面を降りてきてます。すぐです!」
ハンスは一瞬、僕の顔を見た。それから真剣な顔つきになって、弓を構えて北東の闇をにらむ。
その時、背後で静かな足音がした。
「……その子の言う通り」
イルゼだった。いつの間にか僕の後ろに立っている。
「風が、止まった。それに、鳥が、鳴かなくなった」
彼女は短い言葉でそう言うと、さっと身をひるがえして、ガルドの天幕の方へ走っていった。
「全員、起きろ!」
ガルドの怒号が夜の岩場に響き渡った。
天幕から人が次々と飛び出してくる。ロベルトも寝間着の上に外套を羽織って、青ざめた顔で駆けてきた。
「魔物の群れだ。北東から、三十以上。小さいのが群れで、大きいのが二体いるそうだ。この山の魔物なら、ゴブリンどもと、ホブゴブリンだろう」
「三十……」
ミレイが杖を握る手を震わせた。ハンスがその肩を軽く叩く。
ガルドは荷馬車の円を、ぐるりと見渡した。
「陣形を組む。バルド、盾を持って、北東の正面に立て。トビ、右側だ。槍の間合いを取れ」
「承知」
「おう!」
「イルゼは、遊撃だ。円の外を回って、すり抜けてくる奴を潰せ」
イルゼが無言でうなずいて、闇の中に溶けていく。
「ハンスは、荷馬車の上から射ろ。ミレイは、その真下で、魔法の準備だ。範囲を取れ」
「了解!」
「はい!」
ガルドの目が僕とリーナに向いた。
「坊主たちは、荷馬車の左右だ。ロベルトの旦那達と馬車を、背中に守れ。後ろには、一匹も通すな」
「はい」
「分かった!」
「いいか。無理に出るな。取りこぼすな。……死ぬなよ」
最後の一言はいつもよりずっと小さな声だった。
ロベルトと御者たちは荷馬車の中央に集められた。ロベルトは僕とリーナに、まっすぐな目を向けた。
「ノアさん、リーナさん。荷より、命を大事に」
「はい」
僕は腰の剣を抜いた。鞘から滑り出た刃が焚き火の光を受けて、鈍く光る。
左手には、鞭。右手には、剣。
島の外に出て初めて、本当に剣を向ける戦いになる。海賊の時とは違う。逃げ場のない夜の岩場で、数えきれない敵を迎え撃つ。
心臓がどくどくと鳴っていた。でも、足は一歩も動かなかった。【踏ん張り】が僕をその場に、しっかりと縫いとめていた。
「ノア」
隣でリーナが短剣を構えて、小さく笑った。
「私たち、横だって。背中は、任せてよね」
「うん。リーナも、気をつけて」
「ノアこそ!」
北東の闇の中で赤い光が、ぽつり、ぽつりと灯り始めた。
一つ、二つ、十、二十。数えきれないほどの目が焚き火の光を映して、ぎらぎらと光っている。
「来るぞ!」
ガルドの声が夜の岩場を、鋭く切り裂いた。
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