第36話 地獄の赤鍋
屋台の主人は無口な大男だった。
大鍋の赤い汁を無言でお玉ですくい、二つの大きな鉢に注いでいく。一つはベルナ夫妻の前に、もう一つは僕たちの前に置かれた。
「最後の十二軒目は、三人で一つの鉢です!」
舞台の上から司会の声が響く。
「鉢の中身を、残さず食べ切ったチームの勝ち! お水は、いくら飲んでもかまいません! ただし、食べ残しは失格ですよ!」
湯気を浴びただけで、目がしみた。
「うっ……。ノア、においだけで涙が出る……」
「リーナ、息を止めて。バルドさんは、大丈夫ですか?」
「……甘い匂いは、しないな」
バルドが少し残念そうに鉢をのぞき込んだ。そんな匂いがするわけがない。
鉢の中は真っ赤だった。汁の中に肉団子と、くたくたの野菜。表面には腕ほどもある大きな唐辛子がぷかぷかと浮かんでいる。
隣の席では、ベルナ夫妻がのんびりと匙を手に取っていた。
「おじいさん、今年も、赤いわねえ」
「そうだなあ」
のどかな会話だった。けれど、孫の青年の顔はすでに引きつっている。
「それでは、よーい、はじめ!」
銅鑼が鳴った。まず僕が汁を匙で一口すくって飲んでみた。
次の瞬間、口の中が燃えた。
「かっ……!」
熱いのか痛いのか、分からない。目の前が真っ白になる。
「ノア!? 大丈夫!?」
「へ、平気……。ちょっとびっくりしただけ」
その白い視界の真ん中に赤い光が浮かび上がった。
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◆ 経験変換 ◆
「初めての、極辛の料理を食べる体験」を検知
力に変えますか?
① 【毒耐性】Lv2 毒や強い刺激への強さが、もう一段上がる
② 【味覚鋭敏】 味の違いを、細かく感じ分けられる
③ 【早食い】 食べる速さが上がる
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母さんの食堂の料理はいつも優しい味だった。こんな辛さは生まれて初めてだ。
①なら、僕自身は辛さに強くなれる。③なら、早く食べられる。でも、この鉢を食べるのは僕だけじゃない。三人でどう分けるか。それがこの勝負の本当の鍵に思えた。
「……②だ」
選んだ瞬間、舌の上がすうっと澄んだ。
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◆ 経験変換 ◆
【味覚鋭敏】を習得しました
Lv1
効果:味の違いを、細かく感じ分けられる
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もう一口汁を含んでみる。さっきはただの「辛い」だった。それが今はいくつもの味に分かれて感じられる。
表面の油が運ぶ熱い辛さ。肉団子に染みた重い辛さ。そして、鉢の底の方から立ちのぼる、鼻の奥を刺すような鋭い辛さ。
僕は浮かんでいる大きな唐辛子の端を、ほんの少しだけかじってみた。
「…………あれ?」
皮はぴりりと辛い。けれど、中身は驚くほど甘かった。見かけ倒しだ。
そっと鉢の底をさらうと、緑色の小さな粒がごろごろと沈んでいた。かすかに匂いを嗅いだだけで、鼻の奥がつんと痛んだ。
「あれが、本物の地獄だ」
「ノア、何か分かったの?」
僕は二人にだけ聞こえるように、声を落とした。
「食べる順番を決めよう。この鉢は辛さが三種類に分かれてるんだ。バルドさんは肉団子と野菜を、お願いします。量が多いから」
「承知した」
「リーナは、浮かんでる大きな唐辛子。見た目ほど辛くないよ。皮だけ辛くて、中は甘いから」
「ええっ!? 一番辛そうだよ!?」
「かじってみて」
リーナはおそるおそる、唐辛子の端をかじった。目をぎゅっとつぶる。そして、ぱちりと開けた。
「……あれ? 辛いけどおいしい!」
「でしょ。で、底の緑の粒は、僕が食べる」
「ノア、一人でそんな……」
「大丈夫。食べ方は分かってるから」
そう言って、僕は匙を握り直した。
その間にもベルナ組は食べ進めていた。上から順番に、ゆったりと、けれど止まることなく。老夫婦の鉢はみるみる減っていく。ただし、孫の青年だけが一口ごとに水を飲んで、赤い顔でうなっていた。
バルドは黙々と肉団子を口に運んでいた。額から滝のように汗が流れている。けれど、手は止まらない。
「うまい……。いや、辛い。いや、うまい……」
「バルドさん、無理しないでください!」
「無理では、ない。これは、仕事だ」
どこか様子がおかしい。でも、口に運ぶ速さは全く落ちていなかった。
リーナは大きな唐辛子を一本、また一本と平らげていく。涙目になりながらも顔は笑っていた。
「からい! おいしい! からい! おいしい!」
そして、鉢の中身はほとんど底が見えるところまで減った。残ったのは、緑の粒だけだ。
僕は匙で粒をすくって、口に運んだ。
――ぐっ。
涙がぶわっとあふれた。足は【踏ん張り】のおかげで少しもふらつかない。けれど、口の中の辛さには、何の役にも立たなかった。
けれど、【味覚鋭敏】が辛さの波が来る瞬間を、教えてくれた。波が来る直前に、水を含む。波が引くのを待って、次の粒を口に入れる。
「ノア、がんばれ!」
リーナが水の入った器を差し出してくれた。受け取って一口。また一粒。
ベルナ組の方で、老人が静かに匙を置く音がした。
「孫には、この緑は、まだ早いのう。わしが引き受けよう」
「あなた、無理をしないでね」
「なに、わしも、年季は入っとるでな」
老人の動きがわずかに遅くなった。孫の青年を気づかっている分だけ、ほんの少し手が止まる。その差が勝負を分けた。
最後の粒を口に入れた。涙で前が見えない。水を含んで、一気に飲み込む。
「……食べ切りました!」
手を挙げた瞬間、隣でバルドが最後の肉団子を、ごくりと飲み込んだ。リーナも最後の唐辛子を、ぺろりと平らげて、空になった鉢を掲げた。
司会が駆け寄ってきて、鉢の中をのぞき込んだ。
「……空です! 残りなし! 優勝は……『ごはんの勇者たち』!」
わあああっ、と広場が揺れた。
少し遅れて、ベルナ組の鉢も空になった。老人が孫の肩をぽんと叩いて、こちらに向き直る。
「お見事。久しぶりに、負けたわい。坊主、あの緑の粒、どうして分かった」
「えっと……なんとなく、です」
「なんとなく、か。ほっほっほ。それも、立派な才能じゃな」
老人は楽しそうに笑って、手を差し出してきた。僕は涙をぬぐって、その手を握り返した。
司会が舞台の上で、小さな革袋を高く掲げる。
「優勝賞金、金貨三枚です!」
袋を受け取ると、ずしりと重かった。三人で分けて、一人に一枚ずつ。金色の硬貨が夕日に光った。
バルドは自分の金貨を両手で包んで、しばらく見つめていた。
「……これで、甘いものが」
「バルドさん、まだ食べるんですか!?」
「まだ、足りん」
僕は大きな盾の持ち主が、一番の大食いだったことを、思い出した。
日が落ちても街の祭りは終わらなかった。窓の外では太鼓と笛の音が、まだ鳴り続けている。
ロベルトが泊まっている宿の隣の食堂を借りて、ささやかな宴の席を用意してくれていた。ガルドの組もハンスとミレイも、そろっている。
「優勝、おめでとうございます。街の方々も、皆さんのことを噂していましたよ」
「ありがとうございます。みんなのおかげです」
「ノアが、作戦を考えたんだよ!」
リーナが自分のことのように胸を張った。そのリーナは手に金貨を握りしめている。
「これで、アルバの屋台、もう一周する!」
「だめ」
「えええええ! 半周は!?」
「銀貨一枚分だけ。残りは、旅の備えに回すよ」
「ノアのけちー!」
「リーナ、旅はまだ始まったばかりなんだよ。使いすぎたら、あとで困るでしょ」
「ううう……」
そのやりとりを、バルドがじっと見つめていた。手には自分の金貨が握られている。
「……俺は、銀貨三枚分だけにしておこう」
「バルドさん、ちょっと多くないですか?」
「ノア、俺は大人だ。リーナより、少し多くてもいいだろう」
横からガルドが低い声で割り込んできた。
「バルド。お前は、放っておけば、全部食い物に消えるだろう。リーナと同じ、銀貨一枚にしておけ。残りの銀貨九枚は、俺が預かっておく」
「そんな……」
バルドはしゅんと肩を落とした。
ミレイがぷっと吹き出した。ハンスも肩を震わせている。ガルドは咳払いを一つして、僕の方を向いた。
「……坊主。悪くなかった」
「ありがとうございます」
「あの鍋は、二年前、俺の組も挑戦して、全滅した。お前に見る目があったということだ」
そう言って、ガルドはふんと鼻を鳴らして、そっぽを向いた。後ろでトビとイルゼが小さく笑っている。
結局リーナは銀貨一枚で、蜜がけの揚げ菓子を二つ買って、一つを僕に分けてくれた。バルドは、三つ買っていた。
甘い香りの中で、ランプの灯りがゆれる。窓の外の太鼓の音はまだ遠くで鳴り続けていた。
「ノア。楽しかったね」
「うん。楽しかった」
「また、こんなお祭りに出たいな」
「次は、辛くないやつでお願いします」
リーナはけらけらと笑った。
翌日は荷の受け渡しの手伝いで、あっという間に過ぎた。そのまた翌朝、荷馬車の列はアルバの門をくぐった。街道の先に遠く青い山並みが見える。
「次は、峠の宿場、ガロです」
ロベルトが馬車の上から、僕たちに声をかけた。
「山道に入ります。気を引き締めていきましょう」
「はい」
僕は腰の剣の柄に、そっと手を置いた。祭りの笑い声が背中の向こうで、少しずつ遠ざかっていった。
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