第34話 川沿いの街セルト
二日目の夜も何事もなく過ぎた。
三日目の昼、街道の先に大きな水車が見えてきた。ゆっくりと回る水車の向こうに、石造りの橋と、川沿いに並ぶ屋根の群れ。
「あれが、セルトだよ」
ハンスが背伸びをして指さした。
「川魚がおいしいんだ。特に塩焼き。食べ損ねたら、一生後悔するよ」
「塩焼き……!」
リーナの目がきらりと光った。
門番はロベルトの顔を見ると、笑って手を振った。何度も通っている街らしい。荷馬車の列が石畳の大通りへ入っていく。
試しに【索敵】に意識を向けてみた途端、頭の中に人の気配が一度に押し寄せてきた。路地の奥の人も、屋根の上の猫も、川の中の魚の動きまで、ごちゃごちゃに重なって分かる。
「うっ……」
「ノア、どうしたの? 顔が青いよ」
「気配が、多すぎて……。慣れるまで、街の中では使わない方がよさそうだ」
僕はあわてて意識を閉じた。リーナは首をかしげていたけれど、気にせず市場の方へ鼻をくんくんさせていた。
「皆さん、お疲れさまでした」
ロベルトが馬車から降りて、護衛たちを見回した。
「補給と荷の取引のため、今夜はここに泊まります。商隊用の大部屋を借りてあるので、夜はそこで休んでください。夕方の点呼までは、自由行動です」
「やった!」
リーナがぴょんと跳ねた。
石橋の近くの市場はにぎやかだった。川で獲れた魚が桶いっぱいに並べられていて、焼き網からは香ばしい煙が上がっている。
「ノア、あれ! 川魚の塩焼き! 一本、銅貨三枚だって!」
「食事は雇い主持ちだよ」
「それはそれ、これはこれ」
リーナは真顔で言い切った。僕は少し迷って、袋の中身を思い浮かべた。前金のおかげで、お金には余裕がある。けれど、使い方を覚えないと、すぐに底をつくのがお金というものだ。
「一本だけだよ」
「ありがとう、ノア!」
こんがり焼けた川魚をリーナは大事そうに両手で持った。かぶりつく瞬間の、幸せそうな顔といったら。
「おいしい……! 皮がぱりぱりで、身がふわふわで……」
「それは良かった」
僕は自分の分を半分に割って、少しだけ食べた。確かにおいしかった。
リーナが二本目をうらやましそうに見つめているのを、見なかったふりをして、僕は市場の奥の小さな店に向かった。
そこは、刃物や砥石を扱う店だった。壁には鍋や包丁が並んでいて、棚の端には砥石が積まれている。剣を持つのも手入れをするのも、僕には初めてだ。
「剣の手入れに使う砥石と、油を探しているんですけど……」
「その砥石は、目が細かすぎる」
背後から低い声がした。振り向くと、イルゼが立っていた。
「……イルゼさん」
「初めて研ぐ剣なら、これだ」
イルゼは棚から、少し目の粗い砥石を一つ取って、僕に差し出した。それから小さな瓶に入った油も。
「ありがとうございます」
「刃は手を抜いた分だけ、鈍る」
店の外の水場で、イルゼは実際にやってみせてくれた。自分の短剣を水にぬらした砥石に当てる。
「角度は、指二本分。力は入れすぎるな。一定の調子で、引く」
しゅっ、しゅっ、と規則正しい音が響いた。
その音に、胸の奥がすっとほどけた。毎晩、台所の隅で聞いていた音と同じだった。
僕も剣を砥石に当てて、ゆっくりと引いてみる。【道具理解】が刃の角度と、砥石の当たり具合を教えてくれた。手は自然に動いた。
「……その音」
イルゼが手を止めて、僕を見た。
「誰に習った」
「母です。毎晩、食堂の小刀を研いでいて……僕はそれを横で見ていました」
イルゼは何も言わなかった。ただ、ほんの小さく、うなずいた。
その時だった。橋の方から悲鳴が響いた。
「誰か! 誰か、助けて!」
駆けつけると、橋の上に人だかりができていた。川の流れの中を小さな舟が、くるくると回りながら流されていく。舟の中に小さな男の子がいた。
「トマ! トマー!」
岸で女の人が泣き叫んでいる。つないであった縄が外れたのだろう。舟は速い流れに乗って、ぐんぐん遠ざかっていく。その先には大きな水車が、ごうごうと水をかいて回っていた。
「あのままじゃ、水車に巻き込まれる!」
「ノア、どうするの!?」
リーナが叫んだ。僕は橋の手すりに飛びついて、腰の鞭を抜いた。
小舟の先に縄をかけるための輪が見えた。狙いを定めて、思い切り鞭を振る。
鞭の先がぴしゃりと水面を越えて、輪にくるりと巻きついた。
「かかった!」
ぐんっ、と強い力が、手に伝わる。足を踏ん張って、手すりを背にする。【踏ん張り】のおかげで、体はびくともしなかった。
手のひらが焼けるように熱い。心臓がどくどくと音を立てている。それでも、舟の流れは少しずつ遅くなっていった。
「ノア、そのまま引いてて!」
リーナが橋から飛び降りて、川岸を一直線に駆け出した。【疾風】の力で石畳がかすんで見える。あっという間に水車の手前の岸まで先回りした。
「おい坊主! 無理に引くな、そのまま耐えろ!」
ガルドの太い声が橋の上から響いた。振り向くと、彼の組が人だかりをかき分けて駆けつけていた。
「バルド、丸太を止めろ! トビ、岸で縄を用意しろ!」
川の上流から太い丸太が一本、流れてくる。このままだと、小舟にぶつかる。
「任せろ!」
バルドが大きな盾を構えて、岸の杭の上に飛び出した。どすん、という鈍い音とともに、丸太が盾にぶつかって、横へ逸れていった。
「リーナ、今だ!」
「うん!」
リーナは岸の杭を蹴って、宙を舞った。【跳躍】で小舟の上にふわりと降りる。泣きじゃくる男の子を抱き上げて、そのまま岸へ跳ぶ。
「トビ、縄を投げろ!」
槍の男が小舟の後ろの出っ張りに、縄の輪を投げた。イルゼがその縄を岸の太い杭に結びつけた。
ぎしり、と縄が張って、小舟が水車の手前でぴたりと止まった。
「やった……」
僕は鞭を手元に戻した。緊張が解けた瞬間、手のひらの熱さがどっと押し寄せてきた。
岸ではさっきの女の人が、男の子を抱きしめて泣いていた。
「ありがとう、ありがとうございます……! 本当に、ありがとうございます……!」
母親は僕たちの手を何度も握って、頭を下げた。
橋の上に戻ると、ガルドが腕を組んで立っていた。
「……坊主」
「はい」
「悪くない動きだった」
そう言いかけて、ガルドははっとしたように口を閉じた。咳払いを一つ。
「……荷の点呼に遅れる。行くぞ」
ふん、と鼻を鳴らして、ガルドは大股で去っていった。
「素直じゃないなあ」
リーナがくすくす笑った。ガルドの組の他の三人はそれぞれ、ほんの少しだけ口の端を上げていた。
夕方の点呼が終わると、ロベルトが僕たちのところへやってきた。
「街の方たちから、聞きました。護衛の皆さんが、子どもを助けてくださったと」
「たまたま、近くにいたので」
「荷物のことだけでなく、街の方にまで力を貸してくださって、ありがとうございます」
ロベルトは深く頭を下げた。それからにこりと笑った。
「あの子のお母さんが、燻製の魚をたくさん持ってきてくれました。みなさんで、分けましょう」
籠いっぱいの燻製魚を前に、リーナの顔がこれ以上ないほど輝いた。
「ノア、見て! 魚が、こんなに!」
「食べすぎちゃだめだよ」
「分かってる! たぶん!」
大部屋に戻る途中、ハンスが近づいてきた。
「次は、アルバだよ。ちょうど祭りの最中でさ。屋台の食べ比べ大会もあるんだ。楽しみにしててね」
「食べ比べ……!」
リーナの目がまた光った。僕は少しだけ、嫌な予感がした。
その夜、僕たちは久しぶりの屋根の下で眠った。窓の外では水車の音が、ゆっくりと回り続けていた。




