第33話 初めての野営
街道の旅は、思っていたよりずっとのんびりしていた。
荷馬車の列が進む速さは人の歩く速さと変わらない。ごとごと、ぎしぎしという車輪の音を聞きながら、僕は列の横を歩いていた。
【風読み】の感覚を広げると、麦畑を渡る風が肌に触れるように分かる。遠くの丘の草の匂いまで運ばれてくるようだった。
「ノア、あれ見て! 羊がいっぱいいる!」
「ほんとだ。島では、あんまり見なかったね」
リーナは道端の柵を指さして、さっきから目を輝かせっぱなしだった。歩きながらパンをかじっているのに、少しも飽きる様子がない。
隊列の後ろの方からハンスが駆け寄ってきた。
「やあ、楽しんでるね。そうだ、道のりの説明をしておこうか」
ハンスは指を折りながら話してくれた。
マルカから王都までは、全部で十四日。途中で立ち寄る街は五つ。川沿いの街セルト、市のにぎわうアルバ、峠の宿場ガロ、職人の街ロスタ、そして王都の手前の関所の街ヴェルン。
「街と街のあいだは、だいたい野宿だよ。セルトまでは、二日と少しかな」
「ということは、今夜は……」
「うん、初めての野営だね」
ハンスはにやりと笑った。
「アルバは、ちょうどお祭りの季節でさ。ものすごく賑やかなんだ。楽しみにしててよ」
「お祭り!」
リーナがぱっと顔を上げた。たぶん頭の中は食べ物でいっぱいだ。
夕方、街道のわきの開けた草地に着いた。荷馬車が円を描くように並べられて、馬が水を与えられていく。
「じゃあ、天幕の張り方を教えるね」
ミレイが杖の代わりに布の束を抱えてやってきた。
「まず、地面を平らにして、石を取ること。それから、柱を立てて、四隅を縄で引くの。ここまでは簡単!」
「分かった!」
リーナは元気よく柱を立てた。ぐらぐらと揺れる柱から、手を離した瞬間。
天幕がばさあっと、リーナの上に崩れ落ちた。
「わあああ! 前が見えない!」
「あはは! 大丈夫、大丈夫!」
ミレイが笑いながら、布の中からリーナを引っ張り出した。ハンスもお腹を抱えて笑っている。
僕は苦笑いしながら、四隅の縄を手に取った。港で毎日のように縄を扱ってきた。結び目の形も、引く向きも、体が覚えている。
【精密操作】のおかげで、縄の長さはぴったりそろった。ぎゅっと引くと、天幕がぴんと張った。
「おお、きれいに張るね。港で働いてたの?」
「はい。縄と船には、少し慣れてて」
「それなら、頼もしいな」
ハンスは感心したように言ったけれど、僕はまだ教わる方だ。火の起こし方も、水場の探し方も、ミレイとハンスに聞きながら覚えていく。
少し離れた場所では、ガルドの組が慣れた手つきで天幕を張っていた。盾の大男が柱を立て、槍の男が縄を引き、短剣の女の人が周りを見張っている。
「あれが、ガルドさんたちの組だよ」とハンスが言った。「盾のバルド、槍のトビ、斥候のイルゼ。腕はこの辺りで一番さ」
「イルゼ……」
あの無口な女の人は、設営の間も、周りへの視線を絶やさなかった。
日が落ちる頃、荷馬車の間に焚き火がいくつも灯った。雇い主の用意した料理番が、大きな鍋で温かいスープを煮てくれている。
「みなさん、遠慮なくどうぞ。道中、食事はたっぷり用意しています」
ロベルトが護衛の一人ひとりに、器を手渡して回っていた。
スープの湯気に、リーナがうっとりと目を閉じた。
「おいしい……。ごはんがついてくるって、本当だった……」
「リーナ、泣きそうな顔してる」
「だって、だって、ノア。毎日これが食べられるんだよ」
大げさだな、と思いながらも、僕も温かいスープを飲み干した。体の芯までじんわりと温まる。
食事が終わると、ガルドが焚き火の前に立って、ぶっきらぼうに言った。
「夜の見張りの順番を決める。坊主たちは、宵の口の番だ」
「宵の口、ですね」
「一番楽な時間だ。眠くなる前に終わるからな。文句はあるか」
からかうような目だった。けれど、その時間が一番楽だというのは、本当のことだと思う。
「ありません。引き受けます」
「ふん。真夜中はあの二人組、俺たちは夜明け前だ」
ガルドはそれだけ言って、さっさと自分の組の火のそばへ戻っていった。
見張りの間、僕とリーナは焚き火のそばに並んで座っていた。
火の光は届く範囲が狭くて、その外は、真っ暗な闇だ。けれど、【夜目】のおかげで、闇の輪郭がぼんやりと分かる。
【風読み】が風の向きを教えてくれた。風上は北。草と、湿った土の匂い。
「リーナ。静かに」
「え?」
「右の草むらに、何かいる」
風の中に獣の匂いが混じっていた。草むらの奥で、小さな光が二つ、ちらちらと揺れている。目だ。
僕は腰の鞭に手を伸ばした。焚き火の枝を一本拾って、左手で高く掲げる。
「野犬……?」
リーナが小声で言った。
二匹の細い影が、荷馬車の方へそろそろと近づいてくる。鼻をひくひくさせているのは、料理番が捨てた、肉の残りを嗅ぎつけたのだろう。
僕は鞭を静かに振り上げて、地面を狙った。
ぱしんっ!
乾いた音が夜の草原に響いた。野犬たちはびくりと跳ねて、あっという間に闇の中へ逃げていった。
「……ふう」
「かっこよかった、ノア」
「ただの脅しだよ。当てちゃったら、かわいそうだしね」
その時、視界の真ん中に赤い光が浮かび上がった。
===============
◆ 経験変換 ◆
「初めての、野営の夜に見張りに立つ体験」を検知
力に変えますか?
① 【警戒】 眠っていても、近づく危険に気づいて目が覚める
② 【野営の心得】 少ない睡眠でも、疲れが取れやすくなる
③ 【忍び足】 足音や気配を、少しだけ消せる
===============
野犬を追い払っただけなのに、と思ったけれど、僕にとっては全部が初めての夜だった。野宿で見張りに立つことも、闇の向こうの気配を探ることも。
②なら、少ない睡眠でも疲れが取れる。③なら、足音を消せる。どちらも旅の役に立つ。でも、もし眠っている間に、何かが近づいてきたら。僕が起きられなければ、リーナも、皆も、守れない。
「……①だ」
選んだ瞬間、体の奥で小さな鈴が鳴ったような感覚が走った。眠っていても、何かが近づけば、その鈴が鳴る。そんな気がした。
===============
◆ 経験変換 ◆
【警戒】を習得しました
Lv1
効果:眠っていても、近づく危険に気づいて目が覚める
===============
赤い光が消える前に、その隣にもう一つ、青白い光が浮かび上がった。
初めて見る色だった。
===============
◆ スキル統合 ◆
同じ系統の力が、重なり合っています
【夜目】 暗闇の中でも、色や細かな文字まで見分けられる
【風読み】 風の流れが肌で分かる
【警戒】 眠っていても、近づく危険に気づいて目が覚める
一つに統合しますか?
【索敵】 暗闇でも見通せて、風と気配から、周辺の状況や眠っていても近づく危険が分かる
※元の力は、すべて引き継がれます
はい / いいえ
===============
夜の見張りの間、【夜目】と【風読み】を、ずっと重ねて使っていた。そこへ今、【警戒】が加わって、三つの力が同じ系統として重なったのだろうか。これが、この光の正体なのかもしれない。
せっかく育てた【夜目】が消えてしまうのは、少しだけ惜しい。けれど、画面の端には、元の力はすべて引き継がれる、と書いてあった。
「……はい」
選んだ瞬間、闇の景色が一気に広がった。
===============
◆ スキル統合 ◆
【索敵】を習得しました
Lv1
効果:暗闇でも見通せて、風と気配から、周辺の状況や眠っていても近づく危険が分かる
===============
闇の輪郭が見えるだけじゃない。風の流れと気配の位置が、一枚の地図みたいに頭の中に浮かび上がった。草むらの奥で眠る小さな獣。遠くの木の上の鳥。天幕の中の人たちの寝息。
そして、すぐ後ろの暗がりに一つだけ、不思議なほど静かな気配があった。
振り返ると、イルゼが立っていた。足音は全くしなかった。
彼女は何も言わずに、僕の顔と、地面を打った鞭の跡をじっと見た。それから、風下の闇を見やる。
「……風下にいたのに、気づいたんだな」
低い声だった。それだけ言うと、イルゼはまた闇の中へ溶けるように戻っていった。
「今の、ほめられた……のかな」
「たぶんね」
しばらくして、交代の時間が来た。眠そうな顔のハンスとミレイがやってきたので、報告をした。
「異常は、ありませんでした。野犬が二匹来ましたけど、追い払いました」
「へえ、やるね。初日から、頼もしいや」
ハンスは目をこすりながら笑った。その向こうで、ガルドの組の天幕が、静かに揺れた気がした。
天幕に戻る前に、僕とリーナは少しだけ、外で星を見た。
空いっぱいに星が広がっていた。島の夜と同じ、数え切れないほどの光。
「ノア。島の星と、同じだね」
「うん。でも、船の上から見た星とは、少し違う気がする」
「王都で見る星は、どうなんだろうね」
リーナは空を見上げたまま、ぽつりと言った。
「楽しみだね」
「うん。楽しみだ」
僕たちは並んで、しばらく空を見ていた。
その時、ふっと風の向きが変わった。
【索敵】が冷たい空気の流れを、肌に伝えてくる。北東から、湿った森の匂いがかすかに混じってきた。
気のせいだろうか。気配の地図の端、北東の森の奥で小さな気配が、いくつもざわりと動いたような気がした。
「ノア?」
「……ううん、何でもない。寝よう」
僕は天幕の入口を開けて、リーナを先に入れた。夜風がまたさらさらと草を揺らしていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます! 少しでも『面白い、続きが気になる』と思っていただけましたら、下部の【ブックマーク】や【評価】(☆☆☆☆☆)で応援していただけると、執筆の凄すさまじい励みになります!




