第32話 出発の朝
出発の朝は、まだ空が薄青いうちに始まった。
昨日は一日かけて、旅の支度を整えた。丈夫な靴と、雨をはじく外套と、水袋。野営の道具は雇い主が用意してくれるので、僕たちの荷物は思ったより少なかった。
それから夕方に一度だけ、僕は一人で依頼所を訪ねた。
「ピコのことで、お願いがあるんです」
カウンターの向こうで、マーサが眼鏡の奥の目を細めた。
「使い走りに雇ってほしい、って顔だね」
「……分かりますか」
「あの子は、道も人も知ってる。ちょうど足の速い子が欲しかったところさ。ただし、ただ飯は食わせないよ。食事は出すけど、その分、きっちり働いてもらう」
「ありがとうございます」
マーサはふん、と鼻を鳴らして、帳簿に目を落とした。
「エドの息子の頼みだ。断れるわけがないだろう」
宿の前の石段には今朝もピコが座っていた。いつもより少しだけ早く来たらしい。
「兄ちゃん、お姉ちゃん! 遅いよ!」
「ピコが早いんだよ」
僕は腰の袋から小さな布袋を取り出した。昨日のうちに、前金の中から分けておいたものだ。
「これ、案内料。これまでの分と、最後までの分」
「え……」
ピコは受け取った布袋の重みに、目を丸くした。袋の中をのぞき込んで、息を呑む。
「ぎ、銀貨……三枚も……!」
「ちゃんと働いてもらったからね。ピコがいなかったら、僕たち、あの地下の通路にもたどり着けなかった」
「でも、こんなにもらったら、おいら、ばち当たりそうだよ」
「当たらないよ。ピコが自分で稼いだお金だもの」
その後ろから、リーナが大きな紙包みを差し出した。
「はい、これ。路地のみんなの分も入ってるよ」
中身は揚げ菓子だった。市場で三人で食べたのと同じ、甘い香りが立ちのぼる。
ピコは袋と包みを抱えたまま、しばらく黙っていた。それから、ぐい、と袖で顔をこすった。
「……ありがとう。兄ちゃん、お姉ちゃん」
「それとね。マーサさんがピコを使い走りに雇ってくれるって。ご飯つきで」
「え? マーサさんが?」
「ただし、きっちり働かないと追い出される、って」
「ええーっ! こき使われるじゃん!」
そう言いながらも、ピコの顔はぱあっと明るくなっていた。
北門の前の広場には、すでに馬車が五台並んでいた。布をかけた荷馬車が四台と、少し小ぶりの馬車が一台。荷の山のまわりで人が忙しく動き回っている。
その中で、一人だけ、車輪の前にしゃがみ込んで軸を指で確かめている人がいた。
「うん、これなら大丈夫ですね。念入りに見てくださって、ありがとうございます」
その人は手入れをしていた職人に頭を下げてから、僕たちに気づいて、立ち上がった。
三十歳前後だろうか。上等だけれど派手すぎない旅装に、やわらかな目つきの、細身の青年だった。
「護衛に来てくださった方々ですね。ロベルトと申します。この商隊の責任者です」
商人なのに、護衛の僕たちに深々と頭を下げた。
「ノアです。こっちは、リーナ」
「リーナです! よろしくお願いします!」
「お二人は、ずいぶんお若いんですね」
ロベルトは少しだけ目を丸くして、それからにこりと笑った。
「マーサさんが、強く推してくださいました。『腕は確かで、ずるをしない子たちだ』と」
「そんなことを……」
「荷物を、どうかよろしくお願いします。ただ、命を懸けてまで守る必要はありません。引き際を誤らないのも、護衛の腕のうちです。必ず、皆さんも無事に王都まで着いてください」
その言葉はまっすぐで、飾り気がなかった。
「皆さんの朝食も、用意してあります。遠慮なくどうぞ」
広場の隅の大鍋から湯気と一緒に、いい匂いが流れてくる。リーナの目がきらりと光った。
「ノア、食べていいって!」
「うん、いただこうか」
リーナはパンとスープを両手に持って、幸せそうに頬をふくらませた。
そこに鎧を鳴らす足音が近づいてきた。
「よう、坊主。ちゃんと来たな」
昨日の大柄な男だった。依頼所で僕たちを笑った、ガルドだ。後ろに仲間の三人が続いている。大きな盾を背負った大男と、細身で長い槍を持った男、そして、腰に短剣を差した、無口な女の人。
「逃げ出さなかったのは、褒めてやる。まあ、せいぜい、荷馬車の陰で大人しくしてるんだな」
「ガルドさんたちの邪魔は、しません」
「ふん。そのくらいの分別があるなら、いい」
ガルドはそれ以上は言わず、ロベルトの方へ向き直った。
その時、別の方向から明るい声が割り込んできた。
「おーい、そこの二人! 君たちが、最年少のチーム?」
弓を背負った青年が人懐っこい笑顔で、手を振りながら駆けてくる。その後ろから、杖を抱えた少女がぱたぱたと小走りでついてきた。
「ハンスだよ。こっちは相棒のミレイ。三チームの中で、一番おしゃべりな二人組さ」
「一番は、ハンスだけでしょ!」
少女がぷくっと頬をふくらませた。リーナと同じくらいか、少し年上に見える。
「私、ミレイです。魔法使いです! よろしくね」
「ノアです。よろしくお願いします」
「リーナです!」
「王都は、初めて? 僕たちは何度も行ってるから、分からないことがあったら、何でも聞いてよ。道のことも、街のことも」
ハンスは気さくに笑った。悪い人たちじゃなさそうだ、と思った。
全員がそろったところで、ロベルトが馬車の前に立って、僕たちを見渡した。
「改めて、お願いいたします。道中は、こう動いてください」
先頭はガルドたちの組。街道の先を見て、危険があれば、すぐに知らせること。最後尾はハンスとミレイ。後ろからの追っ手や魔物に備えること。
「ノアさんとリーナさんは、荷馬車の列のそばで、横からの守りをお願いします」
「荷馬車のお守りか」
ガルドが鼻で笑った。リーナがむっとして、口を開きかけたので、僕はそっと袖を引いた。
横の守りは前にも後ろにも動ける場所だ。全体が見渡せるし、【風読み】で風の流れを感じるにも、ちょうどいい。
「夜の見張りは、三組で順番に。街に入る前には、必ず点呼を取ります。それと、勝手に隊列を離れないこと。以上です」
「分かりました」
「では、出発しましょう」
馬のいななきと、車輪のきしむ音。先頭の馬車がゆっくりと動き出す。
僕は胸元の手帳にそっと手を当てた。この道の先に、王都と、湖がある。父さんの、次の足跡が。
北門が朝日に染まっていた。門をくぐろうとした時、横の方から聞き慣れた声が飛んできた。
「兄ちゃーん! お姉ちゃーん!」
見ると、門の脇の石壁の上にピコがよじ登って立っていた。ぶんぶんと両腕を振っている。
「おいら、マーサさんのとこで、ちゃんと働くからー!」
「うん! ピコも、元気でね!」
「また会った時に、びっくりするくらい、立派になってやるからなー!」
最後の声は少しだけ震えていた。僕とリーナは振り向いて、大きく手を振り返した。いつか、また会えるといい。
門を抜けると、水路の町が背後でゆっくりと遠ざかっていく。風が、麦畑を渡って、なだらかな丘の向こうまで続く街道を、さらさらと揺らしていた。
「ノア、見て! 道が、どこまでも続いてる!」
リーナが両手を広げて、目を輝かせた。
「うん。……長い旅になりそうだね」
王都まで、十四日。その最初の一歩を、僕たちは踏み出した。
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