第30話 光の地図
目を覚ますと、広間はうっすらと青白い光に満ちていた。
膝をついた番人は、昨日と同じ姿のまま、静かに眠っている。その足元の石の板の上で、昨夜の光の線がまだゆっくりと形を作り続けていた。
「ノア……あれ」
隣で目を覚ましたリーナが、かすれた声でつぶやいた。宙に光の地図が浮かんでいた。
細い光の糸が、海の線や、山の線や、川の線を描いていく。その上に、いくつもの点がちらちらと光っていて、そのうちの三つがほかの点よりも強く輝いていた。
見覚えのある形だった。僕は胸元から父さんの手帳を取り出して、島の記録のページの次のページを開いた。
そこには、父さんの右上がりの線で、同じ形の点の並びが描かれていた。丸で囲まれた点は一つだけ。
光の地図の中で、いちばん東の、大きな湖のほとりにある点だった。
「父さんの字がある」
丸の横に小さな字で、こう書かれている。
――王都の湖。
「王都……」
リーナが目を丸くした。
「この国の、いちばん大きな町だよね。王様が住んでて、軍隊がいっぱいいるっていう」
「うん。港で海賊を追っていた軍もきっとそこから来てたんだ」
そう答えた時、背後から、視線を感じた。振り返ると、壁にもたれたシオンが、黙って光の地図を見上げていた。
その目が僕たちとは違う点を見つめている。地図のいちばん北、白く線を引いた山々の中にある、もう一つの強い光。
「……ここか」
聞こえるか聞こえないかの声だった。
「シオンさん?」
「何でもない」
シオンはすぐに視線をそらした。
光の地図は夜通し、そこに浮かんでいたらしい。僕は手帳の余白に、点の位置と海の形を写し取った。
【精密操作】のおかげで、線は思ったよりずっと正確に引けた。写し終えて、石の板に目を向けると、【仕掛け看破】が板の縁にある小さなくぼみを教えてくれた。
「たぶん、ここを押せば、止められます」
指でそっと押し込むと、かちり、と音がして、光の地図がすうっと薄れていった。板の文字の光も消えて、石の板はゆっくりと地面の中へ沈んでいく。
最後には、床の石が元通りに閉じて、そこに何かがあった跡さえ分からなくなった。シオンが小さく目を見開いていた。
地上へ戻る道は、昨日よりずっと長く感じた。
シオンの魔力はまだ戻っていなかった。足取りがふらつくので、僕が肩を貸すと、シオンは嫌そうな顔をしたけれど、振り払いはしなかった。
「……歩きにくい。もう少し、離れろ」
「文句を言うなら、自分で歩いてください」
「ふん。これくらい、一人で歩ける」
二、三歩進んで、よろけて、また僕の肩につかまる。そのやり取りが、なんだか少しおかしかった。
通路の途中で、シオンが足を止めた。外套の内側から、黒い杭を一本、取り出す。
ランプの明かりにかざして、杭の側面をじっと見つめていた。
そこに小さな印が刻まれている。黒い円の中に、細い線が三本。
シオンの顔からすうっと血の気が引いた。
「その印、知ってるんですか」
「……知らん。ただの金属の飾りだろう。見覚えがあるように見えただけだ」
シオンは僕と目を合わせないまま、そう答えた。杭を外套の奥にしまって、僕の肩から手を離す。
「もう一人で歩ける。俺のことは気にせず、先に行け」
嘘だと思った。けれど、聞かなかった。
この人にも話せないことがある。僕にも、リーナにも、あるのと同じように。
井戸のロープをよじ登ると、まぶしい光が目に飛び込んできた。
「兄ちゃん! お姉ちゃん!」
ピコが泣きそうな顔で、僕に飛びついてきた。
「ばか! ばか! 日が暮れるまでには戻ってって言ったのに、夜になっても戻ってこないから、おいら、おいら……!」
「ごめん、ごめん。ちゃんと帰ってきたよ」
僕はピコの頭をくしゃりとなでた。ピコの肩が小さく震えていた。
役所の窓口は、前に来た時よりもずっと静かだった。一昨日の夜の地鳴りのあと、昨夜はぴたりと静かになったので、町の人たちが少しずつ落ち着きを取り戻しているのだ。
窓口の役人は僕の顔を見るなり、目を丸くした。
「戻ったのか。……本当に、戻ったのか」
「はい。古い通路の調査は、終わりました」
僕は写した地図と、許可の札を差し出した。隣でシオンが、外套の内側から杭を取り出して、窓口の机に置いた。
「地下の異変の原因は、これだ。誰かが、わざと守り手の仕組みを狂わせていた。この子たちは、調査の協力者だ」
役人は杭と僕たちを、交互に見た。
「協力者……」
「それ以上は、聞くな」
シオンの声は低くて、有無を言わせなかった。
役人はごくりと喉を鳴らして、うなずいた。それから机の引き出しから、重たい革袋を二つ取り出した。
「エドの依頼の報酬が、銀貨三枚。それに、地下の異変が止まった礼として、町から礼金を渡すよう言われている。銀貨十七枚だ。合わせて、銀貨二十枚になる」
ずしりと重い袋が僕の手に乗った。これで、剣が買える。
隣でリーナが小さくガッツポーズをした。
役所を出て、僕たちはマーサに無事を知らせるために、青い看板の依頼所の扉を開けた。シオンも黙ってついてきた。
受付の机から顔を上げたマーサが、僕たちを見て、ほっと息をついた。
「無事だったんだね。まったく、あんたたちは無茶ばっかりして。……あんたもだよ、愛想のない顔が、ぼろぼろじゃないか」
「うるさい」
シオンは受付の机の前で足を止めた。
「俺は、宿の荷物をまとめたら、町を出る」
外套をはおり直して、シオンは言った。
「北へ向かう」
「北……」
さっき、光の地図で見ていた、あの山々だ。
「ノアたちは、どこへ行く」
「王都の、近くの湖です。父さんの手帳に、印がありました」
「そうか」
シオンは短くうなずいた。それから、リーナの方に目を向けた。
「リーナ」
初めて、名前で呼ばれた。リーナははっとして背筋を伸ばした。
「その文字のことは、誰にも話すな。お前が思っているより、ずっと危ういものだ」
「……うん。分かってる」
「それと」
シオンは僕に向き直った。
「ノア」
「はい」
「次に会った時は、もう一度勝負しろ。頬の傷の分は、きっちり返してもらう。今度は、俺が勝つ」
まっすぐな目だった。冷たいはずのその目に、ほんの少しだけ熱が混じっていた。
「はい。僕も、強くなっておきます」
「口の減らない奴だ」
シオンは、ふん、と鼻を鳴らして、扉の方へ背を向けた。受付の机で、マーサがにやにやと笑っていた。
「あの子が、人の名前を呼んだよ。愛想のない顔でね。あたしゃ、嬉しいねえ」
「うるさい」
シオンは振り返らずに言い捨てて、扉を開けた。
濃紺の外套が、扉の向こうの石畳の通りをまっすぐに遠ざかっていく。足元の砂がふわりと舞い上がって、風がその背中を押した。
その姿が角を曲がって消えるまで、僕とリーナは、黙って見送っていた。
その夜、宿の屋根裏部屋で、僕は父さんの手帳を開いていた。
丸で囲まれた、王都の湖の印。その横の、父さんの小さな字を指でそっとなぞる。
「王都かあ。どんなところだろうね」
リーナが寝台に寝ころびながら言った。
「人がいっぱいで、市場も大きくて、おいしいものも、きっとたくさんあるよ」
「リーナは、すぐ食べ物の話になるね」
「だって、大事でしょ」
僕は笑った。
それから、腰の袋の重みを確かめる。銀貨がたくさん入った袋は今までで一番、ずっしりと重い。
「リーナ。お金が入ったから、片手剣を買いたいんだ。……使っても、いいかな」
「いいに決まってるでしょ。ノアに絶対合ってるから、買おうよ」
リーナは跳ね起きて笑った。それからふと黙り込んで、少し考えるように視線を泳がせた。
「ねえ、ノア。私も、もう一本、短剣を買っていい?」
「どうしたの? 今の短剣、使いづらい?」
「ううん、違うの」
リーナは自分の手のひらを見つめた。
「【連突き】を使った時にね、両手に一本ずつ持ってたら、すごく強くなれる気がしたの。だから、買いたいんだけど……いいかな」
「もちろん。明日、一緒に探そう」
リーナはぱっと顔を輝かせた。
その時だった。
窓の外の向かいの屋根の上に、人影が立っているのが見えた。
背の高い黒い服の人。月明かりの中で、その両手の指先だけが、闇よりも黒く光っていた。
手袋だ。
「リーナ」
「なに?」
僕が声を落とした、その瞬間。人影は屋根の上から、すうっと消えた。
風もなく、足音もなく、最初からそこにいなかったみたいに。窓の外には、ただ静かな夜の町が広がっていた。
【追跡】の感覚を広げても、屋根の上には何の跡も残っていない。【風読み】にも人の気配は引っかからなかった。
あの人は、何者だったんだろう。どうして、僕たちを見ていたんだろう。
胸の奥に小さなとげが刺さったような感じが残った。けれど、追う手がかりはどこにもない。
「ノア、どうしたの? 窓の外に、何かいた?」
「……ううん、何でもないよ。それより、リーナはどんな短剣がいいの?」
僕は手帳をそっと閉じて、笑ってみせた。
「えっとね、軽くて、握りが手になじむやつ! ノアは、どんな剣がいい?」
「鞭と一緒に使いやすい、扱いやすいやつがいいな」
二人で、あれこれと話し合っているうちに、夜はゆっくりと更けていった。
風と水路の町で過ごす夜はおだやかだった。けれど、窓の向こうの暗がりのどこかで、誰かがまだ僕たちを見ているような気がした。
明日、新しい武器を選んだら、王都へ向かう旅が始まる。
あの黒い手袋の影はまた現れるのだろうか。今夜だけは、考えないことにした。
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