第24話 交換条件
こつ、こつ、とブーツの足音が近づいてくる。
暗闇の向こうに、小さな明かりがぽつんと浮かんだ。
揺れる光の中に、濃紺の外套が見える。
シオンだった。
「……やはり、お前たちか」
シオンは片手に小さなランプをぶら下げて、乾いた石の部屋の入口に立っていた。
明かりに照らされた頬には、小さな傷あてがぺたりと貼ってある。
リーナがぷっと吹き出しそうになって、慌てて口を押さえた。
「何がおかしい」
「な、何も!」
シオンはじろりとリーナをにらんでから、僕に目を向けた。
その外套の裾と靴は、水に濡れて黒ずんでいた。
「水の中を来たんですか?」
「縁を伝ってきた。だが、さっきより水かさが増して、もう縁は沈んだ。戻りは、渡れない」
シオンはぶっきらぼうに答えてから、続けた。
「それより、ここは役所が立入を禁じている場所だ。勝手に入ったのか」
「違います」
僕は胸元から、あの許可の札を取り出した。
「父さんの古い依頼を引き継ぎました。入口は古い井戸で、石の門の奥には近づいていません。役所の条件は守っています」
シオンは札をじっと見て、小さく舌打ちをした。
「エドの依頼、か。……役所の連中は、余計なことを」
それから、ふと部屋の中を見回した。
その視線が壁一面の彫り物に止まった。
「これは……」
シオンの声がわずかに変わった。
ランプを高く掲げて、壁に近づいていく。冷たい目が線と点の一本一本を、食い入るようにたどっていく。
「水路の全体図か。奥の扉まで……。こんなものが、残っていたのか」
「あなたの靴跡は、右の通路に続いていましたよね。そっちはどうだったんですか」
「崩れていた」
シオンは振り返らずに答えた。
「行き止まりだ。それも、自然に崩れたにしては、崩れ方が不自然だった。人の手でわざと塞いだ跡に見えた」
背筋がひやりとした。
僕たちより先に、この水路に入っていた人が、他にもいる。
けれど、シオンはそれ以上は何も言わなかった。壁の端に彫られた細い文字に目を止めたからだ。
右上がりの、父さんの文字だった。
――扉は、鍵だけでは、開かない。
シオンの指がぴたりと止まった。
しばらくその文字を見つめていた。
「……この言い回しは、前にも読んだことがある」
低い声がぽつりとこぼれた。
「前にも?」
「お前には関係ない」
シオンはそう言って、すぐに顔をそむけた。けれど、ランプを持つ手がほんの少しだけ、強く握られていた。
僕はその横顔を、黙って見ていた。
冷たい人だと思っていた。でも今、この人は何かを思い出して、必死にそれを抑え込もうとしている。
シオンは外套の内側から、紙と炭を取り出した。
「この地図を、写させてもらう」
「え?」
「俺はこの水路の奥の扉を調べに来た。この地図は俺の調査に必要だ」
「ちょっと! 勝手に決めないでよ!」
リーナがシオンの前に回り込んだ。
「これは、ノアのお父さんが残した地図でしょ! 先に見つけたのは、私たちなんだから!」
「先に見つけたからといって、お前たちの物にはならない」
「なによ、その言い方!」
二人の間に火花が散りそうになった。
僕は深く息を吸って、口を開いた。
「リーナ、いいよ」
「ノア!?」
「この地図は、僕も写すから。それに今は、地図よりも先に、考えなきゃいけないことがあるんだ」
僕はリーナに向かって、部屋の入口の方を指した。
階段の下では、まだ黒い水がごうごうと音を立てて流れている。
「リーナ、帰り道が水に沈んじゃってるんだ。このままだと、日没までに井戸に戻れないよ。役所の条件を破ることになっちゃう」
シオンはしばらく黙って、水の流れを見下ろしていた。
それから壁の地図に目を戻した。
「……水門の止め方は、ここに書いてある」
シオンは地図の隅の、小さな文字を指でなぞった。
「水の道を閉じる時は、月の印の石を押せ。水の印の石には、触れるな。そう読める」
「じゃあ、月の石を押せばいいんですね」
「その石がどこにあるかが分からない」
シオンは悔しそうに言った。
「読めても、仕組みが見えなければ、動かせない」
その言葉を聞いて、僕は気づいた。
【仕掛け看破】だ。
僕は部屋の壁を見回した。
地図の下の、石の継ぎ目。ほこりに埋もれて、見えにくくなっているところ。
「……あった」
壁の低い位置に、小さな石が二つ、並んで埋まっている。片方には月の形が、もう片方には波の形が刻まれていた。
石の後ろから細い鎖が、壁の奥へ伸びているのが頭の中に浮かんでくる。
「確かに、波の石は押しちゃダメそうです。この鎖は、格子を引き上げる方につながってます。うっかり触れたら、水門が全部開いちゃう」
シオンの眉がぴくりと動いた。
「もう一つは」
「月の石は固くて、一度押しただけだと鎖が噛み合わないみたいです。少し間をおいて、もう一度押す形になってます」
僕は月の石を指さした。
シオンは僕の顔と石を、交互に見つめた。
「……なぜ、そこまで分かる」
低い声だった。
「石の後ろの鎖など、ここからは見えないはずだ。お前は何を見ている」
どきりとした。
【仕掛け看破】のことを、この人にはまだ話したくなかった。
「えっと……なんとなく、そう見えたんです。港で、船の仕掛けをよくいじってたので」
「船の仕掛けと、遺跡の仕掛けを、一緒にするな」
シオンはじろりと僕をにらんだ。
けれど、それ以上は何も聞いてこなかった。
「……まあいい。今は水を止める方が先だ」
シオンが月の石に手をかけた。
僕は波の石から手を離したまま、仕組みの動きを確かめる。
「今です、押してください」
シオンが固い月の石を、ぐっと押し込んだ。
ごとん、と鈍い音が壁の奥で鳴った。けれど、水の音は少しも変わらない。
鎖がまだ噛み合っていないのだ。
「まだです。少し待って……今、もう一度」
もう一度シオンが石を押し込む。
がちり、と何かが噛み合う手応えがあった。
ごとん、と重い音が壁の奥で鳴る。
少しずつ水の音が小さくなっていく。
部屋の外のごうごうという流れが、やがてちょろちょろという細い音になった。
「……止まった」
リーナが目を丸くして、階段の下をのぞき込んだ。
水は膝の高さから、足首の高さにまで、みるみる引いていく。
「やった! 帰れる!」
リーナはぴょんと跳ねて、それからはっとした顔でシオンを見た。
「あ……ありがと、って、言わないからね!」
「勝手にしろ」
そう言うシオンの口の端が、ほんの少しだけ持ち上がったように見えた。
地図を写し終えたシオンは紙を丁寧にたたんで、外套の内側にしまった。
僕も役所の図面の写しの裏に、炭を借りて、地図の大事なところを描き写した。【精密操作】のおかげで、線は思ったよりも正確に写せた。
「お前たち」
シオンが背中を向けたまま、口を開いた。
「俺は今夜のうちに、奥へ向かう。期限のあるお前たちは、さっさと地上へ戻れ。日没を過ぎれば、役所が探しに人を出す。余計な騒ぎは、迷惑だ」
「分かってます」
「それと」
シオンはふと足を止めた。
腰に下げていたもう一つの小さなランプを外して、僕の方にぽんと放ってきた。
僕は慌てて受け止めた。
「落としたのだろう。そんな暗がりを、手探りで帰るつもりか」
「でも、これは……」
「予備だ。返さなくていい。素人に水路でまたおぼれられるよりは、ましだ」
そう言い捨てて、シオンは暗い通路の奥へ歩いていった。
少し離れたところで、ふわりと風が起こった。
足元の水たまりがさあっと払われて、通り道が乾いていく。
シオンの姿はその風の向こうへ、すぐに消えた。
「……あの人、ほんとに口が悪い」
リーナがランプを持った僕の隣で、ぽつりとつぶやいた。
「でも、なんか、悪い人じゃないんだね」
「うん」
僕は小さなランプを、ぎゅっと握りしめた。
冷たい人だと思っていた。でも、あの人は僕が思っているよりも、ずっとまっすぐな人なのかもしれない。
そう思ったのは、僕の方だけではなかったらしい。
ランプの明かりを頼りに、結び目の道しるべをたどって、井戸の底へ戻った。
見上げると、細い空が赤く染まっていた。
日没のぎりぎり手前だ。
「間に合った……!」
ロープを使って、リーナと二人、井戸の縁へよじ登る。
外に出ると、夕焼けの光が目にまぶしかった。
「兄ちゃん! お姉ちゃん!」
ピコが井戸のそばから駆け寄ってきた。
その顔はいつもの元気な笑顔ではなかった。
「どうしたの、ピコ」
「あのね、あのね、さっき、変な人が来たんだ」
ピコは息を切らしながら、僕の袖をつかんだ。
「黒い手袋をした、背の高い男の人。兄ちゃんたちのことを、聞いて回ってたの。灰色の髪の人と一緒にいた、子どもの二人組はどこだ、って」
僕とリーナは思わず顔を見合わせた。
「それで、ピコはなんて答えたの?」
「おいら、知らないって言ったよ! 兄ちゃんたちは、おいらにパンをくれたから。裏切ったりしない」
ピコは胸を張った。
僕はピコの頭を、そっとなでた。
「ありがとう、ピコ」
夕焼けの空の下で、僕は井戸のそばに立ち尽くしていた。
先に水路に入っていた誰か。人の手で塞がれた、崩れた通路。
そして、僕たちを探している、黒い手袋の男。
シオンだけじゃない。
この町の地下には、他にも扉を目指している人がいる。
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