第23話 水路の迷路
水のない石の通路を、僕たちはランタンの明かりだけを頼りに進んでいった。
足音が壁に跳ね返って、いつまでも耳の奥に残る。井戸の底のあの四角い部屋が見えなくなると、世界から色が少しずつ消えていくような気がした。
しばらく歩くと、通路が三つに分かれていた。
左、真ん中、右。どれも同じ幅で、同じように暗闇の奥へと続いている。
僕は役所でもらった図面の写しを広げた。
「……ここで、線が切れてる」
古い紙の上で、通路の線がちょうどこの分かれ道のところで、かすれて消えていた。
「三つのうち、どれが正解なの?」
「分からない。地図はここまでみたいだ」
リーナと二人で顔を見合わせた、その時だった。
足元に、ふと何かが見えた。
ランタンを近づけてみる。厚く積もった埃の上に、靴の跡がくっきりと残っていた。
右の通路の奥へと向かって、点々と続いている。
【追跡】の感覚が、頭の中にすっと広がった。
歩幅は広くて、一定だ。急いでいるわけでも、迷っているわけでもない。道を知っている人の歩き方だった。
跡のふちがまだ崩れていないから、せいぜいここ数日のうちのものだ。
「一人分だ。それも、新しい」
「新しいって……まさか、シオン?」
「分からない。でも、僕たちより先に、ここに入った人がいる」
リーナがぎゅっと短剣の柄を握りしめた。
「どうする? この靴跡の人を、追いかける?」
僕は少しだけ考えて、首を横に振った。
「ううん。僕たちは、父さんの依頼で来たんだ。父さんが通った道を探そう」
とはいえ、どの道が父さんの道なのか、手がかりはなかった。
僕は壁にそっと手をついた。
ひんやりとした石の表面に、細い線がいくつも走っている。
ルナリア島の遺跡で見た、あの紋様だった。
すると、左腕の傷がじんわりと熱を持った。
「……光ってる」
リーナが息をのんだ。
服の袖の下で、傷がかすかに青白く脈打っている。同じ光が壁の紋様の線を、ゆっくりとなぞり始めた。
光は一本の線に集まって、真ん中の通路の奥をまっすぐに指した。
「真ん中だ」
僕たちは真ん中の通路に足を踏み入れた。
しばらく進むと、壁の高いところに、鉄の輪が打ちつけられているのが見えた。
輪には古い縄の切れ端が、ぼろぼろの姿で結ばれたまま残っていた。
僕は背伸びをして、その結び目を見た。
【道具理解】の感覚が指先に伝わってくる。
「この結び方……」
胸の奥がきゅっと締まった。
「リーナ、これ、港の船乗りの結び方だよ。親方に一番最初に教わったやつ。島の穴で見た、父さんの結び目と同じなんだ」
縄は触れたら崩れてしまいそうだった。それでも、結び目の形だけは、十二年たった今もはっきりと残っていた。
「ここが、父さんの道しるべだったんだね」
リーナがそっとつぶやいた。
「うん。父さんは、迷わないように、結び目を残してたんだ」
僕は鉄の輪に、そっと指を触れた。
顔も声も、もうほとんど思い出せない。それでも、この結び目だけは確かに父さんの手が残したものだった。
先へ進む足が、少しだけ軽くなった。
結び目を頼りに、いくつか曲がり角を曲がった。
壁の紋様はだんだん多くなっていく。ところどころに同じ結び目の跡が、道しるべのように残っていた。
そして、通路が少し開けた場所に出た時だった。
【仕掛け看破】が、頭の奥で小さく警告を鳴らした。
床の石の一枚が、他とわずかにつなぎ目が違っている。その下には空洞の気配がある。
壁の高いところにある、鉄の格子の向こうにも何かが仕掛けられている。
「リーナ、ちょっと待って。その石、たぶん――」
「え? なに?」
リーナは天井の紋様に気を取られていて、ちょうどその石に足をかけたところだった。
かちっ、と小さな音がした。
「……あ」
「……あ、じゃなくて!」
ごうん、と壁の奥で、重い歯車が回る音が響いた。
格子がゆっくりと持ち上がる。
次の瞬間、その向こうから冷たい水が、どっと流れ出してきた。
「うわあああ!」
「走って!」
水は乾いていたはずの水路の底を、みるみる満たしていった。足首、ふくらはぎ、膝。冷たさが骨までしみこんでくる。
僕は水路の壁際に、一本の細い縁が続いているのを見つけた。
人の足の幅しかない、石の縁だ。
「あの縁に上がって! 僕が先に行く!」
縁に飛び乗る。
靴の底がぬるりと滑りそうになった。でも、【平衡感覚】が足の裏に、踏みとどまる場所を教えてくれる。
細い縁の上でも、走れる。
「ノア、待って、滑る――!」
後ろでリーナの悲鳴が上がった。
振り向くと、リーナが水に足を取られて、縁から体を傾けていた。
とっさに僕は鞭を放った。
縄の先がリーナの手首に、くるりと巻きつく。両足を踏ん張って、思いきり引いた。
「うおっ……!」
リーナの体が縁の上に、どさりと転がり込んでくる。
その拍子に、僕の手からランタンがすっと離れた。
ぽちゃん。
ランタンは黒い水の中に落ちた。灯りがふっと消えた。
あたりが真っ暗になった。
水の流れる音だけが、暗闇の中にごうごうと響いている。
「ご、ごめん……ほんとにごめん……」
リーナの声が暗闇の中から、小さく聞こえた。
「謝るのは後でいいよ。とにかく今は、この縁を進もう」
僕には見えていた。
【夜目】のおかげで、灰色の景色の中に、縁の続く先と、水路の壁と、その向こうの小さな階段が、うっすらと浮かんでいる。
「リーナ、僕の袖をつかんで。階段があるから、そこまで連れていく」
「……うん」
リーナの指が僕の袖を、ぎゅっとつかんだ。
その指先が少しだけ震えている。
僕たちは細い縁の上を、一歩ずつゆっくりと進んでいった。
階段を上った先は、乾いた石の部屋だった。
水はここまでは届かなかった。僕たちは壁に背を預けて、ようやく息をついた。
「……何も見えない。ほんとに、真っ暗」
リーナが暗闇の中で、手探りで僕の袖を探していた。
「ここは、僕に任せて。目が見えるから」
僕は部屋を見回した。
四角い小さな部屋の壁一面に、びっしりと何かが彫られていた。
紋様ではない。線と、点と、細かな図形が、複雑に重なり合っている。
けれど、今の【夜目】では、形はぼんやりと分かっても、細かい部分がにじんで見分けられなかった。
もう少しはっきり見えたら。
僕は壁に顔を近づけて、目を凝らした。
線の一本一本を、息をつめてじっと見つめる。
その時だった。
視界の端がすうっと赤く染まった。
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◆ 経験変換 ◆
【夜目】が育ちました
Lv1 → Lv2
追加効果:暗闇の中でも、色や細かな文字まで見分けられる
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暗闇がすっと澄んでいった。
さっきまでにじんでいた線が、まるで昼の光の下にあるみたいに、くっきりと見える。
壁に彫られているのは地図だった。
古い水路の、全体の地図だ。
細い通路と、水門と、階段が、いくつも枝分かれしながら、地下に広がっている。そして、その一番奥に大きな丸い印があった。
扉の印だ。
「ノア? 何か見える?」
「うん。地図だよ。この水路の、全部の道が彫ってある」
僕は地図の上に、指を滑らせていった。
今いる部屋から、扉の印までは、いくつもの通路と、いくつもの階段を越えなければならない。
僕たちが井戸の底から歩いてきた道のりの、何倍も遠かった。
そして、その地図の端に小さな文字が刻まれているのに気づいた。
古代の紋様じゃない。
少し右上がりの、細い文字だった。
――扉は、鍵だけでは、開かない。
息が、止まった。
父さんの文字だった。
指先でそっとなぞる。石の表面に細い溝が刻まれている。誰かがここで、小さな道具で一文字ずつ彫ったのだ。
十二年前に。
「……リーナ、ここに父さんの文字がある」
「なんて書いてあるの?」
「扉は、鍵だけでは、開かないって」
暗闇の中で、リーナが小さく息をのむ気配がした。
鍵。
僕の傷のことだろうか。
それなら、鍵だけでは開かない扉に、足りないものは何なのだろう。
リーナの欄にある、あの読めない文字のことが、ふと頭をよぎった。
でも、今はまだ確かめようがない。
僕は首を振って、地図に目を戻した。
「リーナ。ここから扉までは、すごく遠いんだ。日没までに行って戻ってくるのは、たぶん無理だと思う」
「じゃあ、今日はここまで?」
「うん。でも、道は分かった。結び目と、この地図があれば、また来られる」
リーナが暗闇の中で、ふっと笑ったような気がした。
「……ノアが一緒で、よかった。私一人だったら、あの水で今ごろ、おぼれてたかも」
「そんなことないよ。リーナの【跳躍】なら、もっと――」
その時、僕は言葉を止めた。
通路の遠くから、冷たい風が吹いてきたのだ。
【風読み】が、肌にそっと教えてくれる。
ただの風じゃない。
ぐるぐるとうずを巻いている風だ。
風のうずは少しずつ、確かにこちらへ近づいてくる。
そして、風の向こうから、こつ、こつ、とブーツの足音が、響いてきた。
「……リーナ」
「なに?」
「誰か、来る」
僕は鞭を握りしめて、暗闇の向こうをじっと見つめた。
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