第22話 父が残した依頼
その夜、屋根裏部屋の小さなランプの下で、僕は上着を脱いで、うつぶせに寝ころんだ。
「うわ、真っ青になってる」
リーナが井戸の水で濡らした布を、僕の背中にぺたりと当てた。
「いたたたた!」
「動かないの! 柱にあんなに強くぶつかったんだから、当たり前でしょ」
冷たい布の下で、背中がじんじんと脈打っている。
それでも不思議と、後悔はなかった。
「……でも、ノアがあいつの頬に傷をつけた時は、本当にすかっとしたよ」
リーナが布を押さえながら、くすくすと笑った。
僕は枕に顔をうずめたまま、小さく息を吐いた。
「かすめただけだよ。それに、役所の許可がなきゃ、あの縄の向こうには入れないんだ」
「許可、ねえ。でも、シオンが受けた依頼は推奨レベル8でしょ。私たちが受けられるはずないし」
二人ともそこで黙り込んでしまった。
窓の外から夜の風が入ってくる。
ふと、お金の袋の中身を思い出した。今夜の宿代で、手元に残るのは銀貨九枚。あと四泊もすれば、底をつく。
地下に入る方法を見つけなければいけない。それも、できるだけ早く。
次の朝、僕たちは青い看板の依頼所の扉を開けた。
「おや、来たね」
受付の机からマーサが顔を上げた。眼鏡の奥の目が、なぜかにやにや笑っている。
「昨日の夕方、シオンが戻ってきたんだよ。頬に小さな傷あてなんか貼ってね。むすっとした顔で、何も言わずに奥の席に座ってさ」
リーナがぶほっと吹き出した。
「あの子が怪我をして帰ってくるなんて、あたしが知る限り、初めてだよ。あんたたち、何かやったのかい?」
「い、いえ……ちょっと、手合わせを……」
僕が慌てて視線をそらすと、マーサはにやりと笑って、それ以上は聞いてこなかった。
「それで、今日は何の用だい」
「地下水路に入りたいんです。でも、立入禁止の縄があって、役所の許可が要ると言われて」
マーサは眼鏡を押し上げた。
「役所の異変の調査は、もうシオンが受けてるからね。あんたたちには、回ってこないよ」
「分かってます。だから、他に方法がないか、知りたくて」
マーサはしばらく、僕の顔を見ていた。
それから、ゆっくりと立ち上がって、奥の棚からあの古い帳簿を取り出してきた。
「あたしが前に見せたページを覚えてるかい」
マーサが帳簿を机に広げて、あるページを指でとんと叩いた。
――地下水路の古い通路の調査。
受け手の欄には、「エド」とあった。そして、報告書の欄だけが、空白のままだ。
「この依頼は、受け手の人が戻ってこなかったから、役所の中でも、宙ぶらりんのままになってるんだ。期限はとっくに切れてるけどね、帳簿の上では、まだエドの名前が残ってる」
「それを……僕が、受けられるんですか?」
「受け手の家族が、引き継ぎたいと申し出れば、役所で手続きができるはずさ。異変の調査とは別の、古い通路の調査だからね。シオンの邪魔にもならない」
マーサは声を落とした。
「推奨レベルは5。報酬はたったの銀貨三枚。割に合わない依頼さ。だから、誰も手を出さなかった」
僕の胸がどきんと鳴った。
父さんが僕に残してくれた依頼。
「でもね、役所は、堅いよ。エドの息子だと分かる物を、見せなきゃならない」
僕は胸元から、手帳を取り出した。
「これで、どうでしょうか」
マーサは手帳の最初のページを開いた。
そこには、父さんの名前と、港町ポルトの小さな印が押されている。
「……これなら、十分だ」
マーサの目が少しだけ、うるんで見えた。
「行ってきな。あの人の息子が、この依頼を片付けるなんてね。……ほんと、不思議な縁だね」
役所は、町の真ん中の大きな石造りの建物だった。
窓口に座っていたのは、眠そうな目をした、中年の役人だった。
「地下水路の古い通路? ああ、あの宙ぶらりんの依頼ね。今さら、誰が引き継ぐって?」
「僕です。エドの息子の、ノアといいます」
手帳の最初のページを差し出す。
役人はふんふんと眺めてから、奥の棚から薄汚れた紙の束を引っ張り出してきた。ぱらぱらとめくって、ある一枚を見つけると、手帳の文字と見比べる。
「……確かに、同じ癖の字だな。右上がりで、妙に細かい」
役人はあくびをこらえながら、大きな判を取り出した。
「いいだろう。ただし、条件が三つある」
指を折りながら、役人は言った。
「一つ、入口は、坂の下の古い井戸を使うこと。石の門からは、入っちゃいかん。二つ、石の門の奥の、異変の中心には近づかないこと。そこは、シオン殿の調査の持ち場だ。三つ、日没までに必ず戻ること。戻らなければ探しに人を出すが、命の保証はしない」
「分かりました」
「それから、これを持っていけ」
役人は黄ばんだ紙を一枚、窓口からすっと差し出した。
古い地下水路の図面の写しだった。
ところどころ線がかすれて、途中で切れてしまっている。
「欠けているところは、自分で確かめるしかない。……十二年前に、誰も戻ってこなかったからな」
役人はぼそりと言って、判を打った。
ごとん、と重い音がして、許可の札が僕の手に渡された。
坂の下の古い井戸の前で、ピコが待っていた。
「ほんとに許可、もらえたんだ! 兄ちゃん、すごい!」
井戸は、石を積んだ丸い縁が苔だらけの、古い井戸だった。のぞき込むと、真っ暗な穴がずっと下まで続いている。
冷たい空気がひゅうと顔に当たった。
そして、遠くの底のほうから、かすかに音が響いてきた。
ゴウン。
ゴウン。
「……聞こえる」
「これが、夜になるとひどくなるんだ」
ピコがぶるっと身を震わせた。
「おいら、ここまで。ここから先は、行けないよ」
「ありがとう、ピコ。待っててくれる?」
「うん! 日が暮れるまでには戻ってきてよ!」
僕は背負い袋の中身を、一つずつ確かめた。ランタン、油、ロープ、鞭、母さんの小刀、パンと水。リーナの腰には、革紐を巻いた新しい短剣。
ロープの片方を井戸の縁の太い梁にくくりつける。ぎゅっと結び目を引いて、【道具理解】の感覚で確かめた。
大丈夫だ。この結び目は、ほどけない。
「僕が先に降りるよ。下に着いたら、合図するから」
「気をつけてね」
縁にまたがって、ロープを両手でしっかり握る。
下を見ないようにしても、暗闇が足の裏からのぼってくる。
心臓がどくんどくんと、うるさかった。
でも、足は震えない。
【踏ん張り】が体の奥で、静かに支えてくれている。
怖いまま、降りられる。
「……行くよ」
ロープをたぐりながら、一歩ずつ壁を蹴って降りていく。
頭の上の光がだんだん小さくなっていく。ランタンの明かりが、苔だらけの石壁をぼんやりと照らし出した。
深い。思っていたよりも、ずっと。
どれくらい降りただろう。足の下に固い石の床が触れた。
乾いている。水は一滴も流れていなかった。
「着いたよ、リーナ!」
声が石の壁に何度も跳ね返って、遠くまで響いていく。
ほどなくして、リーナが軽やかに降りてきた。
「うわ、広い……」
井戸の底は、四角い石の部屋になっていて、壁の一面に人が通れるほどの穴が口を開けていた。
そこから水のない石の通路が、暗闇の奥へと続いている。
そして、その通路の奥から、また風が吹いてきた。
【風読み】が肌にそっと教えてくれる。
細い筋になって、頬をなでていく、冷たい風。
うずもない。流れもない。ただ、深いところから、にじみ出してくる冷たさ。
石の門で感じたものと同じ風だった。
「……リーナ。この風、やっぱり、同じだ」
「同じって、石の門のと?」
「うん。ここから先は、全部、つながってるんだ」
ランタンを持ち上げて、僕は暗い通路の奥を見つめた。
父さんが十二年前に歩いた道。
僕は今、その入口に立っている。
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