第20話 灰色の髪の青年
次の日の朝、僕たちはもう一度、青い看板の依頼所へ向かった。
ランタンと油、そしてロープをそろえた。リーナの腰には、革紐を巻いた新しい短剣がある。あとは、地下水路のことを少しでも詳しく知りたかった。
依頼所の扉を開けると、昨日までとは少しだけ様子が違っていた。
依頼の板の前に人だかりができていたのだ。
人の隙間からのぞき込んでみる。板の真ん中に、真新しい紙が一枚、大きく貼り出されていた。
――地下水路の異変の調査。
依頼主はマルカの町の役所だった。ここのところ、夜ごと地面の下から響く音と、地下から上がってくる魔物の原因を調べてほしい、という内容だった。
推奨レベルは、8。
そして、報酬は、銀貨十枚。
「銀貨十枚!?」
隣でリーナが目を丸くした。
「これ受けたら、宿代の心配、しばらくしなくていいよ! ねえノア、これにしよう!」
「でも、推奨レベル8だよ。僕たちは、まだ5なんだ」
「そんなの、気合いでなんとかなるって!」
「ならないよ!」
僕たちが言い合っていると、受付の机からマーサが首を振った。
「その依頼は、もう受け手が決まってるよ」
マーサは眼鏡を押し上げて、依頼所の奥を顎でしゃくった。
「ほら、あそこの、奥の席の子さ」
マーサが示した先を見て、僕は思わず息をのんだ。
依頼所の一番奥の、薄暗い席。
あの、灰色の髪の青年が、机の上に古い本を広げて座っていた。
濃紺の長い外套。肩につかない長さの、銀に近い灰色の髪。この前と同じように、たった一人で黙々とページをめくっている。
ピコが言っていた、地下の入口をうろうろしている人。
そして、依頼所で僕たちを見ていた、あの人だ。
「シオン、っていうんだよ」
マーサが声を低くして教えてくれた。
「二十歳そこそこで、この町で一番、古い文献に詳しい調査者さ。腕も確かでね、レベルも8ある。……愛想は、ちっともないけどね」
レベル8。
僕たちより、三つも上だ。ポルトの港で熟練の衛兵と呼ばれていた人たちと、同じくらいの強さだった。
僕はしばらく迷っていた。
けれど、地下のことを知りたいなら、あの人に話を聞くのが、きっと一番の近道だ。
僕は思い切って、奥の席へと歩み寄った。
「あの……」
声をかけても、シオンは本から目を上げなかった。
「地下水路のこと、調べてるんですよね。僕たちも、地下のことを知りたくて。もしよかったら、少しだけ話を……」
「断る」
たった一言だった。
シオンは本から目も上げずに、僕の言葉を切り捨てた。
あまりの素っ気なさに、僕は言葉を失った。隣でリーナがむっと頬を膨らませるのが分かった。
「……すみません。失礼しました」
僕は頭を下げて、その場を離れようとした。
その時だった。
振り返った拍子に、懐から何かがこぼれ落ちた。
ぱさり、と床に落ちたのは、父さんの手帳だった。
落ちた拍子に、手帳が開いて、ページがめくれる。開いたのは、あの紋様のスケッチが描かれたページだった。
慌てて拾おうとした僕より早く、白い手が手帳を拾い上げた。
シオンだった。
さっきまで、一度も本から目を上げなかったシオンが、今は手帳の開いたページを、じっと見つめていた。
切れ長の目が、スケッチの紋様をなぞり、それからページの端の、少し右上がりの文字へと移っていく。
「……この字」
シオンが低くつぶやいた。
「エドの手帳か」
心臓がどくんと跳ねた。
「父さんを、知ってるんですか?」
シオンはすぐには答えなかった。
手帳から顔を上げて、初めて僕の顔を真正面から見る。その目はぞっとするほど冷たかった。
「直接は知らない。だが、名前と、この字は、よく知っている」
シオンの声がひどく冷たく沈んだ。
「エドの息子か。……あの男には、返してもらわなければならないものがある」
「返してもらうって……何をですか? 父さんが、何を……」
僕が問いかけるより早く、シオンは手帳を、僕の胸に突き返した。
それから、僕の顔をじっと見下ろした。値踏みするような、冷たい目だった。やがて、その口の端が皮肉げに、わずかに持ち上がった。
「その目、知っているぞ」
「え……?」
「怖くて仕方がないのに、引き返せない目だ」
ぎくりとした。
足は、もう震えない。それでも、胸の奥をまっすぐに見透かされた気がした。
「怖がりの素人が、地下に首を突っ込むな」
シオンは吐き捨てるように言った。
「足手まといが死んでも、俺は助けない」
「ちょっと!」
黙っていられなかったのは、リーナだった。
リーナは僕の前にずいっと進み出て、シオンを下からにらみ上げた。
「ノアは、怖がりかもしれないけど、私のこと、何度も助けてくれたんだから! 狼の時も、大蛇の時も! 何も知らないくせに、勝手なこと言わないでよ!」
シオンはリーナを、ちらりと見下ろした。
「何も知らないのは、お前のほうだ」
それから、ほんの少しだけ目を細めた。
「……島育ちの子どもが、よくここまで出てきたな」
リーナが言葉に詰まった。
シオンが本を閉じて、静かに席を立った。
その瞬間だった。
ふっ、と冷たい風が依頼所の中を吹き抜けた。
リーナの金色の髪がふわりと舞い上がる。机の上に置かれていた紙が一斉にはためいて、何枚かが床へと散らばった。
僕はとっさに窓を見た。
窓はどれも、ぴったりと閉まったままだった。
前にも感じた、あの風だ。
帳簿のページを勝手にめくった、あの冷たい風。ピコが言っていた、町外れの石の門から吹いてくるという、夏でも冷たい風。
偶然だろうか。
それとも、この人は、地下で起きている何かと、関係があるのだろうか。
シオンは散らばった紙には目もくれず、外套の裾を翻して、依頼所の出口へと歩いていった。
扉の前で、シオンはふと足を止めた。
けれど、振り返りはしなかった。
「地下には、お前たちが思っているより、ずっと厄介なものが眠っている」
背中を向けたまま、シオンは言った。
「……十二年前、エドが、何も残さずにこの町から消えたようにな」
ぎい、と重い扉が開いて、閉まった。
シオンの姿が消えた後も、依頼所の中にはしばらく、ひやりとした空気が残っていた。
僕は父さんの手帳を強く握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。
返してもらわなければならないもの。
何も残さずに、消えた父さん。
あの人は父さんの何を知っているんだろう。
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