第19話 帆と短剣と、路地の子どもたち
その夜、屋根裏部屋の小さな机を挟んで、僕とリーナは遅くまで話し合った。
ピコが言っていた、夜になると地面の下から聞こえる音。倉庫のネズミたちが逃げ出してきた、床下の古い排水口。そして、父さんが報告書を出さないまま、この町を出ていった、地下水路の調査。
全部がこの町の地下を指している。
「行ってみたい。父さんがそこで何を見たのか、知りたいんだ」
僕がそう言うと、リーナは迷わず頷いた。
けれど、今の僕たちには、暗い地下を照らすランタンも、深い穴を降りるためのロープもない。それを買うのに、島のみんながくれた銀貨には、できるだけ手をつけたくなかった。
だから、まずは依頼でお金を稼いで、地下へ降りる準備を整える。それが僕たちの出した答えだった。
毒のしびれがすっかり抜けた翌日、僕たちは二つ目の依頼を受けた。
推奨レベル1の、船の帆の繕いの手伝い。報酬は銅貨十五枚。
依頼の板に残っていた、僕たちに受けられる依頼は、この帆の繕いと、隣町までの荷車の付き添いの、二つだけだった。
「えー、一番安いのにするの? 荷車の付き添いのほうが、十枚も多いのに」
「荷車の付き添いは、隣町まで行って帰ってくるのに、二日もかかるんだ。その間は地下のことも調べられないし、向こうでの宿代だってかかる。帆の繕いなら、今日一日で終わるよ」
リーナは不満そうだったけれど、昨日の大ネズミ退治で、さすがに少しは懲りたらしい。今日は文句を言いながらも、素直についてきてくれた。
依頼の船は、港に停まった大きな商船だった。
甲板に上がると、そこには破れた帆の布と、帆を張ったり畳んだりするための船の綱が、ぐちゃぐちゃに絡まったまま、山のように積み上げられていた。
「おう、依頼所から来たのは、お前さんたちかい」
日に焼けた年配の船乗りが、僕たちを出迎えた。白いひげを短く刈り込んだ、がっしりした体つきのおじいさんだった。
「この前の嵐で、帆も綱も、このありさまでな。若い連中は、みんな荷の積み下ろしに取られちまって、手が足りねえんだ。ほどけるところから、ほどいてくれ」
僕は絡まったロープの山の前にしゃがみ込んだ。
手に取った瞬間、【道具理解】の感覚が指先に伝わってきた。
どこから絡まっていて、どこを緩めれば、全体がほどけていくのか。結び目の一つ一つが、まるで僕に話しかけてくるみたいだった。
それに、ロープを扱うのはポルトの港で毎日やってきた仕事だ。
固く締まった結び目を指先で少しずつ緩めていく。ほどけた綱を使える長さごとにまとめ、擦り切れた所は切り落として、新しく結び直す。
気づけば、山のようだったロープが半分ほど片付いていた。
「……おい、坊主」
背後からおじいさんの声がした。振り返ると、おじいさんは僕が結び直した結び目を、目を細めてじっと見つめていた。
「その結び方、どこで覚えた。港町の、腕のいい親方の結び方だな」
「ポルトの親方に、一番最初に教わったんです」
僕は少し照れくさくなって、頭をかいた。
「……ロープの扱いだけは、昔から褒められるんです」
「だけ、ってこたあねえさ。こいつは、立派な腕だよ」
おじいさんはふっと笑った。
一方、リーナの仕事は帆柱の上だった。
破れた帆の端が、帆柱のてっぺん近くの横木に引っかかったまま、どうしても外れないらしい。若い船乗りでも、怖がって誰も登りたがらなかったのだという。
「私に任せて!」
リーナは言うが早いか、帆柱にしがみついて、するすると登り始めた。
【跳躍】を使うまでもない。まるで島の崖を登るみたいに、身軽に上へ上へと進んでいく。
あっという間にリーナは帆柱のてっぺんにたどり着いた。
「ここ、ハーゲン船長の船の見張り台より高いよ! 町が、全部見える!」
てっぺんで手を振るリーナに、甲板の船乗りたちから、歓声と口笛が飛んだ。リーナは引っかかっていた帆の端を手際よく外すと、得意そうに胸を張って、するすると降りてきた。
仕事を終えると、おじいさんは約束の銅貨十五枚に、五枚を上乗せしてくれた。
「いい仕事ぶりだった。こいつは、おまけだ」
それから、おじいさんはリーナが背負っている銛を、ちらりと見た。
「だがな、嬢ちゃん。その銛は、漁に使う道具だろう。町の狭い路地や、船の上みたいな場所じゃ、長すぎて役に立たねえ。……旅を続けるなら、もう少し短い得物を、一本持っといたほうがいい」
リーナは背中の銛に、そっと手を触れた。
何も言わなかったけれど、その横顔は少しだけ考え込んでいるように見えた。
午後はピコに案内してもらって、市場へ買い物に出かけた。
目当ては、地下水路へ降りる時のための道具だ。暗い場所を照らすランタンと、その油。それに、僕が持っていなかったロープ。
「ランタンなら、この先の雑貨屋が、町で一番安いよ」
ピコに連れられて入った雑貨屋で、リーナが棚の上のランタンを手に取った。値札には銀貨一枚と書かれている。
「このランタン、銀貨一枚? 高すぎ! 銅貨三枚にしてよ!」
「三枚!?」
店のおじさんが目をむいた。
「お嬢ちゃん、それじゃあ、油代にもならねえよ! 冷やかしなら、帰った帰った!」
「ちょ、ちょっと!」
追い出されかけたリーナの袖を、ピコが慌てて引っ張った。
「お姉ちゃん、違う違う! 値切る時は、まず褒めるんだよ!」
「褒める……?」
「そう。いいお店ですね、いい品物ですね、って。それで、ちょっとだけ困った顔をするの。ほら、もう一回!」
リーナは少し恥ずかしそうに咳払いをしてから、もう一度店のおじさんに向き直った。
「……あの。このランタン、すっごく作りが丁寧ですね。こんなに綺麗なの、島では見たことないです。でも、私たち、旅を始めたばかりで、お金があんまりなくて……」
店のおじさんの眉がぴくりと動いた。
それから、リーナとピコに散々褒めちぎられた末に、おじさんはついに根負けしたように、頭をかいた。
「……分かった、分かった。銅貨八枚。これ以上は、まけられねえからな」
「やった!」
リーナはランタンを抱えて、ぴょんと跳ねた。
雑貨屋を出て、市場の奥へ進んだところで、リーナの足がふと止まった。
古道具屋の店先だった。錆びた鍋や、欠けた皿、使い古された道具が、ごちゃごちゃと並べられている。
その隅に、一本の短剣がぽつんと置かれていた。
刃の長さは、前腕ほど。ところどころに細かな刃こぼれがある。けれど、握りの形は手になじみそうで、刃の芯はまだしっかりしているように見えた。
値札には銀貨三枚と書かれていた。
リーナはしばらく、その短剣をじっと見つめていた。
「……ノア」
「うん。分かってる」
おじいさんの言葉が、僕の頭にも残っていた。地下水路は狭くて、暗い。長い銛では、きっと思うように戦えない。
けれど、銀貨三枚は、今の僕たちにとって、あまりにも大きかった。
リーナはピコに教わったばかりの値切りを使って、店の主人と粘り強く話し込んだ。品物を褒め、刃こぼれを指さし、困った顔をしてみせる。主人は渋い顔をしながらも、少しずつ値を下げていった。
「……銀貨二枚。これが、本当にぎりぎりだ」
それでも、まだ高い。ランタンと油を買った後では、ロープを諦めなければならない額だった。
僕が袋の中の銀貨を数えながら迷っていると、リーナがすっと背中の銛を下ろした。
そして、それを店の主人の前に差し出した。
「この銛、下取りに出したら、いくらになりますか」
「え……」
思わず声が出た。
「リーナ、それは……島で、ずっと使ってきた銛じゃないか」
「いいの」
リーナは首を振った。
「島の外で生きていくって、決めたんだから。……それに、狭い路地や地下じゃ、この銛は長すぎて、ノアの足を引っ張っちゃう」
店の主人は銛を受け取ると、穂先と柄を確かめた。
「よく手入れされてるな。……銀貨一枚で、引き取ろう」
銀貨二枚の短剣から、銛の分の銀貨一枚を引いて、残りは銀貨一枚。それなら、ロープも買える。
主人に銛を渡す前に、リーナは銛の握りに巻かれていた古い革紐を、丁寧にほどいた。そして、それをそっと自分の懐にしまった。
古道具屋の主人は気前よく、店の奥の砥石を貸してくれた。
僕は買ったばかりの短剣を、店の裏の井戸端で研ぎ直すことにした。
刃に指を沿わせると、【道具理解】の感覚が刃こぼれの深さを教えてくれる。どこを、どの角度で、どれくらい研げばいいのか。
母さんが毎晩、食堂の小刀を研いでいた姿が、頭に浮かんだ。台所の隅で、しゅっ、しゅっ、と規則正しい音を立てていた、あの背中。
僕はその音を思い出しながら、ゆっくりと刃を砥石に滑らせていった。
しばらくして、研ぎ上がった短剣を陽にかざしてみる。刃こぼれはほとんど目立たなくなっていた。
「母さんが、毎晩この小刀を研いでたのを、ずっと横で見てたんだ」
僕は短剣をリーナに手渡した。
「……よし。新品とまでは言えないけど、これで、ちゃんと切れるよ」
リーナは短剣を両手で受け取ると、しばらく黙って見つめていた。
それから、懐からさっきの革紐を取り出した。そして、それを短剣の握りにゆっくりと巻きつけていった。
「この紐ね、じいちゃんが、私が初めて銛を持った日に、巻いてくれたものなの」
リーナは巻き終えた握りを、そっと握りしめた。
「……これで、島も一緒に連れていける。ありがと、ノア。大事にする。島の銛と、同じくらい」
帰り道、ピコが少しもじもじしながら言った。
「兄ちゃん、お姉ちゃん。……おいらの仲間たちに、会ってくれない?」
ピコに案内されたのは、港の路地の、さらに奥だった。
崩れかけた石の壁の陰に、古い布や木箱を寄せ集めて作った、小さな隠れ家があった。
中から五、六人の子どもたちが、おずおずと顔を出す。みんなピコよりもずっと小さい。
「この兄ちゃんたちが、パンのお金くれた人たちだよ!」
ピコがそう言うと、子どもたちの顔がぱっと明るくなった。
リーナは市場で買っておいた揚げ菓子の包みを広げると、子どもたちに一つずつ配っていった。
あっという間にリーナは子どもたちに取り囲まれた。金色の髪を不思議そうに引っ張られたり、背中によじ登られたりして、もみくちゃになっている。
「ちょ、ちょっと、髪は引っ張らないでってば! 痛い痛い、肩に乗るのはいいけど、一人ずつね!」
それでもリーナは、声を上げて笑っていた。
島でずっと一人ぼっちだったと言っていたリーナが、今、子どもたちの真ん中で笑っている。
その姿を見ていたら、なんだか胸の奥が温かくなった。
日が傾いてきた頃、ピコが地面に木の枝で何かを描き始めた。
「地下水路に降りるなら、入口を教えておくね」
ピコの枝が町の形を、ざっくりと描いていく。港の倉庫の排水口。坂の下の、古い井戸。それから、町外れの、崩れた石の門。
ピコは最後の石の門のところで、枝を止めた。
「でも、ここの入口だけは、おいらたちも近づかないんだ」
「どうして?」
「なんだか、すごく寒いんだ。ずっと奥から、冷たい風が、ひゅうって吹いてくるの。夏でも、だよ」
冷たい風。
その言葉に、何かが頭の隅で引っかかった。
別れ際、ピコがふと思い出したように振り返った。
「あ、そうだ。兄ちゃんたちの他にも、最近、地下の入口をうろうろしてる人がいるんだよ」
「僕たちの、他にも?」
「うん。背の高い、灰色の髪の兄ちゃん。紺色の長い外套を着てて、いつも古い本を読んでるの」
僕は思わず息をのんだ。
依頼所の一番奥の、薄暗い席。閉まっているはずの窓から吹き抜けた、冷たい風。
そして、僕たちをじっと見ていた、あの人だ。
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