第17話 青い看板の依頼所
からん、からん、と、鐘の音で目が覚めた。
屋根裏部屋の小さな窓から、朝の光が差し込んでいる。丘の上の鐘楼が、町じゅうに朝を告げているのだ。
坂の下からは、もう市場の呼び込みの声が聞こえてくる。ポルトの朝も、それなりににぎやかだったけれど、この町の朝はまるでお祭りのようだった。
隣の寝台では、リーナがまだ毛布にくるまって丸くなっていた。
「リーナ、起きて。今日は依頼所に行くんだから」
「……あと少しだけ……島の鶏は、もっと遅く鳴くもん……」
「ここは島じゃないよ。それに、あれは鶏じゃなくて、鐘の音だから」
宿の前に出ると、ピコが待ちきれないといった様子で、ぴょんぴょんと跳ねていた。
昨日よりずっと顔色がいい。前払いのお金で、ちゃんとパンを食べられたのだろう。
「兄ちゃん、お姉ちゃん、おはよう!」
ピコは満面の笑みで駆け寄ってきた。
「みんな、パンすっごく喜んでたよ! 一番小さい子なんて、泣きながら食べてたんだ。今日は約束通り、依頼所までの一番の近道、教えてあげる!」
ピコの案内する近道は、本当に近道と呼んでいいのか迷うような道だった。
家と家の間の、肩がぎりぎり通るほどの細い路地を抜ける。崩れかけた石の階段を一段飛ばしで駆け下りる。軒先に干された洗濯物の下を身をかがめてくぐり抜ける。
「ちょ、ちょっと、ピコ! これ、本当に道なの!?」
リーナが洗濯物の布に頭を突っ込みながら叫んだ。
「道だよ! 大人は通らないけど!」
「それ、道って言わないと思うんだけど……」
僕が苦笑いしていると、路地の先がぱっと明るくなった。
そこは港の大通りだった。
目の前に、三階建ての大きな石造りの建物がそびえている。入口の上には、青く塗られた大きな看板が掲げられていた。
ハーゲン船長が言っていた、青い看板の建物だ。
「ここが、依頼所だよ。おいらは中に入れないから、ここで待ってるね」
ピコに見送られて、僕たちは重い木の扉を押し開けた。
中は思っていたよりずっとにぎやかだった。
一階は、酒場を兼ねているらしい。
まだ昼前だというのに、日に焼けた船乗りや、大きな荷を背負った旅人たちが、長い机を囲んで、大声で笑い合っている。焼いた肉と麦酒の匂いがした。
そして、奥の壁一面に大きな板が掛けられていた。
その板には、何十枚もの紙が隙間なく貼りつけられている。依頼の紙だ。
紙には、依頼の中身と、報酬の額と、それから、「推奨レベル」という数字が書かれていた。
「ねえノア、見て見て!」
リーナが目を輝かせて、板の真ん中あたりの紙を指さした。
「この『推奨レベル15』とか『20』とかの依頼、お金がすっごく多いよ! 金貨って書いてある!」
「その分、危ないってことだよ」
僕は板の端から端まで、ざっと目を走らせた。推奨レベルが5以下の依頼は、板の一番端っこにほんの数枚だけ、ひっそりと貼られていた。
「僕たちが受けられるのは……こっちの端の、この数枚だけみたいだ」
「えー……」
リーナががっくりと肩を落とした。
報酬の欄を見ると、どれも銅貨で数十枚。銀貨に直せば、たった数枚だ。
あの屋根裏部屋は一泊で銀貨二枚。二、三泊もすれば、それだけで消えてしまう額だった。
「依頼を受けるなら、まずは登録だよ」
不意に横から、落ち着いた声がかかった。
振り向くと、受付の机の向こうで、眼鏡をかけた女の人が、帳簿に何かを書きつけていた。四十くらいだろうか。手を止めずに、ちらりと眼鏡の上から僕たちを見る。
「新顔だね。あたしは、ここの受付をしてるマーサ。名前と、どこから来たのかを、この紙に書いとくれ」
差し出された紙に、僕は少し緊張しながら、名前を書き込んだ。
――港町ポルトのノア。
故郷の名前をこんなふうに文字にして書くのは、初めてだった。
ポルトを出て、まだ半月も経っていない。それなのに、その名前がなんだかひどく遠くて、懐かしいものに思えた。
隣でリーナも、ゆっくりと筆を動かしていた。
――ルナリア島のリーナ。
リーナは書き終えた自分の文字を、しばらくじっと見つめていた。
「島の名前、書くの初めて」
それから、小さく笑った。
「……なんか、ちょっとだけ誇らしいかも」
マーサは僕たちの書いた紙を受け取ると、てきぱきと帳簿に写していった。
「ポルトのノアに、ルナリア島のリーナ、と。……はい、これで登録は終わりだよ。依頼を受ける時は、あの板から紙を剥がして、ここへ持ってきな」
「ありがとうございます」
僕は頭を下げた。
それから少しだけ迷って、もう一度口を開いた。ずっと聞きたかったことがあったのだ。
「あの……一つ、聞いてもいいですか」
「なんだい」
「十五年くらい前に、ここで仕事を受けていた人を、探してるんです。名前は、エドっていうんですけど」
マーサの、帳簿をつける手がぴたりと止まった。
ゆっくりと顔を上げたマーサは、眼鏡を押し上げて、僕の顔をまじまじと見つめた。
「……エド?」
マーサの声が少しだけ高くなった。
「船酔いがひどくて、船の護衛の依頼から帰ってくるたびに、そこの隅の長椅子で真っ青な顔して寝てた、あのエドかい?」
マーサが指さした先には、壁際に古ぼけた長椅子が一つ置かれていた。
僕はその長椅子を見つめた。十五年前、父さんがあそこで青い顔をして寝転がっていたのだ。
「たぶん、その人です」
声が少しだけかすれた。
「……僕の、父さんなんです」
マーサは眼鏡の奥の目を、すうっと細めた。
それから、僕の顔をじっくりと眺め回した。
「……ああ、言われてみれば、困ったような眉が、そっくりだ」
マーサはふっと口元を緩めた。
「あの人には、ずいぶん手を焼かされたもんさ。危ない依頼ばかり受けたがるくせに、報告書だけは誰よりも丁寧に書いてくる、変な男だったよ」
マーサは席を立つと、奥の棚のほうへ歩いていった。
しばらくして戻ってきたマーサの腕には分厚い帳簿が一冊、抱えられていた。表紙には白く埃が積もっている。
「十五年前から、十二年前までの記録だよ。普段は、誰も見やしないけどね」
マーサが帳簿を机の上に広げてくれた。
僕は息をのんで、ページをめくった。
エドという名前が何度も、何度も出てきた。
商船の護衛。島の遺跡の噂の調査。山奥の、古い石碑の文字の写し取り。
どの依頼にも、報告書の欄に細かな文字がびっしりと書き込まれていた。
少し右上がりの、癖のある文字。
父さんの手帳と同じ文字だった。
「父さん……」
指先で、その文字をそっとなぞる。顔も声も、もうほとんど思い出せない。それでも、この文字だけは確かに父さんのものだと分かった。
リーナが何も言わずに、僕の隣で一緒に帳簿をのぞき込んでいた。
ページをめくっていくうちに、ふと指が止まった。
一つだけ、報告書の欄が空白のままの依頼があったのだ。
「これだけは、あの人、報告書を出さないまま、この町を出ていっちまったんだよ」
マーサが帳簿をのぞき込みながら言った。
「あんなに律儀な人が、珍しいこともあるもんだって、当時は思ったもんさ」
僕はその依頼の名前を、じっと見つめた。
――地下水路の古い通路の調査。
昨日の夜、屋根裏部屋の床のずっと下から聞こえてきた、あの低い音が、耳の奥によみがえった。
その時だった。
ふっ、と冷たい風が依頼所の中を吹き抜けた。
広げていた帳簿のページがぱらぱらと音を立てて、ひとりでにめくれていく。僕は慌てて手でページを押さえた。
風が吹いてきたほうを振り返る。
けれど、窓はどれもぴったりと閉まっていた。
風が吹き込んでくるような隙間は、どこにもない。
その代わりに、依頼所の一番奥の薄暗い席に、一人の男が座っているのが目に入った。
背が高く、細身の、若い男だった。濃紺の長い外套を羽織っていて、肩につかないくらいの、銀に近い灰色の髪が、薄暗がりの中でぼんやりと光っている。
男は机に肘をついたまま、こちらをじっと見ていた。
目が合った。
切れ長の、冷たい目だった。
けれど、それはほんの一瞬のことで、男はすぐに興味を失ったように、ふいと視線を外した。それから、手元の古い本へと目を落とす。
今の風は、どこから吹いたんだろう。
それに、あの人。さっきからずっと、僕たちのほうを見ていた気がする。
喉の奥がほんの少しだけ、ひやりとした。
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