第16話 マルカの追いかけっこ
その瞬間、視界の端に赤い光が浮かんだ。
こんな時に、と思いながらも、僕は光の板を見つめた。
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◆ 経験変換 ◆
「初めての、盗まれる悔しさ」を検知
力に変えますか?
① 【追跡】 一度見た相手の逃げる先を、読み取れる
② 【用心】 自分の持ち物に近づく手に、気づける
③ 【人波抜け】 人混みの中でも、ぶつからずにすり抜けられる
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【用心】があれば、もう二度と盗まれずに済む。でも、今盗まれた袋はそれでは戻ってこない。
【人波抜け】なら、追いかけやすくはなる。それでも、この町の道を何一つ知らない僕では、きっとすぐに見失ってしまう。
今、島のみんなの銀貨を取り戻すために必要なのは、あの子がどこへ逃げるのかを読む力だ。
「……①だ」
選んだ瞬間、目に映る人混みが少しだけ違って見えた。
その向こうに、ぼろぼろの服がちらりと見えた。
さっきの男の子だ。見失ったはずの小さな背中が、なぜかはっきりと目に飛び込んでくる。人と人の隙間を縫うようにして、どんどん遠ざかっていく。
「リーナ、あそこ! さっきぶつかってきた、ぼろぼろの服の子だ! あの子が袋を持ってる!」
僕が指さした先を見て、リーナの目がきっと鋭くなった。
「任せて!」
僕の袖を離して、リーナが駆け出した。
「逃げ足なら、島で一番だって言ったでしょ! ……追いかける足も、一番なんだから!」
言い終わるより早く、リーナの姿が人の波の中へ消えた。
【疾風】だ。金色の髪が、行き交う人たちの肩の間を一筋の光のようにすり抜けていく。
けれど、男の子のほうが一枚上手だった。
この町の道を知り尽くしているのだ。
右へ曲がったかと思えば、すぐに左の細い路地へ飛び込む。屋台の台の下を身をかがめてくぐり抜け、積み上げられた樽をひょいと飛び越える。
リーナがどれだけ速くても、道を知らなければ、曲がり角のたびに見失ってしまう。
「ちょっと、待ちなさいってば! なんでそんな狭いところを通れるのよ!」
人混みの向こうからリーナの悔しそうな声が聞こえてきた。
僕はリーナほど速くは走れない。このまま後を追いかけても、追いつけるはずがなかった。
だったら、どうする。
僕は走りながら、通りを見上げた。
通りの両側の店から、看板を吊るすための鉄の棒が、道の上へと突き出している。いくつも、いくつも。まるで空中に並んだ手すりのように。
男の子は今、右の角を曲がっていった。
その瞬間、頭の中にあの子が次に向かう先が、ぼんやりと浮かんだ。角を曲がった先で、あの子はきっともう一度右へ折れて、こちらへ戻ってくる。【追跡】がそう教えてくれている気がした。
だったら、あの角の先へまっすぐ先回りできれば。
僕は腰の鞭を抜いた。
一番近い看板の棒に向かって、思いきり振り上げる。縄が宙を走り、鉄の棒にくるりと巻きついた。
「すみません、通ります!」
鞭を握りしめて、地面を蹴る。
体がふわりと宙に浮いた。人の頭の上を、屋台の屋根の上を、振り子のように大きく越えていく。
下で果物売りのおばさんが、「ひゃあ!」と声を上げるのが聞こえた。
角の先に木箱が積み上げられているのが見えた。
鞭から手を離す。足が木箱の上をとらえる。ぐらりと崩れかけた箱の上でも、【平衡感覚】のおかげで体はぴたりと止まった。
ちょうどその時、角を曲がってきた男の子と目が合った。
男の子がぎょっとして足を止める。
「な、なんで、前にいるの!?」
慌てて来た道を引き返そうとする。けれど、その先にはもうリーナが立ちはだかっていた。
「はい、挟み撃ち! もう逃げられないよ!」
リーナは腰に手を当てて、得意そうに胸を張った。
「ずるい! 二人がかりなんて、ずるいよ!」
「人のお金を取るほうが、ずっとずるいと思うんだけど……」
僕は木箱から飛び降りながら、思わずため息をついた。
人通りの少ない路地の奥で、男の子はしょんぼりとうつむいていた。
両手で差し出してきたのは、見覚えのある布の袋だった。島のみんながくれた、銀貨の袋だ。
「……ごめんなさい」
蚊の鳴くような声だった。
近くで見ると、本当に小さな子だった。たぶん、九つか十くらいだろう。
服はあちこち破れていて、手足は驚くほど細かった。
「名前は?」
「……ピコ」
「ピコ。どうして、こんなことしたの?」
ピコはしばらく唇を噛んでいた。それから、ぽつりぽつりと話し出した。
ピコには、親がいない。港の路地の奥で、同じような子たちと何人かで肩を寄せ合って暮らしている。
その中には、ピコよりもっと小さな子もいるのだという。
「昨日から、みんな何も食べてないんだ。市場で売れ残りのパンを買うお金が欲しくて……」
ピコはぎゅっと服の裾を握りしめた。
「兄ちゃんたち、旅の人でしょ。旅の人なら、お金いっぱい持ってると思って……」
路地に沈黙が落ちた。
すると、リーナがすっとピコの前にしゃがみ込んだ。目の高さをピコに合わせるようにして。
「……私もね、島でずっと一人ぼっちだったの」
リーナの声はさっきまでの強気な声とは違って、とても静かだった。
「周りから変な子だって言われて。島の外から来た子だって。だから、ちょっとだけ分かるよ。お腹が空いてるのに、誰にも頼れないのって、すごく心細いよね」
ピコがはっとしたように顔を上げた。
僕は受け取った袋を、ぎゅっと握りしめた。
島のみんなが少しずつ出し合ってくれた、大事なお金だ。かわいそうだから、と、ただ分けてあげるわけにはいかない。
けれど、このまま放っておくこともできなかった。
僕は少し考えてから、ピコの前にしゃがみ込んだ。
「ねえ、ピコ。僕たち、この町は初めてで、どこに何があるのか、全然分からないんだ。泊まる宿も、依頼所の場所も、どの店が安いのかも」
「……うん」
「だから、ピコに案内役を頼みたいんだ。僕たちがこの町にいる間、道案内をしてくれないかな。もちろん、ちゃんとお代は払うよ」
僕は袋から銅貨を何枚か取り出して、ピコの小さな手のひらにそっと載せた。
「これは、前払い。まずはこのお金で、みんなでパンを食べて。……その代わり、もう人のお金は取らないって約束して」
ピコはしばらく、ぽかんと口を開けていた。
ピコの目が、手のひらの銅貨と僕の顔を何度も行き来する。やがて、その目にじわりと涙がにじんだ。ピコは銅貨を握りしめたまま、ぶんぶんと何度も頷いた。
「約束する! 絶対、絶対に約束する!」
隣でリーナがくすっと笑った。
「あんた、怖がりのくせに、こういう時だけ頭が回るよね」
ピコは袖で乱暴に目元をぬぐうと、ぱっと顔を上げた。
「任せてよ! 安くて親切な宿も、市場で一番安い店も、依頼所への近道も、おいら、全部知ってるんだから!」
ピコの案内で歩く市場は、さっきまでとはまるで違って見えた。
どの店が安くて、どの店が高いのか。どの屋台の串焼きが一番おいしくて、どの店のおじさんが値切りに応じてくれるのか。ピコは何でも知っていた。
けれど、その市場で一番の難敵は、リーナだった。
「ねえノア、この赤くて、とげとげした果物、一個だけ! 一個だけでいいから!」
リーナが山盛りの果物の前で、目を輝かせている。さっき、港の通りで見かけた、あの果物だ。
「それ、銀貨一枚もするよ」
ピコが呆れたように言った。
「お姉ちゃん、この町じゃ、すぐお金なくなるよ」
「ぎ、銀貨一枚!?」
リーナが果物を持ったまま固まった。
「島なら、果物の籠ごと買えちゃうのに! この町の人って、みんなお金持ちなの!?」
「お金持ちじゃないよ。この町は、なんでも高いんだ」
「じゃ、じゃあ、こっちの串焼きは!?」
「それも、銅貨八枚」
「八枚!?」
リーナは次から次へと手を伸ばしかけては、値段を聞いて青ざめていく。その横で、僕とピコは二人がかりでリーナの袖を引っ張り続けた。
結局リーナは、ピコが教えてくれた一番安い屋台で、銅貨二枚の小さな揚げ菓子を一つだけ買った。
そして、それを三つに割って、僕とピコに分けてくれた。
「……三人で食べたほうが、おいしいでしょ」
リーナは少し照れくさそうに、そっぽを向いた。
ピコが案内してくれた宿は、港から少し坂を上った先にある、古いけれど清潔な宿だった。
その宿の、一番安い屋根裏部屋。それでも、一泊、銀貨二枚。
僕は宿のおかみさんに銀貨を渡しながら、袋の中に残った銀貨の数をこっそりと数えた。島のみんなの気持ちが、一枚、また一枚と、減っていく。
明日からは、ちゃんと稼がないといけない。
宿の前で、ピコは名残惜しそうに僕たちを見上げた。
「兄ちゃん、お姉ちゃん、今日はありがとう。また明日、依頼所までの近道、教えに来るね」
「うん。ピコも、みんなと一緒にちゃんとご飯食べてね」
ピコは元気よく頷いて、走り出しかけた。
けれど、数歩行ったところでふと足を止めて、振り返った。
「あ、そうだ。兄ちゃんたち、夜はあんまり、港の下の水路に近づかないほうがいいよ」
「水路?」
「この町の地面の下には、古い水路が迷路みたいに広がってるんだ。今はもう水がほとんど流れてない通路もあって、おいらたち、寒い夜とか、大人に追いかけられた時とかは、そこに隠れたりするんだけど……」
ピコは少しだけ声をひそめた。
「最近、夜になると地面の下から、変な音がするんだ。ゴウン、ゴウンって。路地のみんな怖がって、もう誰も下に降りなくなっちゃった」
それだけ言うと、ピコは今度こそ人混みの中へ駆けていった。
その夜、屋根裏部屋の小さな窓から、僕は夜のマルカを見下ろしていた。
丘の斜面いっぱいに、家々の灯りが星のように散らばっている。港には何隻もの船の灯りが揺れていた。
ポルトの夜とは比べものにならない、にぎやかな灯りだった。
僕は小さな机に向かって、母さんへの二通目の手紙を書いた。
――母さんへ。生きてます。
――マルカという、とても大きな町に着きました。人がたくさんいて、物の値段が、ポルトの何倍もします。
――今日、町の子と友だちになりました。明日から、依頼所で仕事を探します。
――約束は、三つとも守ります。
書き終えた手紙をたたんで、灯りを消そうとした、その時だった。
足元の、床の、そのずっと下のほうから。
ゴウン……と、低い音がかすかに響いてきた。
僕は手を止めて、じっと耳を澄ませた。
隣の寝台で、もう寝息を立てているリーナは、気づいていないようだった。
音はそれきり聞こえなかった。
けれど、確かに聞こえた。ピコが言っていた、あの音だ。
僕は左腕の傷に、そっと手を当てた。
ほんの少しだけ熱を持っている気がした。
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