第15話 港町マルカ
ルナリア島を出て、海賊に襲われたあの日から、数日が過ぎた。
ハーゲン船長の船の上で、僕たちは毎日、船の仕事に追われていた。
僕の担当は、ロープの手入れだ。潮に濡れては乾くを繰り返すロープは、放っておくとすぐに傷んでしまう。
ほつれを見つけては結び直し、擦り切れかけた所には油を染み込ませる。港で毎日やっていた仕事なので、手が勝手に動いてくれた。
一方、リーナの担当は、帆柱のてっぺんにある見張り台だった。
そして、そのリーナは見張り台がすっかり気に入ってしまったらしい。朝に登ったきり、昼を過ぎても一向に降りてこない。
「ノアー! ここ、すっごく気持ちいいよ!」
はるか頭上からリーナの声が降ってきた。
「島の一番高い崖より、ずっと遠くまで見える! 海って、どこまで行っても終わらないんだね!」
「見張りなんだから、景色じゃなくて、ちゃんと海を見ててよ! さっき船長に、居眠りしてたら下ろすぞって言われてたじゃないか!」
「居眠りなんてしてないもん! ちょっと目をつぶって、風の音を聞いてただけ!」
「それを居眠りって言うんだよ!」
甲板にいた船乗りたちがどっと笑った。
僕がため息をつきながらロープの結び目を締め直していると、背後に人の気配がした。
振り返ると、ハーゲン船長が、腕を組んで僕の手元を見下ろしていた。
船長はしばらく何も言わずに、僕が結んだ結び目を眺めていた。それから、ぼそりと一言だけこぼした。
「……結び方だけは、親父よりよっぽどましだな」
それだけ言うと、船長はくるりと背を向けて、舵のほうへ戻っていった。
褒められた、のだと思う。たぶん。
僕はなんだかくすぐったい気持ちで、次のロープに手を伸ばした。
その日の昼過ぎだった。
「ノア! ノア、見て! 何か見える!」
見張り台のリーナが今度は今までで一番大きな声を上げた。
甲板にいた全員が一斉に船の進む先を見る。僕もロープを放り出して、船べりへ駆け寄った。
水平線の向こうに何かが見えてきていた。
最初は海の上に、細い棒がたくさん生えているように見えた。けれど、船が近づくにつれて、それが何なのか分かってきた。
船の帆柱だ。
数えきれないほどの帆柱が港にずらりと並んでいる。その向こうには、丘の斜面を埋め尽くすように、赤や黄色、青い屋根の家々が、どこまでも重なって続いていた。
丘のあちこちには、空に向かって突き出すようにいくつもの鐘楼が建っている。
僕は言葉を失った。
港町ポルトと、ルナリア島。僕が知っている場所は、その二つだけだ。
その二つを合わせても、目の前の町の、港の端っこにさえ届かない気がした。
「ねえ、あれ、全部町なの!?」
見張り台からリーナが身を乗り出して叫ぶ。
「島の人を全員集めても、あの港の端っこにも足りないよ! あんなにたくさんの家に、いったい何人住んでるの!?」
「ポルトの何倍……いや、何十倍あるんだろう」
僕は船べりを握りしめたまま、ぽかんと町を見上げていた。
「僕、こんなに大きな町、見たことない」
隣に来た船乗りの一人が、にやりと笑った。
「あれが、マルカだ。この辺りの海じゃ、一番でかい交易の町さ。世界中の船が、あの港に集まってくるんだぜ」
マルカ。
僕はその名前を、口の中で小さく繰り返した。
船が港に着くと、そこはまるで別の世界だった。
聞いたことのない言葉があちこちで飛び交っている。肌の色も、服の形も、髪の色も、行き交う人たちはみんなばらばらだった。
大きな荷を担いだ船乗りたちが、威勢のいい声を上げながら桟橋を走り回っている。その脇では、果物を山盛りにした屋台が、色とりどりの布を張って客を呼び込んでいた。
鼻をくすぐるのは、潮の匂いだけじゃない。嗅いだこともない、ぴりりとした香辛料の匂い。焼いた肉の匂い。甘い焼き菓子の匂い。
それに混じって、丘の上の鐘楼から、からん、からんと鐘の音が降ってくる。
渡り板を降りた途端、僕たちは人の波に飲み込まれた。
「ちょ、ちょっと待って……」
隣でリーナがふらふらと足をもつれさせた。
「人が多すぎて、どっちに歩けばいいか分かんない……。島じゃ、道で人とぶつかるなんて、一年に一回あるかないかだったのに」
「さっきから、もう三回ぶつかってるもんね」
「四回だよ! さっきの大きいおじさんで、四回目!」
リーナは本気で目を回しているようだった。
見張り台の上では、あんなにはしゃいでいたのに。高い所は平気でも、人の多い所はまるで駄目らしい。
僕は少しだけ迷ってから、自分の袖を差し出した。
「僕の袖、つかんでて。はぐれたら、この町じゃ二度と見つけられない気がする」
リーナは一瞬きょとんとしてから、素直に僕の袖をぎゅっとつかんだ。
暗い遺跡の通路で、リーナが同じように僕の袖をつかんだ時のことを、ふと思い出した。
あの時は、真っ暗な闇の中だった。今は、まぶしい昼間の、人の波の中だ。
場所はまるで違うのに、袖を引く指の感じは、あの時と少しも変わらなかった。
桟橋の端で、ハーゲン船長が船乗りたちに指示を出しながら荷を下ろしていた。
僕たちが近づくと、船長は手を止めて、こちらを振り返った。
「俺の船は、ここで荷を積み替えて、また島と港町を回る」
船長は、いつもの短い言葉で言った。
「ここから先は、お前たちだけだ」
「ここまで、本当にありがとうございました」
僕は深く頭を下げた。
「船長がいなかったら、僕たち、島にも、この町にも来られませんでした。船の仕事も、たくさん教えてもらって」
「礼はいらん」
船長はふんと鼻を鳴らした。それから、港の奥へ続く大きな通りを顎でしゃくった。
「依頼所なら、港の通りをまっすぐ行った先の、青い看板の建物だ。金がないなら、まずはそこへ行け」
「はい! ありがとうございます!」
リーナも僕の袖をつかんだまま、ぺこりと頭を下げた。
「船長、見張り台、すっごく楽しかった! また乗せてね!」
「……居眠りしない奴なら、いつでも乗せてやる」
船長はほんの少しだけ、口の端を持ち上げた。
それから背を向けて船へ戻りかけて、ふと足を止めた。
「坊主」
振り返った船長の顔はいつになく真剣だった。
「この町は、ポルトとは違う。人は多いが、全員が親切なわけじゃない。……財布は、懐の奥にしまっとけ」
それだけ言うと、船長は今度こそ振り返らずに、船の中へと消えていった。
僕とリーナは顔を見合わせた。
「財布、だって」
「うん。島のみんながくれた銀貨の袋、ちゃんとここに入ってるよ」
僕は胸元の懐を、ぽんと叩いてみせた。手のひらに銀貨の固い感触が返ってくる。
大丈夫。ちゃんとある。
「よし、行こう。まずは、依頼所だ」
僕たちは人の波をかき分けるようにして、港の大通りを歩き出した。
両側には、見たこともない品物を並べた店が、どこまでも続いている。リーナは袖をつかんだまま、首があちこちに回りっぱなしだった。
「ねえノア、あれ何!? 赤くて、とげとげしてる果物!」
「分からないよ、僕も初めて見る」
「じゃあ、あっちの、ぐるぐる回ってる肉は!?」
「それも分からない!」
その時だった。
人混みの中から小さな影が飛び出してきた。
どん、と腰のあたりに何かが勢いよくぶつかる。
見下ろすと、僕の胸くらいの背丈しかない、ぼろぼろの服を着た男の子が、尻もちをついていた。
「ご、ごめんなさい!」
男の子は慌てて立ち上がると、ぺこりと頭を下げた。そして、そのまま人混みの中へあっという間に駆けていってしまった。
「大丈夫だったかな、今の子」
「うん、ちょっとぶつかっただけみたい」
僕は服の埃を払いながら、何気なく胸元の懐に手をやった。
そして、手が止まった。
さっきまで、確かにそこにあった、固い感触がない。
懐の中を何度も探る。指先に触れるのは、薄い布の感触だけだった。
喉がからからに渇いていく。
「……ない」
「え?」
リーナがきょとんと僕を見る。
僕はさっきの男の子が消えた人混みを、呆然と見つめた。
「島のみんながくれた、銀貨の袋が……ない!」
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