9.隠された取引
新聞記者のアスターと話してから、数日が経った。
その日の午後、私はヘレン奥様と一緒に買い物から戻ったところで、アルバート様に呼び止められた。
「エラ、少しいいかな。君の叔母上から手紙が届いているよ」
「叔母様から?」
差し出された封筒には、見覚えのある筆跡で私の名前が書かれていた。
エリザ叔母様とは、伯爵家を出て以来会っていない。
封を切ると、伯爵家の財産整理がほぼ終わり、私に残せる金額が確定したという内容だった。家や土地を売却し、借金を精算したあとに残った金額は、想像していた通りほとんどない。――それでも、今の私にとっては大切なお金だ。
「このあたりの手続きは、私も確認しておこう」
アルバート様がそう言って、私にも精算書類を見せてくれた。
「……私も見ていいんですか?」
「もちろん。君自身の財産だからね」
私は書斎の机に座り、渡された帳簿へ目を落とした。
クロエに何年も帳簿をつけさせられていたおかげで、何が書かれているのかはだいたい理解できた。
お父様は、本当にいろいろなところからお金を借りていた。
銀行。商人。知人。高利の貸金業者。
その名前を一つずつ追っていたとき、私は見慣れない記載に気づいた。
「……アルバート様」
「どうした?」
「これなのですが……」
私は一行を指した。
そこには、”ロベルト・ヴァレンティン”という名前があった。
国王陛下とも血縁のある老公爵だ。
クロエに読まされたゴシップ記事で、何度か目にした名前だった。
“贅沢好き”の貴族として、批判的な記事に何度か名前が出ていた記憶がある。
「ヴァレンティン公爵のことでしょうか?」
アルバート様も帳簿を覗き込む。
私は次の頁をめくった。
次の頁にも、その次の頁にも、同じ名前があった。
お父様が別の相手から借りていた金の一部を、ヴァレンティン公爵が肩代わりしている。
「……こんなに?」
私は眉をひそめた。
「ロベルト・ヴァレンティン……あの、ヴァレンティン公爵ですよね」
「ああ。現国王陛下とも血縁のある大貴族だ」
「どうして、お父様の借金を払っているんですか?」
アルバート様は少し考えた。
「それは、この帳簿だけではわからないな」
「お父様と親しかったんでしょうか」
「社交上の付き合いがあった可能性はある。ただ、この金額となると……」
アルバート様は言葉を濁した。
「普通ではない?」
「何の見返りもなく、これだけの金を肩代わりする人間は少ないだろうね」
“見返り”――その言葉に、胸の奥がざわついた。
◇◇◇
次の休日――私は郊外にあるエリザ叔母様の屋敷を訪ねた。
応接間で待っていると、叔母様は少し驚いた顔をして入ってきた。
「エラ。どうしたの?」
「お話があります」
「財産のことなら、手紙に書いたでしょう」
「それも読みました。でも、今日は別のことです」
叔母様の顔から笑みが少し消えた。
「何?」
「お父様の帳簿を見ました」
「……そう」
「ヴァレンティン公爵が、お父様の借金を肩代わりしていました」
叔母様の指が、膝の上でわずかに動いた。
私はそれを見逃さなかった。
「叔母様は、知っていたんですか?」
「……兄には、いろいろな付き合いがあったから」
「公爵との?」
「そうね」
「どんな?」
「そこまでは知らないわ」
――返答が早い。
私は叔母様をじっと見つめた。
「お父様の書斎に、ヴァレンティン公爵からの手紙はありませんでしたか?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
「帳簿だけでは、何のためのお金だったのかわからないからです」
「もう済んだことよ」
叔母様は少し苛立ったように言った。
「借金は精算された。あなたに残るお金も決まった。それで十分でしょう」
「……」
あの日のことを思い出した。
――伯爵家を出る前。
お父様の書斎で、叔母様が暖炉の前に立っていた。
燃えかけた紙。
『少し寒かったから』
そう言っていたけれど――
「叔母様」
「何?」
「本当に、何も知りませんか?」
叔母様は私の目を見なかった。
その瞬間、胸の中に黒いものが広がった。
「……わかりました」
私は立ち上がった。
これ以上聞いても、今は何も話してくれない。
でも――叔母様は、何かを知っている。
それだけはわかった。
◇◇◇
屋敷を出たあと、私はしばらく通りを歩いた。
どうしよう。アルバート様に相談する?
警察?
……でも、まだ何もわかっていない。
頭に浮かんだのは、先日の新聞記者、アスターだった。
にこにこ笑って、人の家の事情を嗅ぎ回る。
『新聞記者は、人の屋敷の隅を嗅ぎ回って、秘密を拾ってくる鼠なんだそうです』
「……”鼠”」
アスターなら、何か知っているだろうか。
◇◇◇
『王都新報』の編集部は、思っていたより騒がしい場所だった。
机の上には紙が山積みになり、あちこちで男たちが声を上げている。
インクと煙草の匂いが混ざっていた。
「アスター・スヴェナさんはいらっしゃいますか?」
受付で聞くと、奥から聞き覚えのある声がした。
「俺?」
振り向いたアスターが、私を見て目を丸くする。
「……エラさん?」
「少し、話があります」
アスターは一瞬驚いたあと、すぐに口元を緩めた。
「これは、これは。わざわざ鼠の巣まで来てくれるとは」
「……帰りますよ」
アスターは栗色の巻き毛を掻いた。
「すみません、こちらへ」
◇◇◇
近くの喫茶店へ移動し、私は帳簿のことを話した。
「ヴァレンティン公爵?」
それまでの軽い表情から、笑みが消えた。
「知ってるんですか?」
「有名人ですからね」
「国王陛下の親戚なんでしょう?」
「ええ。王家とも遠くない血筋で、爵位も財産もある。若い頃はかなりの美男だったそうです」
「……今も?」
アスターはまた軽い表情に戻った。
「……今は立派なお腹をしてます」
私は少し呆れて、でも少し緊張が解けて、コップに入ったジュースを一口飲んでからアスターに聞いた。
「……アスターさん、公爵について、何か知っていますよね」
アスターは黙って私を見た。
「……これは、まだ記事にできるほど裏が取れていない話です」
私は身を乗り出した。
「それでも……聞かせてください」
アスターは少し迷ってから、声を落とした。
「ヴァレンティン公爵には、若い娘を好むという噂があります」
「若い……? どのくらいですか?」
嫌な予感がした。
アスターは声を小さくした。
「……十四、十五くらいの少女を好む、と」
喉が詰まる。
「……子どもじゃない」
「俺もそう思います」
アスターは真顔だった。
「特に金髪の娘が好みで――貧しい家の娘や、身寄りの弱い娘を“保護”すると称して別邸へ入れる。何年かするとその少女は姿を消す。それを何度も繰り返している、と」
「……何年かすると?」
「……飽きるんだそうです」
胃の奥が気持ち悪くなった。
「そのあと、その子たちはどうなるの?」
「わかりません。別の金持ちの男へ渡されるという話もあります。ただ、噂の域を出ていない」
「そんな人が……」
私は手を握った。
「お父様に、お金を?」
「もし本当に公爵がシモンズ伯爵の借金を肩代わりしていたなら」
アスターは慎重に言葉を選んだ。
「何か見返りがあったと考える方が自然ですね」
「見返り……」
アルバート様が言っていたのと、同じ言葉。
「伯爵には、何か公爵に渡せるものがあったはずです」
そのとき――アスターが、私を見た。
視線が私の髪に止まる。
「……何?」
私は自分の髪を触った。
……金色の髪。今は肩より少し下まで伸びている。
――胸の奥が冷たくなった。
「十四、十五歳……」
さっきのアスターの言葉を復唱する自分の声が、遠く聞こえた。
私は十五歳だ。
父が私の容姿を褒め始めたのは、一年ほど前。
『ずいぶん美人になったな』
そう言って、久しぶりに頭を撫でてくれた。
……髪飾りまで買ってくれた。
『これからはもっと外へ出た方がいい』
そう言っていた。
なのに、クロエは髪飾りを取り上げた。
『必要ないわ』
外へ出るなと言った。
父の客の前には絶対に出るな、と。
心臓の音が速くなった。
「公爵が好むのは、金髪なんですか?」
震える声で聞くと、アスターは頷いた。
「……そういう噂です」
「年齢は十四歳とか、十五歳?」
「はい」
「お父様が、お金を借り始めた時期は……」
頭の中で帳簿の日付が浮かぶ。
ヴァレンティン公爵の名前が増え始めた時期。
だいたい、一年前。
私が十四歳になった頃だった。
ぞっとした。
「……見返りは、私?」
口にした瞬間、体が震えた。
アスターはすぐには答えなかった。
「まだ、そうだとは言えません」
しばらくの沈黙のあと、アスターは呟いた。
「……可能性はあります」
私は椅子から立ち上がった。
「どこへ?」
「叔母様のところへ、行ってきます」
◇◇◇
エリザ叔母様の屋敷へ戻ると、私は取次も待たず、応接間へ入った。
「エラ?」
叔母様が驚いて立ち上がる。
「どうしたの、また」
「叔母様」
息を整える。
「お父様の書類に、ヴァレンティン公爵との手紙がありましたよね」
「……」
「お金のことだけじゃなくて」
叔母様の顔色が変わった。
――それで、十分だった。
「お父様が、私を公爵に渡すというような書簡がありましたか?」
「エラ」
「ありましたね?」
「……」
「答えてください!」
叔母様は目を閉じた。
長い沈黙のあと、絞り出すような声で叔母様は呟いた。
「……あったわ」
頭の中で、父親の優しい笑顔が砕けた。
「……どこにありますか」
「――ないわ」
「どうして?」
「燃やしたから」
私は叔母様を見つめた。
叔母様が、屋敷で何かを燃やしていた。
あの日、暖炉に残っていた燃えかけの紙を思い出す。
――頭の中で、ぜんぶがつながった。
「どうして……!」
「残しておいて、何になるの?」
叔母様は立ち上がった。鋭い声が私を刺す。
「お兄様は――あなたの父親は、もう死んだのよ」
「だからって」
「あなたはもう新しい生活を始めている。ちゃんとした家に雇ってもらって、働いている。それでいいじゃない」
「……よくありません」
「どうして?」
「お父様は私を売ろうとしていたんですよ!」
叔母様は大きく息を吐いて、頭を抱えると私を見た。
「……声を落としなさい」
「どうして!」
叔母様は眉を寄せた。
「家名を汚すつもり?」
その言葉に、私は黙った。
「あなたにはもう関係のないことよ。兄が何を考えていたとしても、取引は成立しなかった。あなたはもう、ヴァレンティン公爵のところへ行くこともない。それなら、もう終わったことでしょう」
「……終わった?」
「そうよ」
「私が知らなければ、それで終わったことになるの?」
「エラ」
「お父様が私を何だと思っていたのか、知らないままでいろってことですか?」
「あなたを傷つけたくないのよ」
「違う」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
「叔母様が守りたいのは、私じゃない」
叔母様の顔が強張った。
『それだけではないの』
伯爵家を出るとき、叔母様はそう言いかけていた。
自分の娘たちの縁談。嫁ぎ先。そういうことを、気にしていた。
「叔母様はご自分の家を守りたいだけでしょう?」
「……」
「お父様が、自分の娘を金の代わりに公爵へ渡そうとしていたなんて知られたら困るからでしょう?」
「エラ!」
「だから手紙を燃やした!」
叔母様は何も答えなかった。
――それが答えだった。
私は深く息を吸った。
「……失礼します」
「待ちなさい」
「帰ります!」
これ以上、叔母様と話しても仕方がない。
私は振り返ることなく、叔母様の屋敷から駆け出した。




