8.”鼠”の青年
マーサから渡された新聞を、私は膝の上に広げた。
一面ではなかった。
――けれど、社会面のかなり大きな場所を使って、見出しが踊っている。
『“悪しき継母”シモンズ伯爵毒殺事件』
その文字を見た瞬間、胸の奥がざらついた。
記事には、お父様の死について、私が知っていることも、知らないことも書かれていた。
シモンズ伯爵ことジャック・シモンズが、自宅の寝室で死亡しているのを使用人が発見したこと。
死因は毒物の可能性が高いこと。
現場には飲みかけの酒があり、同じ夜、妻であるクロエの姿が屋敷から消えていたこと。
――そしてクロエが、かつて王都の高級娼館で働いていた女性であること。
そこまでは事実だった。
けれど、記事はその先まで書いていた。
『華やかな容貌で知られた”色男”シモンズ伯爵は、七年前、前妻アイリス夫人を病で亡くした。その後ほどなくして、当時社交界でも名の知られた高級娼婦クロエを後妻として迎えている。元娼婦から伯爵夫人へという異例の結婚だったが、近年、夫妻の関係は悪化していたとの証言もある』
「……何よ、これ」
思わず声が出た。
「関係が悪化していたって、誰が言ったの?」
マーサは首を振った。
「私にもわかりません」
さらに読み進める。
『クロエ夫人は結婚後、屋敷の使用人を次々と解雇し、前妻の娘であるエラ嬢を屋根裏部屋へ移したという。近隣では以前から、義娘への厳しい扱いを疑う声もあった』
指が止まった。
少し前までなら、私は『その通りだ』と思ったはずだ。
――クロエは使用人を追い出した。
私を屋根裏へ移した。
家事をさせた。
お母様の宝石まで取り上げた。
――だから、悪い継母だった。
でも今は、その文章がひどく薄っぺらに見えた。
使用人を辞めさせたのは、家計が破綻しかけていたから。
屋根裏には、私の机も本棚も、お母様の本もあった。
内側から鍵までかけられて、少なくとも、今の使用人部屋よりずっと快適だった。
お母様の宝石は、一つも失われず、今こうして私のところへ戻ってきている。
書いてあることは、嘘ではない。
それなのに。
「……ぜんぜん違う」
私は呟いた。
「書いてあることは本当なのに……まるで違う人のことを書いているみたい」
マーサは静かに新聞を見つめた。
記事の最後には、こう続いていた。
『美貌の伯爵と、貧しい出自からその妻の座を得た元娼婦。童話ならば身分違いの恋物語にもなっただろう。しかし、その結末は夫の毒殺と妻の失踪だった。果たして“悪しき継母”は、何を思って夫へ毒を盛ったのか――』
「……勝手なことばかり」
お父様が美しい人だったことは本当だ。
まばゆい金色の髪に、整った顔立ち、深い海のような色の瞳。
いつも整った上質な背広を着ていて、王子様のようなお父様は私の自慢だった。
――クロエが娼婦だったことも本当。
……でも、それを並べて、『美しい伯爵と、成り上がった悪妻』なんて、そういう話にされることが、なぜか腹立たしかった。
数日前までなら、私はむしろこの記事を信じたかもしれない。
クロエならやりそうだとさえ思っただろう。
けれど今は、記事の中のクロエと、私が知っているクロエが、少しずつ離れていく。
「誰が書いたの……こんな記事!」
記事の下を見る。
小さく記者の名前があった。
『アスター・スヴェナ』
「……アスター……?」
声に出してみる。
アスター……星のような形の雛菊の名前。
キラキラした、綺麗な名前ね。
そんな名前の人が、こんな俗っぽい記事を書くなんて。
「お嬢様が元気そうで何よりです。私も王都で働いておりますので、また伺いますね」
マーサは時計を見ると、自分の勤める屋敷へと帰っていった。
私は宝石箱をヘレン奥様に預けて、自分の仕事へと戻った。
◇◇◇
その三日後のことだった。
「エラ、またお客様よ」
今度は、ヘレン奥様が少し困ったような顔で私を呼んだ。
「私に?」
「ええ。……新聞記者の方よ。普段、主人がお世話になっている新聞社の方で――」
私は眉をひそめた。
「新聞記者?」
「シモンズ伯爵の事件について、あなたに話を聞きたいって」
嫌な予感がした。
「名前は?」
「アスター・スヴェナさんという記者の方よ」
私は思わず顔をしかめた。
あの記事を書いた記者だ。
「あなたが嫌なら、帰ってもらうわ」
奥様の言葉に私は首を振った。
「……いえ、少しだけ、お話させてもらいます」
あんな記事を書いた記者の顔だけでも見てやりたかった。
応接間へ入ると、背の高い若い男がソファからぬっと立ち上がった。
「初めまして」
思っていたより若い記者だ。……二十歳くらいだろうか。
栗色の柔らかそうな髪は巻き毛で、きちんと整えているつもりなのだろうけれど、何本か好き勝手な方向へ跳ねている。
服装は貴族の男性たちと比べればずっと簡素だった。
それなのに、妙に堂々として見えた。
「アスター・スヴェナです。『王都新報』で記者をしています」
「……エラ・シモンズです」
「知っています」
にこりと笑う。その笑顔が気に入らなかった。
「先日の記事を書いた方ですね。『“悪しき継母”シモンズ伯爵毒殺事件』」
「読みました?」
「ええ」
「どうでした?」
あまりにも普通に聞かれて、私は一瞬言葉を失った。
「……どうでした、じゃないでしょう」
「というと?」
「あんなふうに勝手なことを書いて」
「間違っているところがありました?」
すぐに聞き返された。
「……」
腹が立つ。
「クロエが使用人を辞めさせたことも、私が屋根裏で暮らしていたことも書いてありました」
「はい」
「それは、事実です。けれど、それには、もっといろいろな事情が……」
言ってから、私は口を閉じた。アスターの目が少し変わった。
「事情?」
「……あなたに話すことではありません」
「そこを聞きたいんです」
「嫌です」
即答した。アスターは少し驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「そう簡単にはいきませんね」
「当たり前です」
「……では、クロエ夫人についてだけでもお聞きできますか?」
「嫌です」
「お父上については?」
「もっと嫌です」
アスターは困ったように頭を掻いた。
「全部駄目か」
「全部駄目です」
私は腕を組んだ。
「……あなたたちは人の家の不幸を面白おかしく書くのが仕事なのですか? もっと書くべきことがあるのでは?」
「耳が痛いな」
あっさり認められて、拍子抜けした。
「でも、俺は事実を知りたいと思っています」
「事実?」
「はい。記事にした通り、この事件には妙なところが多い」
アスターはそれまでの軽い調子を少しだけ引っ込めた。
「夫を殺した妻が逃げた。これだけなら、よくある話です」
「……よくあるんですか」
「新聞屋にいると、たまにありますね」
アスターは頭を掻いた。
「でも、クロエ夫人は金目のものをほとんど持ち出していない。伯爵家は多額の借金を抱えていた。夫を殺して財産を得るどころか、残るものもない。それに――」
私は反射的に宝石箱のことを思い出した。
警察に追われているのに、クロエはお母様の宝石まで返した。
「……だから何ですか」
「動機がわからないんです」
アスターは私をまっすぐ見た。
「世間はもう、元娼婦の悪妻が美男の伯爵を毒殺したって話で納得しています。結局、悪女は悪女だったと……。けれど、俺は、その背後にある“何か”を書きたいと思っています」
胸がざわついた。記事を書いた本人が、そんなことを言うとは思わなかった。
「だったら、どうしてあんな見出しを?」
「読んでもらうためです」
「……最低ですね」
「よく言われます」
悪びれもしないアスターに苛立ちを感じて、私は眉間に皺を寄せた。
「貴族の方々から、我々、記者がなんと呼ばれているかご存じですか?」
「何と呼ばれているんですか?」
アスターは楽しそうに笑った。
「”鼠”です」
「……”鼠”?」
「新聞記者は、人の屋敷の隅を嗅ぎ回って、秘密を拾ってくる鼠なんだそうです」
「……確かに、”鼠”ですね。私の父は殺されたんですよ。人の不幸を嗅ぎまわって、嬉しいですか?」
「……鼠で結構です。けれど、俺は、不幸を嗅ぎまわって喜んでいるわけではない」
アスターは真剣な顔をした。
「あなたのお父上とクロエ夫人の間に何があったのかを、知りたいと思っています。だから、あなたに聞きたいことがあって、来たんです」
「何を聞きたいんですか?」
「ジャック・シモンズ伯爵が、亡くなる前に誰と会っていたのか。どこから金を借りていたのか。クロエ夫人との関係がどうだったのか。それから――七年前の前妻の死についても」
「……お母様?」
思わず強い声で聞き返してしまった。
「アイリス夫人も、毒に似た症状で亡くなっているそうですね」
「病気です」
私は即座に答えた。
「医師もそう言っていました」
私はアスターを睨んだ。
お母様も毒を盛られた?
そう言いたいの? この男は?
クロエを疑っている? ――それとも、お父様?
「帰ってください」
「エラさん」
「帰って!」
アスターは少し黙った。
「お父上の名誉を守りたいんですか」
「当たり前でしょう」
お父様は――借金があっても、高級娼婦と再婚したとしても、私のお父様だ。
私にお菓子をくれた。頭を撫でてくれた。
クロエに髪を切られて泣いたときも、『かわいそうにな』と言ってくれた。
ただ、それだけ。
……何もしてくれなかったと、今なら、思う。
でも。――それでも。
「死んだ人は、もう自分で反論できないんです」
私はアスターを睨んだ。
「だから、娘の私くらいは、お父様のことを守ります」
アスターはしばらく私を見ていたけれど、息を吐いて小さく頷いた。
「わかりました」
意外にも、食い下がらなかった。アスターは立ち上がり、帽子を手に取った。
「今日は帰ります」
「今日は?」
「記者なので、また来ますよ」
「……”鼠”みたいね」
私は思わずつぶやいた。退治しても退治してもどこからか出てきて餌をあさる鼠みたいだ。
「そう。しつこいんです」
私はため息をついた。
扉のところまで行ったアスターが、振り返る。
「でも、一つだけ」
「何ですか?」
「記事に間違いがあったなら、教えてください」
「……」
「訂正するので」
少しだけ意外だった。
もっと、自分の書いたものに自信満々な人だと思っていた。
「じゃあ」
私は少し迷ってから言った。
「クロエが使用人を追い出したというところですけど」
アスターが真剣な表情で私の返事を待っている。
「……それだけじゃない。クロエが次の勤め先まで探してあげた人もいたそうです」
アスターの表情が変わった。
「誰からその話を聞きました? 元から知っていた?」
「……言いません」
「じゃあ、確認します」
「勝手にして!」
アスターは笑って頭を下げた。
「取材協力、ありがとうございました、エラさん」
「取材には答えてません」
「一個答えてくれました」
「……もう帰ってください」
私はアスターを押し出した。扉が閉まる。
私はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
アスター・スヴェナ。人の家の隅を嗅ぎ回る鼠。
――嫌な男。
でも……あの記事を書いた本人でさえ、クロエについて何かがおかしいと思っている。
私は新聞を閉じた。
――けれど、お父様のことを調べさせるつもりはない。
お父様はクロエに殺された被害者だ。
少なくとも、それだけは――私は、まだ信じていた。




