7.マーサの証言
私は宝石箱から顔を上げると、マーサに呼びかけた。
「……マーサ」
「はい」
「クロエのこと、ほかにも何か知ってる?」
自分からそんなことを聞くなんて、少し前の私なら考えられなかった。
けれど、今は――クロエについて、もっと知りたいと思っている。
いえ、知りたいというより、知らなければという気持ちに、私は駆り立てられていた。
「……どのようなことを、お知りになりたいのですか」
「……私の知らないこと。何でもいいわ」
そう言ってから、私は少し視線を落とした。
「屋根裏のことも、宝石のことも――私が思っていたことと、もしかしたら……違ったかもしれないから」
「……そうですね」
マーサは小さく頷いた。
「では、お話しできることだけ」
「うん」
マーサは膝の上で手を重ねた。
「クロエ奥様は、旦那様とご結婚されてから、それほど経たないうちに、シモンズ家の家計状況がかなり悪いことにお気づきでした」
「そんなに早く?」
「ええ。帳簿をご覧になっていましたから」
私は少し意外に思った。
「クロエが、帳簿を?」
「よく見ていらっしゃいましたよ」
華やかなドレスに宝石。美しい黒髪。
私の中のクロエは、そういうものばかり気にする女だった。
「でも、お父様は何もしてなかったの?」
「旦那様は、家計のことを細かく言われるのがお嫌いでした」
それは想像できた。
お父様は、お金の話をされると機嫌が悪くなった。
『伯爵家には伯爵家の暮らしというものがある』
何度もそう言っていた。
「クロエ奥様は、何度も支出を減らすようお話しされていました」
「それで、使用人を辞めさせたの?」
「はい」
胸の奥が少しざわついた。
私はずっと、クロエが気に入らない使用人を追い出したのだと思っていた。
「でも……みんな、急にいなくなった」
「急ではございましたが、あのままではお給金も払えなくなるところでした」
「……」
「実際、何人かにはクロエ奥様ご自身が、次の勤め先を探しておられました」
「え?」
私は顔を上げた。
「そんなこと、知らない」
「お嬢様には、お話しになりませんでしたから」
まただ。
私の知らないところで、クロエは何かをしていた。
「じゃあ、どうしてマーサだけ残したの?」
聞くと、マーサは少しだけ笑った。
「それは、私も聞きました」
「何て?」
「『この家に、もう一人だけ使用人を残すなら、あなたにする』と」
「どうして?」
「私があの屋敷で一番長く働いていた使用人だったからです。お嬢様の面倒も小さい頃から見ておりましたし」
それだけなら、まだわかる。
でも、マーサは続けた。
「それから、こう言われました」
一度、私を見てから。
「『あの子に仕事を全部教えて』と」
私は息を止めた。
「……仕事?」
「はい。掃除も、洗濯も、裁縫も、料理も。買い物も。私にできることを、できるだけ全部、教えてくれ――と」
「そんなこと……」
「私は驚きました。伯爵令嬢であるお嬢様にそこまでさせる必要があるのか、と」
私もそう思っていた。
どうして、この家の令嬢である私がそんな使用人のやる仕事をやらなければならないのかと。何度も、毎日。
「マーサは、止めなかったの?」
「何度か申し上げましたよ。お嬢様はまだ小さいですし、いずれご結婚なさるのだから、そこまで家事を覚える必要はないのでは、と」
「……うん」
「すると、クロエ奥様は」
マーサは少し遠くを見るような顔をした。
「『令嬢として結婚できなかったらどうするの』と」
「え?」
「『伯爵家がなくなったら? お金がなくなったら? 誰もこの子を引き取らなかったら?』とも」
心臓が強く鳴った。
「そんな……」
「私は、そのときは縁起でもないことを、としか思いませんでした」
マーサは困ったように笑った。
「でも、今になってみれば……」
マーサはそこで言葉を切った。……たぶん、私の前で言いづらかったのだろう。
伯爵家はなくなった。お金もなくなった。
叔母様も、私を引き取らなかった。
クロエが口にしたことが、全部、本当になった。
「クロエは……そこまで考えていたの?」
「少なくとも、万が一のことは」
マーサはそう答えた。
私は膝の上で手を握った。
頭の中に、昔の日記の文字が浮かぶ。
クロエにやらされたこと。
洗濯。暖炉掃除。じゃがいもの皮むき。縫い物。
全部、嫌だった。
でも今、その全部でお給金をもらっている。
「勉強も?」
「はい?」
「家庭教師を辞めさせて、クロエが私を見るようになったでしょう。それも……」
もしものときのために?
「……家庭教師を解雇されたのは、旦那様です」
私は息を呑んだ。
――クロエがやめさせたと思っていた。他の使用人のように。
「お給金が高すぎる、と。使用人を辞めさせる前に、辞めさせるなら家庭教師だろうと旦那様は言っておりました」
マーサは言葉を続けた。
「クロエ奥様は家庭教師を辞めさせるなら、ご自分で教えるとおっしゃいました」
「……」
クロエが教えると言っていなかったら、私には誰が勉強を教えてくれたのだろうか。
「でも、教えるっていうより……」
「ええ。かなり厳しかったですね」
マーサも苦笑した。
「ひたすら暗唱と書き取りでしたものね」
「多かったなんてもんじゃないわ……」
私は思わず眉を寄せた。
朝から家事をして、夜はひたすら屋根裏でクロエから出された課題をこなしたことを思い出す。
家庭教師が教えてくれていた古典だけじゃない。
十二歳を過ぎたくらいからは、こんなもの読む必要があるのかというような、世間の醜聞記事が載ったゴシップの新聞までいろいろなものを読まされ、内容を三行でまとめろと言われた。
『裏路地で娼婦の連続殺人が起こった。遺体には刃物によるひどい傷が残されていた。犯人は不明』
なんて読むのも憚られる記事を読まされて、夜は刃物で殺人犯に追い回される夢を見た。
「なんで、あんなやり方だったの?」
「それは、私にも詳しくは」
マーサは少し考えてから続けた。
「ただ、クロエ奥様は以前、ご自分もそうやって覚えたとおっしゃったことがありました」
「自分も?」
「ええ。子どもの頃から、何度も書いて、何度も暗唱して覚えた、と」
私は初めて聞く話だった。
「クロエが、子どもの頃?」
「はい」
「どこで?」
「そこまでは」
マーサは首を振った。
「ただ、『一度覚えたことは、誰にも取り上げられないから』と」
私は息を呑んだ。
その言葉を、私はクロエの口から聞いたことがなかった。
私はしばらく何も言えなかった。
伯爵家の屋敷も家財も、売られてしまう。
爵位があっても、お金がなければ何も残らない。
でも。
――暖炉を掃除するやり方。服を縫うやり方。帳簿をつけるやり方。
文章を書くこと。値段を比べること。
それは、確かに今も私の中にある。
「……私、クロエに褒められたことなんて、一度もない」
ぽつりと言った。
「そうでしたね」
「何をやっても、できて当たり前みたいな顔してた」
「ええ」
「もっと上手くしろって、いつも言われた」
「はい」
「だから、嫌われてると思ってた」
マーサはすぐには答えなかった。
「私は、クロエ奥様ではありませんから」
やがて、ゆっくりと言う。
「奥様が何を思っていらしたか、本当のところはわかりません」
「……うん」
「ただ」
マーサは私を見た。
「お嬢様が大人になっても困らないように、と考えていらしたのだと……私は思っています」
胸の奥が、またざわついた。
困らないように。
その言葉が妙に重かった。
「どうして、そんなこと……」
私は宝石箱に手を置いた。
「どうして、本人には何も言わなかったのよ」
「……それも、私にはわかりません」
マーサは首を振った。
当然だ。
クロエ本人ではないのだから。
それでも――私は思い出していた。
日記に書いたことを。
『三頁を三回も書き写させられた』
『新聞を読ませて、三行にまとめろと言われた』
『買い物で三軒も回らされた』
あの頃は、私にとって、それらは全部、嫌がらせの記録だった。
今になって振り返ると――少しだけ、違って見える。
「……日記を」
「はい?」
「昔の日記、持ってきてるの」
あの日記をもう一度、読み返したくなった。
クロエが何をしたか。私はどう思っていたか。
……今なら、別のものが見えるかもしれない。
「……クロエが私に仕事を覚えさせろって言ったの、いつ?」
「旦那様とご結婚なさって、そう経たない頃です」
「……七年前?」
「ええ」
私は立ち尽くした。
その頃の私は、まだ八歳だった。
伯爵家が本当に潰れるなんて、誰も思っていなかった。
少なくとも、私は。
でもクロエは、その頃から考えていた。
いつか私が、誰にも養ってもらえなくなる日のことを。
「……どうして」
また同じ言葉が口からこぼれた。
昨日までなら、クロエのことなんて知りたいとも思わなかった。
今は違う。私は、あの女が何を考えていたのか、知りたいと思った。
マーサは目を伏せた。
「クロエ奥様は、私から見れば――世間の言うような、お伽噺の“悪い継母”のような方ではございませんでした」
マーサは鞄から新聞を出した。
見出しには『“悪しき継母”シモンズ伯爵毒殺事件』とあった。




