6.母の宝石
初めてのお給金をもらってから、数日が経ったある日の午後。
私はいつものように洗濯物を取り込んでいた。
「エラ、お客様よ」
ヘレン奥様に呼ばれて玄関へ向かうと、そこには、小さなころからずっと私の世話をしてくれたマーサが立っていた。
「マーサ!」
「お嬢様」
マーサは私を見るなり、ほっとしたように笑った。
シモンズ家を出て以来だから、会うのはひと月ぶりくらいだ。
マーサはいったん地方にある実家に戻って、そこで新しい勤め先を探すと言っていたけれど、新しく王都で勤め先が見つかったという手紙をもらっていた。
「元気だった?」
「ええ。お嬢様も、お元気そうで――」
「私も元気よ。……今はもう、お嬢様じゃないけど」
そう言うと、マーサは少し困ったように笑った。
「私にとっては、いつまでもお嬢様ですよ」
「……うん」
懐かしい声を聞いただけで、胸が温かくなる。
「マーサは? 新しいお屋敷はどう?」
「皆様、よくしてくださっています。今日はお休みをいただきまして」
「それで来てくれたの?」
「それもございますが……」
マーサの顔から笑みが消え、少し戸惑ったような表情になった。
「お嬢様に、お渡ししなければならないものがございまして」
「私に?」
「はい」
マーサは鞄から布に包まれた箱を取り出した。
「少し、お時間をいただけますか」
◇◇◇
ヘレン奥様に断って、私たちは小さな応接間を借りた。
マーサがテーブルの上に布包みを置く。
「これは、何?」
「……数日前のことです」
マーサは座らず、包みの前に立ったまま話し始めた。
「私の実家に、女の方がいらしたそうです」
「女の人?」
「ええ。私は今の奉公先におりますから、その場にはいなかったのですが、母が対応したそうで」
マーサは一度、口をつぐんだ。
「背が高く、長い黒髪の、とてもお綺麗な方だったそうです」
私は息を止めた。
「……クロエ?」
「母はクロエ奥様とは面識がございませんので、断言はできません。ただ……」
黒髪で、背が高い――美貌の持ち主。――クロエだ。
「何をしに来たの?」
「これを、お嬢様に渡してほしいと」
マーサが布をほどく。
中から現れた木箱を見て、私は椅子から立ち上がった。
「……これは!」
忘れるはずがない。
小さな薔薇の彫刻が施された黒い木箱。
「お母様の……」
声が震えた。それは紛れもなく、私のお母様の宝石箱だった。
マーサは頷いた。
「……アイリス奥様の宝石箱に違いありません。……開けてみてください」
私はゆっくりと箱へ手を伸ばした。
――鍵はかかっていなかった。
蓋を開くと、中には見覚えのある品々が並んでいた。
真珠の耳飾り。青い石の指輪。小さな花をかたどった髪飾り。それから、銀の鎖についた淡い緑色の宝石。
「ぜんぶ、残ってる……」
思わず呟いた。
七年前、お母様が亡くなったあともしばらくは私の部屋に置かれていた品々だ。
そして十二歳のとき、クロエが箱ごと持っていった。
『返して! それはお母様のものよ!』
あの日のことを、私は今でも覚えている。
クロエは宝石箱を開いて、その中から青い石の首飾りを取り出した。
お母様が特に気に入っていたものだった。
『……これ、気に入ったわ』
クロエはそう言った。
『駄目! それはお母様のよ! 大きくなったら、私にくださるって言ってたの!』
『あなたの今の“お母様”は私でしょう?』
私が泣いて訴えても、クロエは返してくれなかった。
しかも翌日には、その首飾りをつけて朝食の席に現れた。
私は悔しくて、食事も喉を通らなかった。
それからもクロエは、何度もお母様の宝石を身につけた。まるで、もうこの家の奥様は私なのよ、と見せつけられているようで、私はますますクロエを嫌いになった。
「……全部、ある」
箱の中を確認していく。
首飾りも、指輪も、耳飾りも、髪飾りも。なくなったものは、一つもないように見えた。
「マーサ」
「はい」
「クロエは……これを売らなかったの?」
「そのようですね」
「でも、お父様の借金があったのに」
あれほど金に困っていた。仕立屋や酒屋への支払いも滞り、とうとう家まで売らなければならないほどだった。この中の宝石を売れば、少なくともいくらかにはなったはずだ。
「……どうして?」
マーサは黙っている。
私は箱の中から、青い石の首飾りを取り出した。
「これ……クロエが使ってた」
「ええ」
「だったら、気に入ってたんでしょう?」
「そうかもしれません」
「なのに、置いていったの?」
首飾りを握りしめた。
クロエのことが、わからない。
「だって、クロエはこれを自分のものだって……」
そこまで言ったところで、マーサがわずかに視線を伏せた。
「何?」
「……いえ」
「マーサ」
何年も私の世話をしてくれた人だ。隠し事をしているときくらい、わかる。
「何か知っているの?」
マーサはしばらく迷ってから、静かに言った。
「旦那様が、奥様の宝石を売ろうとなさったことがございました」
「……え?」
「何度か」
「お母様の宝石を? お父様が売ろうと?」
「アイリス奥様のものだけではございません。クロエ奥様がお持ちになっていたものもです。屋敷の支払いが滞るたび、宝石商を呼んで売ろうとなさっていました」
私は箱を見つめた。
「でも……残ってる」
「クロエ奥様が、お断りになったので」
「クロエが?」
「『それは私が気に入っているから駄目』と」
心臓が、どくんと鳴った。
「……気に入ってたから、売らせなかっただけでしょう?」
自分でも、なぜこんなに必死になって否定しているのかわからなかった。
「おそらく」
マーサは曖昧に答えた。
「だって、実際にクロエはこれを身につけてたもの。新しいものだって、お父様からたくさんもらってたのに」
クロエは父から宝石を贈られていた。
赤い石の指輪や、真珠の首飾り、大きな宝石のついた耳飾り。派手なものばかりだった。
けれど、思い返してみると、クロエが普段よく身につけていたのは――。
「……なのに、お母様のものばかり身につけて……」
私への当てつけだと思っていた。
お母様のものは、もう私のものだ――そう見せつけるために、お母様の宝石ばかり身につけていたのだと思っていた。
「どうして、そのまま残っているの?」
「使用人に過ぎない私には、奥様のお考えはわかりません」
マーサは穏やかに答え、それ以上は何も言わなかった。
私はもう一度、箱の中へ目を落とした。
クロエが父からもらった宝石は、一つも入っていない。これはお母様の宝石箱なのだから、当然といえば当然だ。
でも、お母様が私に残したものは、全部ある。
首飾りの鎖が、掌の中でひやりと冷たかった。
『これ、気に入ったわ』
あのときのクロエの顔を思い出す。
何でもないことのように、私が泣いても平然とそう言った。
でも、もしクロエが「自分のもの」にしていなければ。
お父様はこの宝石を売ってしまっていた――?
胸の奥が冷たくなる。
お母様が『大きくなったら、エラにあげるわ』と言っていた宝石。
それが今、私のところに戻ってきた。
クロエは逃げている。警察に追われ、きっとお金だって必要なはずなのに、宝石を一つも持っていかなかった。……わざわざマーサの実家に返しに来た。
「……どうして」
思わず声が漏れた。
頭の中にはあの屋根裏部屋が浮かんでいた。
一人で使える部屋に、机と本棚があり、お母様の絵本やぬいぐるみも移されていた。夜には内側から鍵をかけることもできた。
そして今、目の前にはお母様の宝石箱がある。
どちらも私は、クロエに奪われたものだと思っていた。
屋根裏へ追い出されたのだと思い、宝石は取り上げられたのだと思っていた。
でも――。
私は首飾りを箱へ戻し、ぱちんと蓋を閉じた。胸の奥に生まれた考えまで、そこへ閉じ込めるように。
「……クロエは、お母様の宝石を守っていた――?」
口にしてから、すぐに首を振った。
「違うわ。気に入っていただけよ。……そうでしょう?」
マーサは首を振った。
「……私には、クロエ奥様のお考えまでは」
「そうよね」
私は自分に言い聞かせるように頷いた。
屋根裏の部屋も、宝石も、たまたま別の理由があっただけだ。
だってクロエは、お母様の居場所を奪った女だ。
お父様を殺した女だ。
……そんな人が、私を守っていたなんて。
それでも、膝の上の宝石箱から目を離すことができなかった。
クロエには、私の知らない何かがあるのかもしれない。
初めて、そんな考えを否定しきれなかった。
「マーサ、この宝石箱を持ってきた女のことを、警察に言った?」
「……はい……」
私はマーサを見つめた。
「そうよね。ありがとう」
貴族を殺した場合は、死刑になるはずだ。
……クロエは捕まって、罪を償うべきだ。
それは、そうなのだけど……。
私はお母様の宝石箱を見つめて、俯いた。




