5.灰かぶりの技能
私がグレイ夫妻の家で働き始めて、あっという間にひと月が経った。
最初の三日ほどは、何をするにも緊張していた。
主人の家の物を壊さないように。失礼がないように。使用人として笑われないように。
――でも。
ひと月経った今、私は自分でも驚くほど、使用人としての生活に馴染んでいた。
「エラ、暖炉をお願いしてもいい?」
「はい」
朝、リジーに声をかけられた私は、袖をまくり、火かき棒と灰入れを持って客間へ向かった。
昨日の薪はほとんど燃え尽きている。
残った炭を避け、灰を掻き出す。
火床の奥までブラシを入れて、煤を落とす。
新しい薪を組み、火種が空気を吸いやすいよう隙間を空ける。
そして、火をつける。
ぱち、と小さな音がして、赤い火が大きく燃えた。
「……早いね」
背後から声がした。
振り返ると、リジーが感心した様子で立っていた。
「そう?」
「あたしより、早いし……上手かも」
「そんなことないでしょう」
「いや、あるって。最初の日から思ってたけど、エラって本当にお嬢様だったの?」
「……どういう意味?」
「だって、暖炉掃除うますぎるもん。あたしの知っている人の中で、暖炉掃除競争したら、エラが優勝だよ」
褒められているのか、疑われているのかわからない。
「やったことがあるだけよ」
「伯爵令嬢が?」
「……クロエに、やらされていたから」
「ああ。例の継母?」
私は苦笑した。“例の継母”……歯に衣を着せない言い方だ。
夫のシモンズ伯爵を毒殺した元高級娼婦として、クロエはゴシップの格好の話題の種になっていて、有名人だ。
――けれど、これくらい率直に話してくれた方が、私も気が楽ではある。
リジーは、そういう意味では裏表のない、話しやすい女の子だった。
「ええ」
私は火かき棒を置いた。
袖口を見ると、少し灰がついている。
十歳の頃――初めて暖炉掃除をした日を思い出した。
『髪は灰で白くなって、暖炉の残り火で指を火傷した』
日記にそう書いた。
クロエは泣いている私を見ても、
『医者にかかるほどじゃないわ。そのくらいで泣かないの』
と薬箱と包帯を放り投げて、自分で火傷に効く薬を選んで包帯を巻けと言ってきた。
――本当に、嫌な女。
「エラ?」
「何でもない」
私は灰を払って立ち上がった。
「次、どこ?」
「食堂の暖炉」
「わかった」
リジーも、グレイ夫妻も、私が暖炉掃除が上手だと褒めてくれる。
何をやっても、一言も褒めてくれなかったクロエとは違う。
◇◇◇
私が褒められたのは暖炉掃除だけではなかった。
「きゃあああ、エプロンに染みができちゃったあ」
厨房を掃除中に、ソースを服につけてしまったリジーが叫んだ。
水でごしごし擦っても、落ちないようだった。
「先に石鹸を直接つけて、少し置いてから洗った方がいいわ」
リジーは私を見つめて、目を見開いた。
「そんなことまで知ってるの?」
「……クロエに言われたから」
クロエの名前を出すたびに、なんだか負けたような気持ちになった。
でも、知っているものは仕方ない。
そしてまた、別の日。
私はヘレン奥様のドレスの裾がほつれているのを見つけた。
「あら、いつの間に。どうしようかしら……次に仕立屋さんに行くのは先ねえ」
私は夫人に申し出た。
「奥様、直しましょうか?」
「できるの?」
「……はい」
裁縫箱を借りる。
糸の色を合わせて、表から目立たないように細かく縫う。
布を引きつらせないよう、指で整えながら進める。
ヘレン奥様は隣でじっと見ていた。
「……ずいぶん慣れているのね」
「マーサに教わりました」
「マーサさんに?」
「クロエが、覚えておけと言ったので」
「そう」
ヘレン奥様は少しだけ目を細めた。
私はその視線が気になった。
「何ですか?」
「いいえ」
「……」
「ただ、随分いろいろ教えられていたのね」
「教えられたというより、やらされたんです」
少し強く言った。
「毎日です。縫い物も、洗濯も、掃除も」
「そう」
ヘレン奥様はそれ以上何も言わなかった。
私は、厨房でも役に立てた。
グレイ家には料理人が一人いるけれど、朝食や簡単な昼食は使用人が補助する。
「じゃがいも、お願い」
「はい」
ナイフを持って皮を剥く。
昔は何度も指を切ったけれど、今では、手が勝手に動く。
――薄く、早く。
無駄なく。
「うわ」
リジーが横から覗き込んだ。
「何?」
「速い」
「普通でしょう」
「普通じゃないって」
「そう?」
リジーは自分の剝きかけのじゃがいもを見て、ため息をついた。
「……あたしの知り合いでじゃがいもの皮むき競争があったら、エラが優勝よ。きっと」
リジーは拍手した。
「暖炉掃除競争、お洗濯の染み抜き競争、じゃがいもの皮むき競争……ぜんぶエラが優勝だよ。総合優勝だね」
「……それ、優勝したら、何かもらえるの?」
「えぇと……あたしが歌を歌ってあげる」
リジーがこほんと咳払いをした。
「おめでとおぉ、エラぁ、優勝~、おめでとおー」
「……リジー、皮むきをして」
思わず笑って、それから顔を真顔に戻した。
――クロエの声が頭に響く。
『厚く剥いたら食べるところが減るでしょう。もったいない』
『ちゃんと刃を見なさい。あんた、人に自分の血が入ったスープ飲ませる気?』
……また。
私は包丁を持つ手に少し力を入れた。
◇◇◇
買い物を任されたのは、翌月だった。
「これをお願い」
ヘレン奥様から買い物の一覧と財布を渡される。
小麦粉。卵。石鹸。糸。蝋燭。
――屋敷で使う、日用品だ。
「いつもの店はこちらだけれど」
夫人が店の名前を教えてくれる。
「全部そこで買うんですか?」
「え?」
「石鹸と蝋燭は、少し離れた店の方が安いかもしれません」
「知っているの?」
「前に市場へ行ったことがあるので」
ヘレン奥様は少し驚いた顔をした。
「じゃあ、任せてみようかしら」
「はい」
私は市場へ出た。
店先の値札を見る。
一軒、二軒、三軒――同じ品でも値段は違う。
『最初の店で決めるんじゃないわよ』
また頭の中にクロエが出てきた。
『三軒は見てから買いなさい』
言われるまま三軒回った昔の自分を思い出す。
――当時は恥ずかしかった。
伯爵令嬢が市場で値段を比べるなんて、と。
今は違う。
財布の中の金は、グレイ家のお金だ。
少しでも無駄にしない方がいい。
市場のお店を見比べた結果、予定より少ない金額で全て揃えられた。
屋敷へ戻り、残金と領収書を差し出す。
ヘレン奥様が確認して、目を丸くした。
「こんなに残ったの?」
「はい。小麦粉はこちらの店、石鹸は別の店の方が安かったので」
「品質は?」
「石鹸は同じ商品ですし、小麦粉の産地は同じです」
夫人はしばらく私を見ていた。
「……あなた、本当に初めて奉公に出たのよね?」
「はい」
「……そう」
また、その言い方。
なんなのだろう。
◇◇◇
その日の午後――私は書斎へ呼ばれた。
「エラ、ちょっとこれを見てくれる?」
アルバート様が机の上の紙を示した。
「何ですか?」
「買い物の帳簿だ。ヘレンが、君は数字が得意だと言っていたからね」
「得意というほどでは……」
紙を覗き込む。
日付。品目。支払額。残金。
私は項目を目で追って、首を傾げた。
「……ここ、合っていません」
「どこ?」
「この行です。足すと銅貨二枚分、多いです」
アルバート様が計算し直す。
「本当だ」
「それから、こっちは前の頁からの繰越額が違います」
「そこまでわかるのか?」
「帳簿は何年もつけさせられていたので」
「伯爵家で?」
「はい」
「誰に?」
「……クロエに」
アルバート様とヘレン奥様が顔を見合わせた。
私はそれが気に入らなかった。
「何ですか?」
「いや」
アルバート様は苦笑した。
「クロエ夫人は、随分実用的なことを教えていたんだなと思って」
「実用的?」
「ええ。読み書き、計算、帳簿、家事。働くにはかなり役に立つ」
「……」
私は黙った。
……働くには。
その言葉が胸に引っかかる。
クロエは本当に、最初から私を働かせるつもりだったのだろうか。
◇◇◇
翌日には、手紙の清書まで頼まれた。
「字が綺麗ね」
ヘレン奥様が言った。
「書き取りをたくさんやらされたので」
「クロエ夫人に?」
「……はい」
「文章も整っているわ」
ヘレン奥様が少し笑った。
私は何も答えなかった。
クロエにいろいろとやらされたことで、私は褒められる。
――ぜんぶ、『ひどい』と思っていたことばかり。
意味がないと思っていたことばかりだ。
◇◇◇
その夜――初めての給金を受け取った。
先月働いた分だ。……まだ見習い期間なので、額は多くない。
それでも――私が働いて得た、初めてのお金だった。
小さな硬貨を掌に載せる。
妙な重さがあった。
「どう?」
横からリジーが覗き込む。
「何が?」
「初給金」
「……変な感じ」
「嬉しくない?」
「嬉しいけど」
私は硬貨を握った。
伯爵家の屋敷にいた昔の私は――掃除をさせられた暖炉の前で灰だらけになりながら泣いた。
私は伯爵令嬢なのに。なんでこんなことをしないといけないの?
そう思っていた。
――でも今。
その灰を払った手で、自分のお金を握っている。
「エラ?」
「……何でもない」
私は硬貨を小さな袋へしまった。
胸の奥が、またざわついた。
クロエに感謝なんてしたくない。
あの人は、お母様の場所を奪った。
お父様を殺した。
もしかしたら、お母様も――?
クロエは――私をずっと苦しめた。
それなのに。
どうして私は今、あの人に教えられたことで生きているのだろう。
私は袋の口をきつく結んで、夜の真っ暗な窓を見た。
――どこにいるのよ、クロエ。




