4.使用人部屋
私は使用人として働くため、王都で弁護士をしているグレイ夫妻の屋敷に着いた。
グレイ家の屋敷は、シモンズ伯爵家の屋敷よりずっと小さかった。
けれど、玄関を入った瞬間に感じたのは、狭さではなく、明るさだった。
磨かれた床。きちんと整えられた花瓶。
廊下の端まで埃ひとつない。
伯爵家のように大きな絵画や彫刻が並んでいるわけではないけれど、必要なものが必要な場所にきちんと置かれている。
――なんだか、落ち着く家。
「こちらよ」
ヘレン夫人について階段を上がる。
二階にはグレイ夫妻の寝室や書斎があり、さらに奥の細い階段を上ったところに、使用人たちの部屋があった。
「ここが、あなたのお部屋です」
「はい」
扉を開け、私は思わず立ち止まった。
部屋には、小さなベッドが二つ並んでいた。
その間に、小さな机。
壁際に衣装箱が二つ。
窓はひとつ。――本棚はない。
鏡も、小さなものが壁に掛かっているだけだ。
「……二人部屋なんですか?」
思わず聞いてしまった。
ヘレン夫人が私を見る。
「ええ。もう一人、あなたと同じくらいの年のメイドがいるの。リジーという子よ」
「そう……なんですね」
――使用人なのだから、当たり前なのかもしれない。
そう思いながら部屋へ入る。
ヘレン夫人が左側のベッドを指した。
「こちらを使ってちょうだい。衣装箱も空けてあります」
「はい」
私は荷物を置いた。
持ってきた荷物を部屋に入れると、ちょっと動くだけでぶつかってしまいそうだった。
早く片付けなきゃ――
「あの……」
そこで私ははっとして夫人を見つめた。
「何かしら?」
「鍵は?」
「鍵?」
ヘレン夫人は少し不思議そうな顔をした。
私は部屋の扉を見つめた。ドアノブはあるけれど、鍵はない。
「ありませんよ」
「……ないんですか?」
「使用人部屋ですもの。必要なら貴重品は私が預かります」
「そうですか……」
頭の中に、シモンズ家の屋根裏部屋が浮かぶ。
クロエに押し込まれた屋根裏部屋には、鍵があった。
しかも内側からかけられるものが――
「どうかした?」
不思議そうな顔の夫人に、私は首を振った。
「……何でもありません」
◇◇◇
「あなたがエラ?」
少しして、部屋へ若い女の子が飛び込んできた。
私より一つか二つ年上だろうか。
赤みのある茶色い髪を後ろでまとめ、白いエプロンをつけている。
「あたしはリジー。よろしくね」
「エラです。よろしくお願いします」
反射的に丁寧に言うと、リジーが笑った。
「そんなにかしこまらなくていいって。同僚なんだからさ」
「でも……」
リジーは好奇心いっぱいの目で私を見つめた。
「……エラってお嬢様だったんでしょう?」
胸がちくりとした。
「……ええ」
「すごいよね。伯爵家のお嬢様と同じ部屋になるなんて思わなかった」
「今は……私もメイドです」
少し強く言ってしまった。
リジーは気にした様子もなく、「そうだね」と頷いた。
それから私の荷物を見る。
「少ないね」
「そうですか?」
「うん。私はもっと持ってきた。まあ、ほとんど服だけど」
リジーは自分の衣装箱をぽんと叩いた。
「本とかは?」
「あります」
「読書するんだ」
「好きです」
「じゃあ大変ね。本棚ないから」
「……そうですね」
そう言われて、また屋根裏の部屋を思い出した。
……あそこには本棚があった。
小さい頃にお母様が読んでくれた絵本も、全部入っていた。
机もあった。
窓も、ここよりずっと大きかった。
「前の家では、自分の部屋だったの?」
「屋根裏です」
「屋根裏?」
「はい」
リジーの目が丸くなる。
「一人で?」
「ええ」
「いいなあ」
「……え?」
「一人部屋だったんでしょう?」
「でも、屋根裏ですよ」
「それでも一人部屋じゃない」
リジーは本気で羨ましそうに言った。
「私なんて、前に働いてた家じゃ四人部屋だったよ。ここは二人だからまだいい方」
「四人……」
「夜なんて誰かが寝返り打つたびにベッドがぎしぎし鳴るし、喋りたい子がいるとずっと喋ってるし」
リジーは笑った。
「一人で寝られるなんて、贅沢だよ」
「……」
――贅沢。
その言葉に、私は何も返せなかった。
屋根裏へ移された日、私は泣いた。
とうとう本当に使用人扱いされたと思った。
でも――実際の使用人部屋を見ると、あの屋根裏部屋は、きちんとした部屋だった。
私の屋根裏部屋には、机があった。
本棚があり、お母様の読んでくれた絵本、ぬいぐるみも全部移されていた。
内鍵まであった。
(――クロエは、私を……)
頭に浮かんだ言葉を、「違う」と打ち消すように首を振った。
◇◇◇
その日の仕事は、屋敷の中を教えてもらうことから始まった。
厨房。洗濯場。食料庫。主人の寝室。
客間。書斎。
――それぞれに掃除の仕方が違う。
「ここは毎朝。こっちは二日に一度でいいわ」
ヘレン夫人が説明する。私は頷きながら覚えた。
「暖炉は?」
「朝一番に灰を取ってから火を入れて」
「わかりました」
「やったことあるの?」
「……あります」
答えると、ヘレン夫人が少し驚いた。
「そう」
それだけ言って、次へ進んだ。
どれも、クロエにやらされたことばかりだった。
そのおかげで、説明されることのほとんどがすぐに理解できる。
頭の中に黒髪の女の姿がちらついて、私は苛立った。
◇◇◇
夜――仕事を終えた私は、リジーと二人で部屋へ戻った。
硬くて小さいベッドに腰かける。
リジーは向かいのベッドで靴を脱ぎながら言った。
「疲れた?」
「……少し」
「最初はそんなものだよ」
「リジーは、ここで何年働いているの?」
「二年。十三のときから」
「十三歳から?」
「うん。実家、兄弟が多くて。あたしは長女だから」
当たり前のように言った。
「お給金は少し家に送ってる」
「……そうなんだ」
私はまだ十五歳だ。
だから働いたことがなくても仕方がない――そう思っていた。
けれどリジーは、十三歳から働いている。
胸の奥が少しざわついた。
リジーは明かりを落とし、毛布に潜り込んだ。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
部屋が暗くなる。
私はなかなか眠れなかった。
隣のベッドから、リジーの寝息が聞こえる。
人の気配がこんなに近いのは、久しぶりだった。
目を閉じると、昔の屋敷の光景が思い出される。
父が友人を呼んだ夜は、一階から大きな笑い声がしていた。
酔っぱらった男の声。
知らない女の笑い声。
使用人たちが忙しく廊下を行き来する足音。
私は屋根裏の部屋で、それを聞いていた。
『今日は絶対に下へ降りるんじゃないわよ』
クロエに何度も言われた。
『お父様に呼ばれても?』
『駄目』
『どうして?』
『子どもが出ていく場所じゃないからよ』
私は腹を立てた。
お父様が楽しそうにしているのに。
私だけ仲間外れにされているように思えた。
でも――
今になって思えば、屋敷で騒いでいたのは父の友人たちだけではなかった。
夜遅くに、着飾った女性たちが屋敷に入ってくるのを窓から見たことがある。
翌朝には、廊下に酒瓶が転がっていた。
寝室の近くまで、大人たちの笑い声が響いていたこともある。
――屋根裏だけは、静かだった。
二つの階段を上った、父の宴会から一番遠い場所。
しかも、内側から鍵をかけられた。
私は暗闇の中で目を開けた。
どうして。
どうして、クロエは私をあそこへ移したの?
私を使用人扱いするなら――本当に使用人の部屋へ入れればよかったじゃない。
クロエはマーサを残して使用人を皆、解雇してしまった。
だから、使用人の部屋は余っていたのに。
一人部屋を与える必要なんてない。
本棚も。机も。お母様の本も。ぬいぐるみも。
――鍵も。
――全部あった、あの屋根裏部屋は……
本当に、私を追い出すための部屋だったの?
胸の奥に、小さな棘のような違和感が刺さった。
私はそれを振り払うように毛布を頭まで被った。
――違う。
きっと、たまたまだ。
お父様が、本当の使用人部屋に私を押し込むなんて許さなかったからだ。
だから、屋根裏部屋に押し込んだだけだ。
……クロエが私のために何かしたなんて。
そんなこと、あるはずがない。
そう思いながら目を閉じた。
――けれどその夜は、なかなか眠れなかった。




